日本三大古碑の一つである群馬県高崎市吉井町に遺された多胡碑は711年に多胡郡が新設されたことに因むものであり、碑文は"羊"なる者に多胡郡の経営を委ねたとする。
 碑文の末尾に顕れる多治比真人は往時の朝廷で銅貨鋳造の責任者を任じていた多治比三宅麻呂を指し、三宅麻呂の兄である多治比嶋は『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴公子のモデルとなった朝廷の閣僚経験者であった。
 嶋の玄孫に該る多治比真宗が桓武天皇との間に生した子が葛原親王で、坂東平氏や伊勢平氏らの祖とされる平高望は一般に葛原親王の孫とされる。
 多治比三宅麻呂の名を刻んだ石碑が建立された多胡郡の号は多治比氏が朝廷の間で胡族と看做されていた傍証と考えられる。
 製鉄に従っていたと伝える多治比氏の往古における本拠が河内・丹比(たじひ)郡と思われ、応神天皇陵と仁徳天皇陵との間に位置する丹比郡は河内王朝の在った地だ。
 多治比氏の名がイラン系言語で王冠を意味する辞であるとすれば、中央アジアに原生したタジク族が河内王朝の王族であったことを推測させる。
 何故、タジク族が極東にまで達したのであろうか?
 711年に新設された多胡郡に建立された石碑に名を刻まれた多治比三宅麻呂の後裔は群馬県と埼玉県の県境を成す利根川支流の神流川に臨んだ武蔵・加美郡下で丹荘と号した荘園を営み、この多治比氏から秩父平氏の祖となる平忠頼を派した。
 『将門記』に顕れる多治経明こそ秩父平氏の祖と伝える平忠頼の正体であって、北関東の雄族・秩父平氏の祖を忠頼とし、南関東の雄族・三浦氏の祖を平忠光と伝える点は、忠頼の頼と忠光の光を併せれば頼光となり、藤原道長に仕え朝家に武名を揚げた源頼光の諱を分けて構えた虚構の名が平忠頼と平忠光らであって、秩父平氏の祖は多治比氏を出自とした。
 何故、朝廷に叛旗を翻した平将門の配下であったと云う多治経明は秩父郡に入ったかは、無論関東の山深い僻地に隠棲する為であったことも一因であったろうが、711年に多胡郡が新設されたこととも関わって、708年に秩父郡黒谷郷で自然銅が発見されたことが大きかったと思われる。
 群馬県高崎市吉井町には今も多比良の字名を遺し、平姓の本当の意味とは多治比氏の血が流れる意味であることを識る。
 708年秩父郡黒谷郷で自然銅を発見した者は711年上野・多胡郡に建立された石碑に述べられる"羊"なる者であったと思われ、この羊の従兄に該る丈部(はせつかべ)小牧麿の孫・氏道は多治比真宗が生んだ桓武天皇の子・葛原親王の家令職を務め、833年に有道姓を与えられた。
 749年に陸奥・小田郡(遠田郡)涌谷郷で金を発見した丈部大麻呂は711年に秩父郡下で自然銅を発見した羊の卑属であろうと思われ、833年に有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となる有道惟広は藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の家令職を務めている。
 摂関政治の隆盛と関東における封建領主の生成・発展は貴金属の採掘に関係した丈部なる部民から派した族が貴金属を媒介に為替の職能を務めたことが大きな原因であったと思われる。
 有道惟広の後裔となる庄家長は鎌倉幕府で評定衆を務め承久の乱の後に尾張守護に補された中条家長と同一人物であり、中条流剣術で識られた武家の後裔は三河・賀茂郡下の高橋荘を拠点に織田信長が中条常隆を逐うまで存続し、また備中・小田郡下の草壁荘の地頭職を得た庄家長の後裔として室町幕府の備中守護・細川氏の下で守護代を務めた庄氏となるまで存続した。
 徳川氏の源流を成す松平氏は三河・賀茂郡に発祥し、近年学界で北条早雲こと伊勢宗瑞の素姓とされた伊勢盛時は備中・後月郡下の荏原荘を治めた武家とするが、実に守護代・庄元資と眷属関係に在る庄行長である。
 伊勢宗瑞が今川氏の客将の立場から伊豆へ入り小田原城を奪取した経緯には、韮山盆地の素封家である江川氏との縁や小田原城主であった大森藤頼が中関白・道隆の嫡子として有道惟広の息・惟能が家令職を務めた藤原伊周の後裔であったことが大きく関係している。
