横須賀っつう所はホント嫌な所と思っとったけれど、小泉進次郎君の実家の在る三春町の先には昔朝鮮人部落が在ったと聞き、碌な土地やないと確信しとりました。

 んでも、米海軍基地の内にはタコベルが在るぅ、シナモンが在るぅ、別世界もまた在るんですわなっ。

 この米海軍基地の在る場所は古く楠ヶ浦と呼ばれ、新田金吾中将の倒幕軍と分倍河原合戦で合流する三浦太田和義勝の許に入婿した楠木正成の倅・正統が居した所と言われとりますのやぁ。

 この楠木正成の倅の後裔が永嶋家っつう土地の素封家として識られ、木曽に生まれた島崎藤村の本名・永嶋春樹から、藤村の遠祖を信濃に派した家柄だそうれすわぁ。

 格好の船着き場である楠ヶ浦と向かい合った海岸一帯が横須賀で、鎌倉幕府創業の功臣・三浦義明の息・佐原義連の孫となる新宮時連をまた古文献が横須賀時連と記すのは、時連が紀伊半島の熊野新宮一帯とともに三浦半島にて格好の船着き場となる地にもまた所領を得ていたことを意味しますのやぁ。

 横須賀市の相模湾側に看る芦名の地名は新宮or横須賀時連の兄・光盛より派したと云う陸奥・会津郡の名族・芦名氏の本貫であり、芦名氏の系図に看る新宮or横須賀時連の子・泰盛こそ安達泰盛であって、泰盛の曽祖父とされ伊豆に在った頃の源頼朝の小姓を務めていたとされる安達盛長は新宮or横須賀時連の父・盛連だったんですわぁ。

 陸奥・会津郡から日本海側の下越へ脱ける途次の河沼郡下に在った蜷川荘の地頭職を佐原義連の孫とする古記録を見出し、『吾妻鏡』にて安達盛長の孫として顕れ、北条時頼が三浦泰村を滅ぼすことに功を成した安達義景の諱を逆転させた景義と記しており、会津郡と伊達郡の間に位置したのが安達郡であった。

 14世紀に成ったと考証される『義経記』は九郎判官の郎党・伊勢義盛の父を「伊勢の"かんらい"の義連」とし、伊勢・度会郡下に三浦義明の息・佐原義連が拠点を設けていたと推測し得るのは三浦義明が頼朝の父・源義朝とともに伊勢神宮領であった相模・高座郡下の大庭御厨を掠略していることから、相模から遠く伊勢神宮の膝下近くに出先を設け皇室の祖廟に奉仕したであろうことを想えば得心し、伊勢義盛は実に伊豆に在った頃の頼朝の小姓を務めた安達盛長こと佐原盛連の兄であった。

 北条時頼の時代に鎌倉幕府内で実力を揮った安達泰盛の子が盛宗であって、モンゴル軍の第2回襲来で肥後守護代を任じた安達盛宗こそ13世紀末期に皇室内での皇位継承の争いを調停した長崎円喜であることは細川重男さんが長崎円喜の実名を盛宗と判じていることから言える。

 詰まり、霜月騒動で安達泰盛を討った北条得宗被官の平頼綱を更に討った長崎円喜は父・泰盛の復仇を遂げた訳であり、遡って北条時頼によって三浦泰村が滅ぼされた宝治合戦とは三浦氏の惣領であった泰村を三浦氏庶流であった安達義景こと新宮or横須賀時連が倒した事件だったのれす。

 モンゴル軍の第2回襲来に臨んで肥後守護代を任じた長崎円喜こと安達盛宗は『蒙古襲来絵詞』で父・泰盛と対面する竹崎季長の在所であった肥後・宇城郡竹崎郷に隣接する宇土郡不知火郷小字長崎に拠点を構えたものと推測され、西に延びた宇土半島の長い崎と向かい合った彼杵半島には長崎の地名が今に遺され、長崎市には北条得宗被官である諏訪氏が神職を世襲した社の分祀が看られる。

 伊豆に在った頃の頼朝に小姓として仕えた安達盛長に比定される三浦義明の孫・佐原義連の兄であった伊勢義盛の子・俊経は守護を安達氏から足利氏に更迭した三河の額田郡下に在る寺院が伝えた『滝山寺縁起』に顕れ、俊経の子を俊継、俊継の子を宗継、宗継の子を室町幕府政所執事に就いた伊勢貞継とし、以往伊勢貞継の後裔が室町幕府政所執事を世襲して、伊勢氏の下でまた政所代を世襲した蜷川氏が伊勢義盛の父・佐原義連より派して陸奥・河沼郡下の蜷川荘地頭職を得た佐原>安達氏の庶流であったことを解し、室町幕府の中枢は鎌倉幕府の中枢に在った武家の庶流が担ったことを解する。

 江戸末期に成った『系図簒要』は鎌倉末期を生きた長崎円喜と織田信長の生家を平資盛の末としているが、事実、長崎円喜こと安達盛宗の後裔は横須賀の地名を看る知多半島の伊勢湾岸を経て往古に殷賑を極めた尾張・中島郡下の津島湊に拠点を構え、織田弾正忠家として信長を派した。

 横須賀市内の陋巷とは打って変わった米海軍基地内の敷地は日本の中世史においても歴史を回転させた海軍の一大拠点であった。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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