往古に奥丹波と呼ばれ今は兵庫県に編入されている丹波・氷上郡を本拠とした赤井氏は戦国期に勢威を揮い、甲州流軍学の祖・小幡景憲が編纂した『甲陽軍鑑』は戦国三傑として赤井直正・長宗我部元親・徳川家康を挙げている。

 1579年明智光秀の丹波侵攻に因り、赤井氏の本城であった黒井城は明智光秀の臣・斉藤利三に接収され、城主・忠家は遠江・豊田郡下の二俣城へ移徒したと云う。

 その後、赤井忠家は豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の弟・秀長と不和になり、徳川氏と武田氏が激しい攻防を繰り展げた二俣城を改修する徳川氏の将・大久保忠世を介して徳川氏への仕官を乞うが、家康は赤井忠家にその叔父となる山口直之を城主とした信濃・佐久郡下の芦田城へ向かうよう命じられたと云う。

 山口直之の子・直友は作家・池波正太郎の小説『黒幕』に描かれている家康の側近であり、山口直之の甥であったと云う赤井忠家と不和を来した羽柴秀長の家臣・尾藤頼忠の娘の一人は真田昌幸に嫁ぎ、もう一人の娘は石田三成に嫁いでいる。

 尾藤頼忠の父・重吉は織田信長の家臣・森長可に仕える前には信濃守護・小笠原長時の配下として中野牧を領知していたと伝える。

 この中野牧が今の長野県中野市に該る高井郡に在ったものか、北信の粗封家である中野氏が領知した水内郡志久見郷に在ったものか定かにしないが、尾藤重吉が信濃に在地してから織田家中の森長可・家臣となる間に遠江・引佐郡に拠ったことを伝える。

 『吾妻鏡』が源頼家の側近であったとする中野能成は頼家の岳父であった比企能員が北条時政によって謀殺されると拘禁されたとし、一方中野能成が領知した信濃・水内郡志久見郷の粗封家に伝わった『市河文書』は『吾妻鏡』が中野能成の拘禁された日とする同じ日付で北条時政が本領を安堵する書状を中野能成の許に送ったことを記している。

 尾藤重吉の遠祖とされる尾藤景綱は中野景信なる者の子を景氏として猶子に迎え、北条泰時の被官らを纏める家令職に初めて就いた人物となっている。

 尾藤重吉が仕えた森長可は源義家の孫として信濃・水内郡下で若槻荘を領知した頼隆の後裔とし、叔父を信濃・佐久郡下の芦田城主とした赤井忠家の遠祖を江戸幕府の『寛政重修諸家譜』は源満仲の子・頼季を祖とし信濃・高井郡井上郷を領知した井上氏が丹波・氷上郡下の芦田荘へ移徒した後裔とする。

 明智光秀によって支配地を奪われた赤井氏の旧臣らが本能寺を囲んだ史料が近年発見されたが、また信濃・佐久郡下の芦田城に寄った赤井忠家は関ヶ原合戦前に旧臣が石田三成より送られた書状を家康に呈示し褒賞されている。

 本能寺の変が勃発した時、家康は和泉・堺に僅かな供回りのみ連れて遊んでいたと云い、大坂・住吉に駐留させた四国征討軍の実質的司令官である丹羽長秀もまた住吉より離れた岸和田の地で美濃・斉藤氏の旧臣と遊興に耽っていたと云う。

 尾張・春日井郡児玉郷に居館を構えていた丹羽長秀は良峯安世の後裔を唱えたが、良峯安世とは内麿との間に藤原北家を興隆させる冬嗣を生んだ百済永継が桓武天皇の後宮で冬嗣より先に生んだ子である。

 先の記事で述べたように、桓武帝が多治比真宗に生ませた葛原親王の家令職を務め833年に有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道の後裔は平安後期に上野から武蔵に武士団として繁衍し、中関白・道隆とその嫡子・伊周の家令職を務めた有道惟広・惟能父子の後裔は初め武蔵・児玉郡を拠点にしたことから児玉党と呼ばれ、丹羽長秀を児玉党有道氏の後裔と考える史家を少なくしない。

 有道氏を出自として武蔵・児玉郡四方田郷より発祥した武家は陸奥・遠田郡下で戦国期に強勢を誇り、先の記事で述べたことを繰り返すと北条泰時の被官であった尾藤景綱は実に有道氏を出自とする四方田景綱であったと思われ、本能寺を囲んだ明智光秀の陣中にも四方田氏が在った。

 何れにしても、本能寺の変が勃発した時、京に一番近く在った筈の家康や丹羽長秀らは兵を率いず遊興に耽じていた訳で、明智光秀を討ったのは備中高松城を囲む中で毛利勢の後詰と対陣した秀吉であった。

 毛利元就の重臣として児玉就忠の名を看るが、この武将もまた児玉党有道氏の流れを汲む者であった。

 赤井氏の本城であった丹波・氷上郡下の黒井城を接収した斉藤利三の母は遠江・佐野郡に在った石谷(いしがい)氏に再稼し、斉藤利三の母が石谷氏との間に生した娘が長宗我部元親の正室となっており、丹羽長秀が四国征討を果たさぬことを長宗我部元親は了知していたかも知れない。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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