天武天皇の血統が下野に配流される道鏡に誑かされた称徳女帝の薨去に因り、天智天皇の孫となる光仁天皇の即位に功績を成した者らを『愚管抄』は藤原北家・永手と同式家・百川と記しておりますが、永手の弟として北家祖・房前の五男と云う魚名が光仁天皇とその子・桓武天皇の治世に左大臣に就いていますから、先ず魚名という人物こそ光を当てる必要の有る人物でしょう。
藤原南家のエース・仲麻呂がクーデターを起こして潰された後、南家の後裔は朝政で主導権を握ることは無くなり、桓武天皇の子となる平城・嵯峨両の母方祖父となる良継を派した式家が南家に次いで一時隆盛を見るも、長岡京造営の長官を任じた種継や平城上皇のクーデターに与した仲成・薬子の兄妹らの後、式家もまた没落しましたわなっ。
光仁天皇の即位に功績の有った永手の兄・真楯、真楯の子・内麿と凡庸な公卿を派した後、内麿の子とされる冬嗣が平城上皇のクーデターを未然に防ぎ、冬嗣の後裔が摂関家となって結局藤原北家が後世に遺ることとなりましたが、冬嗣の母・百済永継が桓武帝の後宮に入って一世にして臣籍降下した良峯安世なる者を生したとされ、桓武帝の後宮を下がった後に藤原内麿に再稼した百済永継が冬嗣を生したとされる点、多分に藤原北家興隆の基を成した冬嗣は内麿の実子ではなかったものと思われます。
天智帝の孫となる光仁帝は高野新笠から桓武帝を生していますが、高野新笠の父・飛鳥部奈止麻呂は河内・安宿(あすかべ)郡に在地した人物で、往古には淀川と河口を等しくした大和川が生駒・金剛両山地を縊る山門を潜って奈良盆地へ脱け、源流近くで纏向遺跡の発掘された地に到る過程にて、大和川が山門を潜る手前の河内・安宿郡の号は朝鮮語の安宿(あんすく)が中国人の記した古記録の安息、即ちパルニ氏族を出自とするアルサケスが興してイラン・イラクを版図に収めたパルティア王朝を指し、河内・安宿郡に隣接して応神天皇陵と仁徳天皇陵の間に丹比(たじひ)郡が在ったことを想うと、丹比郡を本拠とした多治比氏がパルティア王朝と版図を接したグレコ・バクトリア王朝の王族が都したタジキスタンの原住民たるタジク族の後裔であろうから、桓武帝を生した高野新笠の父・飛鳥部奈止麻呂もまた中央アジアを原郷とした部族の後裔であったろうと考えられ、更に桓武帝自身が藤原冬嗣の母・百済永継を後宮に迎え、桓武平氏の源流を成すとされる葛原親王を多治比真宗との間に生していることを考え併せるならば、天武帝の血脈が絶え天智帝の血脈を皇統に復し桓武帝の成した平安奠都の背景には多分に古代に日本列島へ渡来した氏族の暗躍が嗅ぎ取られるのです。
藤原北家興隆の基を成した冬嗣の母・百済永継の父・大和乙継もまた百済から列島に亡命してきた氏族の後裔とされ、冬嗣以前に藤原北家祖・房前の五男として魚名が天智帝の血脈を皇統に復した光仁・桓武両朝にて左大臣に就いていることから、魚名の母・片野朝臣の素姓を問う動機を得るのです。
藤原北家祖・房前の四男・清河、五男・魚名を生した片野朝臣は全く後世に素姓を知らせぬ謎の女性であり、しかも清河は父を今のタジキスタン共和国ソグド州を間近くしたサマルカンドの生まれと伝え母をトルコ人とした安禄山が仕えた唐の玄宗皇帝に仕え、魚名は左大臣を任じています。
片野朝臣の素姓を識る手がかりとして、大阪府交野市私市(きさいち)の地名がヒントを与え、『古事記』にて真っ先に日本列島へ辿り着いたと思われる饒速日(にぎはやひ)命が河上の地に天下った地とは生駒山地が北になだれる先の大阪府交野市内に在ったと伝える哮(いかるが)峰のされることから、淀川畔から奈良盆地を結ぶ磐船街道の途次となる交野市私市の地には古代宮廷における后部(きさきべ)の財政的基盤となる何らかの拠点が在ったものと推測され、片野朝臣が古代の大阪府交野市私市に在った后部を運営した氏族を出自とした女性であったろうことを推測するのです。