 有道惟広・惟能父子の後裔は武蔵・児玉郡を中心に上野南西部から武蔵央部となる比企郡・入間郡にまで拡がったが、伊豆に配流された源頼朝に仕送りを続けたという比企尼の夫・比企朝宗は近世・仙台藩主の祖となる伊達朝宗と同一人物であり、三河の中条氏や備中の庄氏を派した庄家長の弟として今の埼玉県本庄市四方田の地を所領とした高綱の子・景綱こそ北条泰時の家令として『吾妻鏡』に顕れる尾藤景綱であって、景綱の従兄となる盛綱こそ尾藤景綱の後を襲って北条泰時の家令を務めた平盛綱であった。
 鎌倉幕府の中枢に在った二階堂氏は有道惟能の孫となる経行の子・行高の後裔であり、北関東の雄族・小山氏も同じであることの論証は割愛するが、有道惟能の従兄であった有道定直こそ源頼光の郎党・碓井貞光そして源義家の母方祖父となる平直方と同一人物であり、この後裔が南関東の雄族・三浦氏となる。
 安達義景・泰盛父子は有道定直流三浦氏の庶流で、長崎円喜は安達泰盛の子であり、室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏、伊勢氏の下で政所代を世襲した蜷川氏もまた三浦氏庶流である安達氏のそのまた庶流であった。
 詰まり、当初に鎌倉幕府の主導権を揮った三浦義村・泰村父子は有道定直の嫡系であり、宝治合戦は有道定直の庶流となる安達氏が幕府の主導権を奪取した事件であって、霜月騒動は有道定直流となる安達泰盛を有道惟能流となる平頼綱が討った事件で、霜月騒動の翌年に平頼綱自身が討たれた平禅門の乱は安達泰盛の子・長崎円喜が父親の復仇を遂げた事件である。
 斯くして政争を繰り返した鎌倉幕府が滅亡したのもまた有道惟能流となる二階堂氏庶流の二階堂行藤や有道定直流となる安達氏庶流の伊勢・蜷川両氏らが嫡流に対して叛旗を翻した結果であり、北条時政は有道定直の後裔となる基直が有道惟能の後裔が拡がった武蔵・児玉郡真下郷の領主として南関東から北関東へ猶子に送られた者の子であって、北条時政は遠祖となる有道惟能が家令職を務めた藤原伊周の弟・隆家の後裔となる池禅尼の子・平頼盛が領知した駿河郡下の大岡牧を管理する池禅尼の兄・牧宗親との伝手を頼って伊豆に入り、時政の親族となる弘季はまた武蔵・児玉郡牧西郷を領知し、その子・義季は新田義重の猶子として上野・新田郡得川(エガワ)郷を領知して、その後裔が伊豆・韮山の素封家である江川氏や三河・賀茂郡に転じた得川有親・松平親氏父子であった。
 有道惟能の流れとなる平盛綱の後裔・四方田氏は奈良時代に産金を見た陸奥・遠田郡下に戦国期まで蟠踞して強勢を誇り、この四方田氏を出自とする者が明智光秀であって、豊臣秀吉はやはり有道惟能の流れとなる尾藤景綱の後裔・重吉の弟として古文献に尾藤主膳と記される人物である。
 詰まり、徳川家康は小田原城主とは遠祖を等しくし、明智光秀や豊臣秀吉とも同様であって、豊臣秀吉の兄・尾藤重吉の長子・知宣は秀吉の弟である羽柴秀長の重臣となり、このことが秀長・粛清の因を成し、尾藤重吉の次子・頼忠の娘は真田昌幸の子・信繁(幸村)の母であり、別の娘はまた石田三成室であった。
 アジアにおいて日本だけに看られる中世・封建領主制の歴史は唯物史観に則った石母田正の有力農民武装説や佐藤進一・上横手雅敬の軍事貴族職能説などで解明されるものでなく、実に中央アジアから極東に移徒した異民族の後裔らが貴金属を媒介に封建領主らの間で為替の職能を務めたことから生成・発展を遂げたものであった。
 児玉党有道氏の後裔となる児玉源太郎は日露戦争を戦った桂太郎総理の後継首班最有力候補として戦役に奮尽し、戦後過労で斃れ総理に就くことはなかったが、以往日本は欧米諸国と対等の立場を認められるに至った。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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