先に豊臣秀吉や明智光秀のルーツについてお話致しましたので、やはり織田信長と徳川家康についてもお話しなければならないでしょう。
 織田信長と徳川家康周辺の人物には秀の字を偏諱とする人物が多いですねえ。
 信長の父は信秀、信長の母方祖父は土田秀久、信長配下の武将であった林秀貞・丹羽長秀・明智光秀・羽柴秀吉、信長に抵抗した松永久秀や雑賀孫市として識られる鈴木重秀とか家康から将軍職を譲られた徳川秀忠などです。
 これは決して偶然ではなく、同じ時代を生きた人物らが互いにシンクロする時に現れる現象で、偏諱を通ずるのは往時の武家社会では重大な意味が有ったのです。
 徳川家康の高祖父となる松平長親は今川の客将となった伊勢宗瑞、後に実力で伊豆・相模を切り取って戦国大名の走りとされる北条早雲のことですね、伊勢宗瑞は三河・額田郡下に在った松平長親の構える岩津城を囲んでいますが、この松平長親の母方祖父を鈴木重勝と伝え、織田信長が近畿一帯を制圧するのに最も時間を費やした一向宗徒らの総本山・石山本願寺に与して信長に敵対した雑賀孫市こと鈴木重秀は家康の高祖父となる人物の母方祖父に該る鈴木重勝とは浅からぬ縁が有りました。
 松平氏の発祥地となる三河・賀茂郡下には鎌倉時代から高橋荘を営む中条氏と云う武家が在りましたが、この中条氏の配下であった藤白鈴木家は紀伊・名草郡藤白浦を本拠とする水軍の将として識られた一族の流れを汲む武家でした。
 藤白鈴木家を生家とする鈴木重家は源義経の郎党として奥州藤原泰衡に討たれた主とともに平泉で玉砕・散華しています。
 藤白鈴木家の本拠の在った紀伊は鎌倉より単独上京した北条時政が後白河法皇に迫り全国に守護・地頭を設けることを勅許される1185年より以前に、義経の郎党であった豊嶋有経が平家追討の為に兵糧米を徴収するといった事実上守護と同じ権限を認められており、豊嶋有経の末裔は水軍の武家として紀伊に残りましたが、鎌倉幕府が初めて正式な紀伊守護として補任したのは佐原義連でした。
 佐原義連は頼朝が伊豆で平家打倒を目指して決起するや頼朝に呼応し、平家の与党であった武蔵の武将である畠山重忠に衣笠城を囲まれ玉砕した三浦義明の子と伝え、通称を十郎と伝えます。
 この佐原義連であるか、はたまた義経の郎党であった伊勢義盛であったか、両者の何れかが一ノ谷合戦での鵯越えを義経に進言したとされ、『義経記』は伊勢義盛を"伊勢のかんらいの義連の子"と叙べている点、伊勢・度会郡に出先を設けていた佐原義連の子が伊勢義盛であったと思われます。
 父の佐原義連は十郎で子の伊勢義盛は三郎と伝えますが、平家を滅ぼした大将である義経は九郎でした。
 鎌倉幕府創業の功臣と謳われた三浦義明の遠祖を平忠光・三浦忠通父子と伝えますが、関東の将兵らから武家の棟梁と仰がれた八幡太郎義家の母方祖父となる平直方は義家の父・頼義に鎌倉の私邸を寄贈したと伝えながら専ら在京していたと伝え、朝廷の膝許に在った武家ながら関東にも縁の有った平直方なる者の素姓を思うと、頼義の伯父として朝家に武名を揚げた源頼光の郎党である碓井貞光や『今昔物語集』に現れる頼光の郎党・平貞道などの称を並べて勘考し、平忠光(ただみつ)・三浦忠通(ただみち)、碓井貞光(さだみつ)、平貞道(さだみち)らの諱は実在した同一人物を写像した複数の虚構と思われ、複数の虚構を重ねて実在した人物と義家の母方祖父として伝える平直方はまた同一人物による表裏の変名と推測されるのです。
 義家の母方祖父となった武家と同一人物であった筈の源頼光の郎党であり、相模の豪族となった武家の三浦氏の遠祖となる人物は誰であったかと考えますと、頼朝の平家打倒決起に呼応して相模の地で決起し鎌倉幕府創業の功臣と謳われた三浦義明の菩提寺である神奈川県横須賀市大矢部の満昌寺が伝えた三浦氏の系図に三浦郡と隣接する鎌倉郡一帯に拡がった武家の祖を平公雅と伝えていることが大きなヒントを与えてくれます。