そうした片野朝臣が生した藤原魚名の子・藤成は藤原姓にして諱に藤の字を重ねる奇妙な処を表しています。
魚名の子・藤成の母は摂津一ノ宮の神職を世襲した古族・津守氏を出自とし、津守氏が丹後一ノ宮・籠神社の神職を世襲した海部氏や熱田神宮の神職を世襲した尾張氏とともに天火明(あめのほあかり)命の後裔とすることから、グレコ・バクトリア王朝の版図に収められたアフガニスタンの北部に在るバルフの街に発祥したと云う拝火教を想わせる氏族を出自とした女を母とする者が藤原魚名の子・藤成であったのです。
更に藤原藤成の子・豊沢、孫・村雄と共に下野史生であった鳥取氏を出自とする女を母とし、史生とは往古の朝廷で地方の四等官に承認印を貰う下級の吏員でしたが、天武帝の血脈を承け継ぐ最期の天皇となる称徳女帝を誑かした道鏡が配流された下野の鳥取氏なる氏族は今の鳥取県に発祥した観を得て、因幡・八頭郡から美作へ脱ける途次の八上郡下には尾張姓を称えた武家を伝え、この因幡・八上郡下に在った尾張氏こそ熱田神宮の神職を世襲した氏族や下野に蟠踞した鳥取氏の源流を成す氏族の後裔であったと思われるのです。
中央アジアからユーラシア大陸を横断し日本列島に辿り着いた渡来人らにとっては大地の"おわり"に到った訳です。
そうして、片野朝臣を母とする魚名、鳥取氏を母とする豊沢・村雄と続き、愈々多治比真宗が生んだ葛原親王の孫とされる平高望の孫・将門を討って朝家に武名を揚げた藤原秀郷に至ります。
鎌倉幕府にて名の有る御家人らは殆んど将門の叔父とする平良文であるか藤原秀郷の後裔を唱えていました。
先ず、秀郷の子・千晴は平将門の与同を得た武蔵武芝が敵対した経基王の子・源満仲が暗躍した安和の変で罪科に処されましたが、将門の祖父・平高望の更に祖父とされる葛原親王の家令職を務めて朝廷から有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道の出身地は将門が支配した下総の猿島・豊田両郡に隣接する常陸・筑波郡であり、将門が与して経基王と敵対した武蔵武芝の遠祖は武蔵一ノ宮の神職で藤原南家・仲麻呂を討ち武蔵姓を与えられ足立郡司に補された丈部不破麻呂であって、頼朝の遠祖となる経基王の子・源満仲が拠点とした多田荘は摂津・川辺郡に在ったことを憶い起こします。
光仁・桓武両朝で左大臣を任じた藤原魚名は秀郷の遠祖であり、魚名が川辺大臣なる徒名を伝える点、魚名との関係を持つ摂津・川辺郡下に後裔を武家の棟梁として興隆させる源満仲が荘園を開いたことに安和の変の奥深い背景を透かすのです。
この安和の変で罪科に処された秀郷の子・藤原千晴の後裔が奥州藤原氏の祖として陸奥・亘理郡に拠点を構えた経清(図中の1)とされますが、太平洋に臨む亘理郡の南には平将門の配下であった多治経明の子・平常忠の後裔となる千葉氏の岐れが本拠とした相馬郡が接し、多治経明は武蔵・加美郡下で丹荘と号する荘園を営んだ多治比氏を出自として、千葉氏を派した平常忠の兄として秩父平氏の祖となる将恒をも生しています。
奥州藤原氏を派した千晴の弟・千常から派したとされるのが北関東の雄族・小山氏の祖となる政光(図中の2)ですが、政光の出自が実に鎌倉幕府の中枢に在った二階堂氏と等しく上に言及した朝廷より有道姓を与えられる葛原親王の家令職・丈部氏道の後裔となることの論証は此処では割愛します。
千常から派生した武家としては下野・足利郡下に荘園を営んだ家綱(図中の3)が在り、この家綱が荘園を立券した時に院北面を務め家綱を足利荘の下司として自らを同荘の預所とした者が新田・足利両氏の祖となる源義国でした。