 平将門の従兄であった平公雅の娘を母とする人物が先にこのブログで明智光秀や豊臣秀吉らの遠祖となる有道惟能(これよし)なる朝廷の吏僚であり、藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の嫡子・伊周(これちか)の家令を務めながら、道長が左大臣に就く年に自ら武蔵山間の僻地に在った官営牧場の監督官として野に下った有道惟能の従兄として伝える人物に定直という名が見られ、この有道定直こそ源義家の母方祖父となる平方であり、源頼光の郎党であって且つ三浦氏の祖となる碓井光=平忠光・三浦忠通父子であったと考えられます。
 有道定直を真の祖とする相模の豪族・三浦氏は摂関政治の全盛期に関東最大の兵力を擁するほど発展し、有道定直の従弟であった惟能は半生を朝廷の吏僚として過ごした為か、惟能の孫の代になって漸く武蔵・上野といった北関東で発展し始めています。
 明智光秀や豊臣秀吉らの遠祖となる武家は武蔵・児玉郡四方田郷を領地としましたが、四方田氏の遠祖は有道惟能の長孫となる弘行で、弘行の末裔は児玉郡から武蔵中央部に位置する入間郡に繁衍し、鎌倉時代に多く北条得宗家の被官となっています。
 弘行の弟・経行は祖父・惟能が監督官として京より下った児玉郡山間僻地の官営牧場を拠点としていましが、源義家より河内源氏の惣領の地位を継承した義忠は義家の弟・義光に謀殺され、頼信ー頼義ー義家の三代に亘る河内源氏惣領の居館として石川郡下に在った香炉峰の館は頼朝の祖父となる為義によって実力で接収され、義忠の遺児・経国は叔父の義国に扶育されることとなったのですが、そうした経国に娘を宛てがった者が武蔵・児玉郡下の山間僻地を本拠とした有道経行でした。
 頼朝の曽祖父となる義親は義家より河内源氏惣領の地位を継承した義忠の兄でしたが、度重ねての殺人の罪科に因り朝廷の命令を受けた平家の祖・正盛によって討たれ、有道経行の娘を迎えた経国は実に義家より河内源氏惣領の地位を継承した義忠の子として平正盛の娘を母とする源平の血脈を交えた武家のサラブレッドだったのです。
 為に、経国は有道経行の娘を迎える以前に藤原経実の娘を正室としており、白河院政期の摂関家である藤原師実の子として後白河法皇の子となる二条天皇の母方祖父であった藤原経実の娘を正室とした経国に娘を贈った有道経行は自らの本拠である武蔵・児玉郡下の官営牧場と丘陵を挟んで隣接する地に経国が営む荘園を興させています。
 河内荘と号して立券された荘園の在った地は利根川支流となる小山川を遡った山間の畔に河内という地名で現代に伝えられています。
 この河内荘を開いた経国こそ源義経の祖父となる人物で、頼朝は義経の曽祖父である義忠の兄・義親の曽孫となる人物でした。
 『河源記』と題した経国の事跡を伝える古書は経国が有道経行の娘から儲けた子に経忠なる者が在ったとし、この経忠こそ九郎義経の真の父であったと思われます。
 経国は正室となる藤原経実の娘から盛経という者と蓮俊なる僧名を伝えた子を生しており、盛経は平清盛の祐筆を務めたとする伝承を聞かせ、父・経国の母方祖父が平正盛であったれば叶う話で、盛経の末裔は紀伊・日高郡下の野長瀬荘を拠点として後世に残り、義経の郎党・武蔵坊弁慶を日高郡の生れとする伝承を聞かせる点、盛経の同母弟となる蓮俊なる僧名を伝えた者が弁慶であったと思われます。
 平正盛の外孫となる経国を父とした盛経が平清盛の祐筆を務めたとする伝承は盛経と胎違いの弟となる経忠を父とした義経の母・常盤御前が朝廷の女官であった云う伝承を納得させ、義経と父母を等しくする阿野全成が頼朝の父・義朝が平治の乱に敗れた後にも拘らず平清盛の孫らとともに京・伏見の醍醐寺で幼少期を過ごしている疑問を解いてくれます。
 すると、九郎義経の郎党であった伊勢義盛が相模を本拠とした三浦義明の子・佐原義連のそのまた子であったならば、如何なる経緯で伊勢義盛は義経に仕えるようになったのでしょうか?
 面白いことに上野・碓氷郡板鼻郷に伊勢義盛の邸址とする遺碑を見せ、有道経行の兄・弘行の末裔は武蔵・児玉郡下の利根川に臨む平野部に進出していったのに対し、経行の末裔は今の群馬県高崎市辺りから碓氷峠麓辺りまで拡がっています。
 三浦氏の祖が有道定直であったならば、三浦義明の長孫・和田義盛の曽孫とする業盛が鎌倉時代に初めて高崎城を築いたとする伝承を聞かせ、出自を等しく有道氏とした北関東の武家らと相模の武家らが眷属関係を軸にして盛んに封土のトレードを計っていた観を得ます。
 紀伊・日高郡下の野長瀬荘を拠点とした武家の祖となる盛経は父・経国が開いた武蔵・児玉郡下の河内荘と父の岳父であった有道経行が本拠とした官営牧場を結ぶ途上の児玉郡稲沢郷を領地としたと伝え、同地には今も稲聚神社と号する社が見られ、義経とともに平泉で玉砕した鈴木重家の生家である紀伊の藤白鈴木家から岐れた水軍の武家・江梨鈴木家は伊豆半島の稲取岬を拠点とし、戦国時代には小田原北条氏の配下として活躍しています。
 平安時代から関東らの封建領主らが水運を活用していた可能性を強くし、義経にとって真の祖父となる経国が開いた河内荘を流れる小山川を下ると利根川と合流し、江戸幕府が利根川を鬼怒川と結んで流路を更える以前の旧利根川は現在の都下を流れる中川に該り、中川流域を領地とした豊嶋有経が義経の配下として源平合戦を戦った後も水軍の武家として紀伊に留まり、義経の郎党であった弁慶が父の胎違いとなる兄・蓮俊として紀伊に生れ、やはり義経の郎党であった伊勢義盛の父・佐原義連が鎌倉幕府より紀伊守護に補任されていることからも、北関東に縁有る義経が南関東に縁有る伊勢義盛を郎党とし、義盛もまた北関東に邸を構えた所以に納得します。
 伊勢義盛が通称を三郎とし、義盛の父・佐原義連が十郎とするのは意味を深くし、九郎義経の郎党となった義盛が三郎を称えたことは有道経行がまた三郎であったことと関係が有る筈です。
 有道経行の子・行重は上野・多胡郡多比良郷を領し、行重の子・行時は多胡郡片山郷を領していますが、この行時こそが『愚管抄』巻第六にて北条時政について言及した段落に現れる"ミセヤノ大夫行時"であり、『義経記』にて洛北郊外の鞍馬山中で育った九郎義経を奥州藤原秀衡の許に送り届ける京・四条の金売吉次であって、『愚管抄』巻第六はミセヤノ大夫行時が比企能員に娘を稼し、別の娘を児玉党の武士に稼していたと意味深長な証言をしています。
 行時の末裔は多胡郡奥平郷を領した奥平氏となっていますが、足利尊氏とともに京・六波羅南北両探題を攻めた赤松則村はこの奥平氏より岐れた武家でした。
 有道経行の子として行重の弟となる行高は上野・甘楽郡小幡郷を領しましたが、江戸幕府から豊前・中津藩主に封じられた奥平氏は福沢諭吉翁の主家で、福沢翁が慶應義塾の経営をともにした小幡篤次郎もまた豊前・中津藩士であって、篤次郎と藩主との関係は上述のような古い縁であった訳であり、江戸時代に勘定奉行を務めた小幡氏の祖となる行高が派した武家が下野・都賀郡下の小山荘より発祥した小山氏の祖となる太田政光や二階堂行政らであって、二階堂氏が藤原南家祖三子・乙麻呂流となる為憲の末裔とするのは僭称に過ぎません。
 かように有道経行の系統からは鎌倉幕府で際立つ武家を輩出していますが、九郎義経に仕えた伊勢義盛が三郎を称したのは有道経行が三郎であった為で、義盛の父である佐原十郎義連が実に三浦義明の子ではなく、三浦氏と出自を等しくする北関東の同族から猶子として迎えた者が佐原義連であったと思われます。