武家の棟梁と仰がれた源氏の祖となる満仲に挫かれた千晴の後裔は都より遠く離れた奥州の地に蟠踞したのに対して、千葉氏の祖となる平常忠と偏諱を通有した千常の後裔は関東から西国に拡がり、紀伊・那賀郡下の田仲・池田両荘を営んだ佐藤氏を派し、歌人・西行として識られる佐藤義清(図中の4)はこの流れなんですね。
紀伊・佐藤氏と流れを近くして陸奥・信夫郡に拠点を構えた佐藤基治は奥州藤原氏の配下に在りましたが、今の福島市内となる飯坂温泉に拠点を構えた佐藤基治は湯の庄司と呼ばれ、頼朝による奥州征伐で伊達氏の祖となる朝宗に本拠を逐われたのです。
佐藤基治を逐った朝宗が伊達氏の祖とされるのは佐藤基治が本拠を構えた信夫郡下の飯坂温泉のすぐ南に伊達郡との郡界が在ったからです。
佐藤基治の子らが源義経の郎党となる継信・忠信兄弟でしたが、佐藤姓の由来は遠祖となる秀郷が下野・安蘇郡下の佐野荘を営んだ為、佐野の藤原を縮めたものです。
続いて、千常より派した後裔とする武家が山之内首藤氏ですが、この一族から頼朝の父である源義朝を殺した長田忠致と姻戚であったと云う義朝の郎党・鎌田政清(図中の5)が出たとします。
しかし、山之内首藤氏の源流は源頼義が美濃に赴任した時に扈従する席田郡に蟠踞していた守部氏であったと思われます。
更に千常から派した武家として相模の秦野盆地を本拠として足柄郡から鎌倉期には西国にまで拡がった波多野氏が看られ、その祖を経範(図中の6)としますが、経範は俗名を佐伯真央と伝える空海の生家として讃岐に蟠踞していた佐伯氏の流れを唱えていました。
波多野氏は在京して室町幕府内に在った士を夥しく伝えています。
最後に千常の流れを汲む武家として近江の藤原を縮めた近藤氏が看られ、近藤能成(図中の7)は相模・愛甲郡古庄郷を領知して子・能直を大友氏の祖としたとされますが、大友氏祖の実父・能成は実に上に述べた平高望の祖父とされる葛原親王の家令職を務め朝廷より有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となる有道惟広が仕えた中関白・道隆の子・隆家の後裔となる一条能成と思われ、頼朝が後白河法皇に迫って追捕することを認めさせた義経とともに一条能成は武装した姿で京を出奔しています。
藤原南家のエース・仲麻呂がクーデターを起こして潰された後、南家の後裔は朝政で主導権を握ることは無くなり、桓武天皇の子となる平城・嵯峨両の母方祖父となる良継を派した式家が南家に次いで一時隆盛を見るも、長岡京造営の長官を任じた種継や平城上皇のクーデターに与した仲成・薬子の兄妹らの後、式家もまた没落しましたわなっ。
光仁天皇の即位に功績の有った永手の兄・真楯、真楯の子・内麿と凡庸な公卿を派した後、内麿の子とされる冬嗣が平城上皇のクーデターを未然に防ぎ、冬嗣の後裔が摂関家となって結局藤原北家が後世に遺ることとなりましたが、冬嗣の母・百済永継が桓武帝の後宮に入って一世にして臣籍降下した良峯安世なる者を生したとされ、桓武帝の後宮を下がった後に藤原内麿に再稼した百済永継が冬嗣を生したとされる点、多分に藤原北家興隆の基を成した冬嗣は内麿の実子ではなかったものと思われます。
天智帝の孫となる光仁帝は高野新笠から桓武帝を生していますが、高野新笠の父・飛鳥部奈止麻呂は河内・安宿(あすかべ)郡に在地した人物で、往古には淀川と河口を等しくした大和川が生駒・金剛両山地を縊る山門を潜って奈良盆地へ脱け、源流近くで纏向遺跡の発掘された地に到る過程にて、大和川が山門を潜る手前の河内・安宿郡の号は朝鮮語の安宿(あんすく)が中国人の記した古記録の安息、即ちパルニ氏族を出自とするアルサケスが興してイラン・イラクを版図に収めたパルティア王朝を指し、河内・安宿郡に隣接して応神天皇陵と仁徳天皇陵の間に丹比(たじひ)郡が在ったことを想うと、丹比郡を本拠とした多治比氏がパルティア王朝と版図を接したグレコ・バクトリア王朝の王族が都したタジキスタンの原住民たるタジク族の後裔であろうから、桓武帝を生した高野新笠の父・飛鳥部奈止麻呂もまた中央アジアを原郷とした部族の後裔であったろうと考えられ、更に桓武帝自身が藤原冬嗣の母・百済永継を後宮に迎え、桓武平氏の源流を成すとされる葛原親王を多治比真宗との間に生していることを考え併せるならば、天武帝の血脈が絶え天智帝の血脈を皇統に復し桓武帝の成した平安奠都の背景には多分に古代に日本列島へ渡来した氏族の暗躍が嗅ぎ取られるのです。