 相模・三浦郡を支配した三浦義明の子らは三浦半島一帯に散らばって家を興していますが、平家与党たる畠山重忠の軍勢に囲まれた衣笠城の在る丘陵から南に延びた舌状台地の中ほど西側麓に三浦義明の菩提寺である満昌寺が見られ、義明の生前における居館址と推測され、舌状台地の尖端に位置する佐原郷を領した義連が義明より三浦氏惣領を継承した義澄と肩を並べるような封土を領している点、三浦一族において義連が客将的待遇を得ていたものと考えられ、しかも通称を十郎と伝えていることは舌状台地を挟んで満昌寺と反対側となる東側の台地麓で東京湾に注ぎ三浦半島で随一の流域面積を示す平作川が屈曲して渡す架橋を五郎橋と号することから、佐原十郎義連が有道三郎経行の実子でありながら南関東の同族へ猶子として送られた者であって、三郎>五郎を2倍した渾名を称えたものと考えられます。
 三浦半島随一の河川が屈曲して渡した架橋を俯瞰する舌状台地に妙覚寺と号する寺院が見られ、安房で生誕した日蓮が出生地の近郷を支配する領主の支援を被り、外房に妙覚寺と号する寺を建立した佐久間氏は安房・平群(へぐり)郡狭隈(さくま)郷に発祥した三浦氏の一族で、織田信長の配下に在った佐久間信盛もまたこの武家の流れを汲み、信長が斃れた本能寺と隣接する日蓮宗の由緒寺院・妙覚寺に投宿した信長の嫡子・信忠は伊勢貞興によって討たれています。
 三浦半島を流れる随一の川が屈曲する地に渡した五郎橋を俯瞰する台地上に妙覚寺と号する寺院を見ることはこの地が佐原義連の子であると思われる真下基直の領した地であると推測され、武蔵・児玉郡真下郷を領した基直は実父となる佐原義連の尊属である有道経行の卑属・行時の娘婿として北関東に転じたものと思われ、このことを示したものが『愚管抄』巻第六の叙述であり、古書に依って真下基直を基行と記すものが在るのはその為で、この真下基直こそ北条時政と思われます。
 通称を五郎と伝える真下基直は有道惟能が仕えた藤原伊周の弟・隆家より6世とする池禅尼の子・平頼盛の領地であった駿河郡下の大岡牧を管理する池禅尼の兄・宗親を頼んで伊豆の国衙に出入りするようになったものと推測され、有道氏が仕えた中関白の血脈たる牧宗親の親族である牧ノ方は北条時政晩年の愛妾となっており、武蔵・児玉郡真下郷の近隣は基直=北条時政の岳父の祖となる有道経行の兄・弘行の流れを汲む領主らで満ちていましたが、有道弘行の流れを汲む家遠は基直の領地と隣接する児玉郡塩谷郷を領し、系図では塩谷家遠を真下基直の甥とし、家遠の通称を平五と伝える点に刮目させられます。
 平安後期に武蔵・児玉郡に拡がった領主らは有道弘行の流れで、弘行の弟・経行の流れは上野南西部に拡がっており、上野に拡がった領主らの祖となる行重・行高兄弟らは一旦母方祖父となる秩父重綱の猶子となっており、為に系図は上野に拡がった有道氏を出自とする領主らを平児玉と記し、武蔵・児玉郡に拡がった一族と祖を等しくしながら本姓を平と称え秩父郡を支配した一族とも関係が有った為です。
 有道弘行系となる塩谷家遠が通称を平五とするのは系図が家遠の叔父とし、家遠の領地と隣接する地を領する真下基直が系図にて平児玉と冠された有道経行系の行時を岳父として、塩谷家遠をまた娘婿とした為であると推測され、この塩谷家遠が『吾妻鏡』にて京・堀川に駐屯する義経らへの襲撃を頼朝から命じられる土佐坊昌俊であろうと思われます。
 『吾妻鏡』では土佐坊昌俊が下野に在る老母と幼児の行く末を案じたとしており、有道経行が娘を稼した経国はまた下野・那須郡を支配する武家からも娘を迎えており、平安初期まで那須郡の郡司を世襲した一族を丈部(はせつかべ)と伝え、有道氏の遠祖もまた丈部と称していた点、古くから下野・那須郡を支配してきた武家の領地と隣接して塩屋郡が見られ、有道氏を出自として武蔵・児玉郡塩谷郷を領した塩谷家遠が有道氏と那須郡の武家との交誼から下野国内に封土を獲得した結果が塩屋郡の号の由来となり、真下基直こと北条時政を岳父とした塩谷家遠が鎌倉幕府より義経への襲撃を命じられたものと思われます。
 真下基直こと北条時政の父となる佐原義連には義経の郎党となった伊勢義盛の他に盛連と云う子を伝えますが、この盛連こそ『吾妻鏡』にて伊豆に配流された頼朝の小姓を務めた安達盛長で、安達姓は義経の郎党であった佐藤継信・忠信兄弟らの父として奥州藤原氏の配下であった佐藤基治が本拠とした信夫郡下の飯坂温泉郷が伊達郡との境を目と鼻の先とし、伊達郡の手前となる安達郡を軍功として得た可能性を示し、要するに有道惟能系となる佐原義連は有道定直系となる三浦義明の猶子となり、義連の子らが安達氏・伊勢氏・北条氏の祖となった訳です。
 安達盛長の卑属は鎌倉幕府から三河守護に補任されていますが、義経の郎党であった伊勢義盛は主が奥州行を遂げる最中に姿を晦ましたとされ、三河・額田郡下の古刹である『滝山寺縁起』は住持の親族となる藤原俊経なる人物を伝え、この藤原俊経なる者こそ伊勢義盛の子であり、霜月騒動で安達泰盛が討たれた後、藤原俊経の子となる平俊継は安達氏に替わって三河守護に補任された足利氏の被官となっています。
 この平俊継の子が鎌倉末期を生きた宗継で、平宗継の子が室町幕府政所執事に就く伊勢貞継です。
 室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏の下で政所代をまた世襲した蜷川氏については、陸奥・安達郡から猪苗代湖方面へ向かい下越へ脱ける途中の河沼郡下に蜷川荘の在ったことを伝える古書が在り、古書は蜷川荘を治めた領主を佐原義連の孫・景義と記しています。
 『吾妻鏡』は安達盛長の孫を義景とし、三浦氏を滅ぼすことに軍功が有ったとしています。
 北条時政の子・義時と母方で従兄弟の続柄であった三浦義村は義明の孫として三浦氏の惣領であった人物で、『愚管抄』は"智謀に長けた"武将と記しています。
 北条泰時の生きた時代に三浦義村は鎌倉幕府内で最も発言力の大きい存在でしたが、その義村の子・泰村の時に安達義景らによって三浦氏は滅ぼされました。
 有道惟能流ながら有道定直流の猶子となった佐原義連の孫である安達義景が有道定直流を滅ぼしたイベントが宝治合戦で、安達義景を三浦氏より派したとされ陸奥・会津郡下に封土を得た芦名氏の系図は横須賀時連または新宮時連と記しています。
 今の米海軍横須賀基地の在る楠ヶ浦半島は東京湾に突き出た恰好の船着き場で、この一帯が本来の横須賀であり、安達盛長の子はこの横須賀を領し、且つ又紀伊半島南端の新宮をも領していたことが識られ、安達氏が水軍に力を得ていたことが分かります。
 安達義景こと横須賀or新宮時連の子が安達泰盛で、霜月騒動で泰盛を滅ぼした平頼綱は北条泰時の被官であった平盛綱の卑属であり、平盛綱は実に有道弘行より派して武蔵・児玉郡四方田郷を領した四方田盛綱でした。
 霜月騒動とは言わば有道経行系となる安達泰盛を有道弘行系となる平頼綱が倒したイベントであった訳で、霜月騒動の起きた翌年、今度は安達泰盛を倒した平頼綱が倒される平禅門の乱が起こり、平頼綱を倒して鎌倉幕府の主導権を握った長崎円喜とは実に安達泰盛の子・盛宗でした。
 鎌倉時代の歴史を研究する細川重男さんに拠ると、長崎円喜が生涯において最も長く使った諱は盛宗であったとし、芦名氏の系図に見られる安達泰盛の子の盛宗こそ長崎円喜であって、長崎円喜こと安達盛宗が霜月騒動で父を討った平頼綱に対して仇討ちを果たしたものが平禅門の乱だったのです。