藤原北家興隆の基を成した冬嗣の母・百済永継の父・大和乙継もまた百済から列島に亡命してきた氏族の後裔とされ、冬嗣以前に藤原北家祖・房前の五男として魚名が天智帝の血脈を皇統に復した光仁・桓武両朝にて左大臣に就いていることから、魚名の母・片野朝臣の素姓を問う動機を得るのです。
藤原北家祖・房前の四男・清河、五男・魚名を生した片野朝臣は全く後世に素姓を知らせぬ謎の女性であり、しかも清河は父を今のタジキスタン共和国ソグド州を間近くしたサマルカンドの生まれと伝え母をトルコ人とした安禄山が仕えた唐の玄宗皇帝に仕え、魚名は左大臣を任じています。
片野朝臣の素姓を識る手がかりとして、大阪府交野市私市(きさいち)の地名がヒントを与え、『古事記』にて真っ先に日本列島へ辿り着いたと思われる饒速日(にぎはやひ)命が河上の地に天下った地とは生駒山地が北になだれる先の大阪府交野市内に在ったと伝える哮(いかるが)峰のされることから、淀川畔から奈良盆地を結ぶ磐船街道の途次となる交野市私市の地には古代宮廷における后部(きさきべ)の財政的基盤となる何らかの拠点が在ったものと推測され、片野朝臣が古代の大阪府交野市私市に在った后部を運営した氏族を出自とした女性であったろうことを推測するのです。
そうした片野朝臣が生した藤原魚名の子・藤成は藤原姓にして諱に藤の字を重ねる奇妙な処を表しています。
魚名の子・藤成の母は摂津一ノ宮の神職を世襲した古族・津守氏を出自とし、津守氏が丹後一ノ宮・籠神社の神職を世襲した海部氏や熱田神宮の神職を世襲した尾張氏とともに天火明(あめのほあかり)命の後裔とすることから、グレコ・バクトリア王朝の版図に収められたアフガニスタンの北部に在るバルフの街に発祥したと云う拝火教を想わせる氏族を出自とした女を母とする者が藤原魚名の子・藤成であったのです。
更に藤原藤成の子・豊沢、孫・村雄と共に下野史生であった鳥取氏を出自とする女を母とし、史生とは往古の朝廷で地方の四等官に承認印を貰う下級の吏員でしたが、天武帝の血脈を承け継ぐ最期の天皇となる称徳女帝を誑かした道鏡が配流された下野の鳥取氏なる氏族は今の鳥取県に発祥した観を得て、因幡・八頭郡から美作へ脱ける途次の八上郡下には尾張姓を称えた武家を伝え、この因幡・八上郡下に在った尾張氏こそ熱田神宮の神職を世襲した氏族や下野に蟠踞した鳥取氏の源流を成す氏族の後裔であったと思われるのです。
中央アジアからユーラシア大陸を横断し日本列島に辿り着いた渡来人らにとっては大地の"おわり"に到った訳です。
そうして、片野朝臣を母とする魚名、鳥取氏を母とする豊沢・村雄と続き、愈々多治比真宗が生んだ葛原親王の孫とされる平高望の孫・将門を討って朝家に武名を揚げた藤原秀郷に至ります。
鎌倉幕府にて名の有る御家人らは殆んど将門の叔父とする平良文であるか藤原秀郷の後裔を唱えていました。
先ず、秀郷の子・千晴は平将門の与同を得た武蔵武芝が敵対した経基王の子・源満仲が暗躍した安和の変で罪科に処されましたが、将門の祖父・平高望の更に祖父とされる葛原親王の家令職を務めて朝廷から有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道の出身地は将門が支配した下総の猿島・豊田両郡に隣接する常陸・筑波郡であり、将門が与して経基王と敵対した武蔵武芝の遠祖は武蔵一ノ宮の神職で藤原南家・仲麻呂を討ち武蔵姓を与えられ足立郡司に補された丈部不破麻呂であって、頼朝の遠祖となる経基王の子・源満仲が拠点とした多田荘は摂津・川辺郡に在ったことを憶い起こします。