 長崎姓の由来を伊豆・韮山盆地に見る長崎の地名からとする説が専らですが、確かに円喜が建立したと伝え、円喜の子である長崎高資の墓碑を遺す寺院を見るも、長崎姓の由来は弘安の役に臨み肥後守護代であった安達盛宗が鎌倉まで至って父・泰盛に恩賞を懇請した竹崎季長の在地した宇城郡松橋郷と隣接する宇土郡不知火郷に長崎とする小字名が今日まで残り、西へ向かってく延びた宇土半島のから今の長崎県へ渡るのは便宜であり、長崎市には北条得宗被官であった諏訪氏が神職を務めた社の分祀が見られ、宇土半島の付け根に位置する不知火の小字・長崎が長崎円喜の姓に反映されたものと思われます。
 この長崎円喜の末裔が織田信長で、有道経行の流れでありながら相模に繁衍した有道定直の流れとなる者の猶子となった佐原義連の孫・時連は相模・三浦郡横須賀浦から船を使って伊勢湾に臨む尾張・知多郡に立ち寄り、仍って知多半島には横須賀の地名が見られ、伊勢湾奥では牛頭天王社で識られた津島神社が臨む津島湊に入って後、伊勢神宮方面へ向かったが、信長の父・織田弾正忠信秀は往時殷賑を極めた津島湊から上がる収益で蓄財を成し、津島湊を擁する中島郡と海部郡を跨ぐ地に勝幡城を構えていました。
 詰まり、織田信長は有道経行の流れを汲みながら有道定直の流れと交叉した武家である佐原=安達流の出自だったのです。
 横須賀の地名を見る知多半島には頼朝の父・義朝を殺した長田忠致が内海荘を営んでいましたが、長田忠致の遠祖となる平致頼の父・公雅は有道惟能の母方祖父であり、また家康の生母・お大の方の再婚先である久松氏が知多半島に在地し、久松氏の遠祖となる菅原薫宣は有道惟能の岳父であって、信長配下の前田利家が伊勢湾奥で荒子観音で識られた地に城を構えながら菅原姓を称えていたことは強ち荒唐無稽とは言えず、知多半島の対岸となる伊勢から最短距離で奈良盆地へ脱ける途上、後醍醐天皇が初めて鎌倉幕府打倒を企て決起し籠城した笠置山の麓に柳生の郷が在り、柳生氏が遠祖とするのも菅原薫宣です。
 さて、愈々徳川家康の出自を述べなければなりませんが、室町幕府政所代であった蜷川親元の手記は応仁の乱の時代を生きた松平信光が政所執事・伊勢貞親の被官であったことを記し、少なくも松平氏が北条氏や安達氏・織田氏を派した佐原義連を祖とする伊勢氏と関係が有ったことを証しています。
 北条時政に子・時房を生さしめた女の父・足立遠元の子と考えられる天野遠景は時政の被官でしたが、尾張藩士の天野信景が編纂した『浪合記』は南北朝期に松平氏の遠祖が奥平定家とともに勤皇党として活動するも、足利勢に圧され上野から信濃・伊那郡浪合郷の山間に潜伏した後、奥平定家は三河・設楽郡作手郷に入り、得川有親・親氏父子は賀茂郡松平郷に定着したといった伝承を記しています。
 有道経行が娘を稼した経国が開いた河内荘を流れる小山川を下ると、武蔵・児玉郡四方田郷から発する女堀川と合流する児玉郡牧西郷に至り、有道弘行の流れを汲む弘季が牧西郷を領していましたが、弘季の子・義季は経国を扶育した源義国の子である新田義重の猶子となり、児玉郡牧西郷から小山川を下って合流する利根川をさらに下った先となる上野・新田郡一円を支配していた新田義重の猶子として利根川に臨む得川郷を領知しました。
 新田郡得川郷は本来"えがわ"郷と訓じますが、北条時政が邸を構えた伊豆・韮山盆地の狩野川沿いと反対側に位置する盆地東端に、江戸幕府の代官を務め、幕末の開明的先学者として洋式築砲術を体得していた江川英龍の邸址が見られ、江川家は土地の素封家として伝わっています。
 徳川家康のルーツは新田義重の猶子となった有道弘行の流れを汲む牧西弘季の子・義季であり、明智光秀の遠祖となり北条泰時の被官であった平盛綱こと四方田盛綱の従兄であって、豊臣秀吉の遠祖であり北条泰時の被官であった尾藤景綱こと四方田景綱の甥であったのです。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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