光仁・桓武両朝で左大臣を任じた藤原魚名は秀郷の遠祖であり、魚名が川辺大臣なる徒名を伝える点、魚名との関係を持つ摂津・川辺郡下に後裔を武家の棟梁として興隆させる源満仲が荘園を開いたことに安和の変の奥深い背景を透かすのです。
この安和の変で罪科に処された秀郷の子・藤原千晴の後裔が奥州藤原氏の祖として陸奥・亘理郡に拠点を構えた経清(図中の1)とされますが、太平洋に臨む亘理郡の南には平将門の配下であった多治経明の子・平常忠の後裔となる千葉氏の岐れが本拠とした相馬郡が接し、多治経明は武蔵・加美郡下で丹荘と号する荘園を営んだ多治比氏を出自として、千葉氏を派した平常忠の兄として秩父平氏の祖となる将恒をも生しています。
奥州藤原氏を派した千晴の弟・千常から派したとされるのが北関東の雄族・小山氏の祖となる政光(図中の2)ですが、政光の出自が実に鎌倉幕府の中枢に在った二階堂氏と等しく上に言及した朝廷より有道姓を与えられる葛原親王の家令職・丈部氏道の後裔となることの論証は此処では割愛します。
千常から派生した武家としては下野・足利郡下に荘園を営んだ家綱(図中の3)が在り、この家綱が荘園を立券した時に院北面を務め家綱を足利荘の下司として自らを同荘の預所とした者が新田・足利両氏の祖となる源義国でした。
武家の棟梁と仰がれた源氏の祖となる満仲に挫かれた千晴の後裔は都より遠く離れた奥州の地に蟠踞したのに対して、千葉氏の祖となる平常忠と偏諱を通有した千常の後裔は関東から西国に拡がり、紀伊・那賀郡下の田仲・池田両荘を営んだ佐藤氏を派し、歌人・西行として識られる佐藤義清(図中の4)はこの流れなんですね。
紀伊・佐藤氏と流れを近くして陸奥・信夫郡に拠点を構えた佐藤基治は奥州藤原氏の配下に在りましたが、今の福島市内となる飯坂温泉に拠点を構えた佐藤基治は湯の庄司と呼ばれ、頼朝による奥州征伐で伊達氏の祖となる朝宗に本拠を逐われたのです。
佐藤基治を逐った朝宗が伊達氏の祖とされるのは佐藤基治が本拠を構えた信夫郡下の飯坂温泉のすぐ南に伊達郡との郡界が在ったからです。
佐藤基治の子らが源義経の郎党となる継信・忠信兄弟でしたが、佐藤姓の由来は遠祖となる秀郷が下野・安蘇郡下の佐野荘を営んだ為、佐野の藤原を縮めたものです。
続いて、千常より派した後裔とする武家が山之内首藤氏ですが、この一族から頼朝の父である源義朝を殺した長田忠致と姻戚であったと云う義朝の郎党・鎌田政清(図中の5)が出たとします。
しかし、山之内首藤氏の源流は源頼義が美濃に赴任した時に扈従する席田郡に蟠踞していた守部氏であったと思われます。
更に千常から派した武家として相模の秦野盆地を本拠として足柄郡から鎌倉期には西国にまで拡がった波多野氏が看られ、その祖を経範(図中の6)としますが、経範は俗名を佐伯真央と伝える空海の生家として讃岐に蟠踞していた佐伯氏の流れを唱えていました。
波多野氏は在京して室町幕府内に在った士を夥しく伝えています。
最後に千常の流れを汲む武家として近江の藤原を縮めた近藤氏が看られ、近藤能成(図中の7)は相模・愛甲郡古庄郷を領知して子・能直を大友氏の祖としたとされますが、大友氏祖の実父・能成は実に上に述べた平高望の祖父とされる葛原親王の家令職を務め朝廷より有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となる有道惟広が仕えた中関白・道隆の子・隆家の後裔となる一条能成と思われ、頼朝が後白河法皇に迫って追捕することを認めさせた義経とともに一条能成は武装した姿で京を出奔しています。