森鴎外は夏目漱石先生を髯の手入れが行き届いた人物と書いていたと憶うが、確かに英語の先生らしい風貌だ。

 宮沢喜一は瞭らかにカンボジアに進駐した米軍の応対を計るプノンペンの役人然としていたが、文部省の下命でイギリス留学を果たした漱石の父は牛込から高田馬場一帯の名主を務めていたといい、漱石の遠祖は武田勝頼が囲んだ長篠城に立て籠もる奥平貞昌配下の士であった。

 真田幸村の祖父・幸隆は武田信玄帷幕の将であり、上信国境を成す鳥居峠の麓に位置する真田の地に発祥した武家は群馬県高崎市吉井町奥平を発祥地とする武家より派した。

 幸村の父・昌幸は上田城で徳川家康配下の将であった鳥居元忠と大久保忠世らが率いた8千の兵を2千の手勢で撃退としたとNHKが描いているが、鳥居元忠の遠祖が何処に居たか、週刊新潮にコラムを連載する東大の本郷先生も識らないだろうし、大久保忠世の遠祖はまた群馬県人だった。

 藤原泰衡の配下であった佐藤基治は福島市の飯坂温泉の領主として、源頼朝が率いた鎌倉幕府軍と闘い、伊達朝宗に領地を奪われた。

 佐藤基治の遠祖は栃木県佐野市の唐沢山に城を構えた藤原秀郷だったと言われ、佐野の藤原を圧縮して佐藤とし、登記上の奥さんを群馬県から嫁いた大窪太郎の娘さんとしていた。

 大窪太郎の子孫が家康配下の大久保忠世に繋がる訳は長くなり、佐藤基治が妾に生ませた佐藤継信・忠信兄弟らは源義経の配下となって、頼朝が藤原泰衡を討った大義名分は泰衡が義経の味方をしたからだったといい、義経の配下として主とともに平泉で玉砕した鈴木重家の生家は紀伊・名草郡藤白郷の領主であった。

 水軍の将として聞こえた藤白鈴木家は本姓を穂積とし、皇統譜第10代・崇神天皇后の兄・伊香色雄の子・多弁(たわき)宿禰から派した武家だが、伊香郡は琵琶湖の北岸に位置する。

 多弁宿禰の弟となる者らが物部大新河・十市根兄弟らで、伊香色雄・多弁父子らの遠祖は『古事記』が地上に初めて天降ったとする饒速日(にぎはやひ)であり、饒速日が天降った哮峰(いかるがのみね)は生駒山地の涯となる大阪府交野市に在ったと伝え、交野市私市(きさいち)はヤマト王権時代に后(きさき)部の在った地と思われて、関東にも東京湾に注いだ旧利根川となる中川と元荒川に挟まれた埼玉県加須市騎西(きさい)町に私市(きさい)党と呼ばれた武士団の在ったことを伝える。

 藤原秀郷の高祖父・魚名の母を片野朝臣と伝え、大阪府交野市私市に在ったと思われるヤマト王権時代の后部が関東に置かれた地に発達する武士団・私市党を出自とした者が藤原秀郷であったと思われる。

 源義経の郎党・鈴木重家の生家である藤白鈴木家を派した多弁宿禰はまた交野氏を派しているが、多弁宿禰の弟として古代に軍事・警察を担った物部氏祖兄弟らの下に大ミブの名を伝える者が在って、京都市の壬生を湿地帯から由来した地名と説くのとは異にし、大ミブのミは口偏に羊と記す漢字で、中国人は美の字の通り羊を価値有る動物と看て、羊毛をもたらした胡族(胡椒や胡瓜を産する地の族)で羊が啼くような言葉を発した部族の長が大ミブであって、大ミブの後裔は平安期から江戸期に亘って朝廷の少納言局を支配した地下官人家の中原氏を派し、源義仲を扶育した信濃・筑摩郡下の大吉祖荘領主を中原兼遠と伝える。

 中原氏の始祖にとって弟に該る者が常陸・久慈郡を治めたといい、その後裔となる筑波郡出身の丈部(はせつかべ)氏道は桓武天皇が多治比真宗に生ませた葛原親王の家令を務め、桓武帝の孫・仁明天皇が即位する833年に有道姓を与えられたとし、多治比真宗の高祖父となる嶋は『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴族のモデルと言われ、嶋の弟・三宅麻呂は朝廷で銅貨鋳造の責任者を務め、708年武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅が発見されてより3年経った711年、多治比三宅麻呂の名を刻んだ石碑が群馬県高崎市吉井町に建立され、今に遺されている。

 三宅麻呂の名を刻んだ石碑が建てられた711年、朝廷は石碑を建てた地一帯を小さく刳り貫くように多胡郡としたが、新郡の号は多治比三宅麻呂を朝廷が中国人の言う胡族と看た証と捉えられ、タジク族が日本列島に渡来していたことを識る。

 石碑は新郡の経営を羊なる者に委ねたとし、多治比真宗が生んだ葛原親王の家令を務め833年に有道姓を与えられた丈部氏道の祖父にとって従弟に該る者を羊と伝え、饒速日の後裔として藤白鈴木家の遠祖や物部氏祖らの弟となる大ミブがタジク族の棲息した地に進出したギリシア人の後裔であったことを推測させる。

 京都市の壬生を近くして秦と呼ばれたユダヤ人が養蚕を営んでいたが、秦氏を出自とした惟宗允亮が編纂した『政事要略』は自然銅が発見された武蔵・秩父郡と隣接する児玉郡下に勅旨営牧が設けられ、初めての牧監を惟宗氏が務めたとし、中原氏が支配した少納言局との関わりを想わせる清少納言が仕えた定子の父・藤原道隆の家令を務めた有道惟広は833年に有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となり、惟広の子・惟能(これよし)は大宰府へ左遷される藤原伊周の家令を罷め、惟宗氏が初めて牧監を務めた武蔵・児玉郡下の勅旨営牧に下った有道惟能の孫となる経行が秩父郡を支配した多治比重綱の妹に生ませた行重の子・行時が上野・多胡郡片山郷を拠点とし、鎌倉初期の多胡郡に在った荘園の領主として惟宗氏がまた在ったことをも伝える。

 有道経行の娘を迎えた源経国は義家の孫として平正盛の娘を母とし、正室はまた後白河法皇の子・二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘であったが、源経国は有道経行が拠点とした勅旨営牧と隣接する武蔵・児玉郡下の地に河内荘を開き、源経国の子・盛経は河内荘に隣接する児玉郡稲沢郷を領したが、斯地には稲聚神社と号する祠を今も遺し、鈴木重家の生家・藤白鈴木家から岐れた江梨鈴木家は戦国期に小田原北条氏の水軍の将として活動し、伊豆半島の稲取岬一帯を本拠とした。

 稲沢盛経の後裔が紀伊・日高郡下で野長瀬荘を営んだ武家で、武蔵坊弁慶は日高郡に生まれたとの伝承を聞かせる。

 源義経の母・常盤御前は朝廷の女官であったと伝え、常盤御前は晩年を武蔵・多摩郡成木郷の山間に隠棲したとの伝承を聞かせて、成木郷の領主はまた藤原秀郷を派したと思われる武蔵・埼玉郡下に蟠踞した私市党の武家であったとする。

 私市党が蟠踞した埼玉郡を流れる元荒川を遡った大里郡久下郷を領した直光は『吾妻鏡』にて甥の熊谷直実と幕府で頼朝の裁決を仰いだとし、北条得宗の被官であった南条時光が日蓮の法弟に開かせた大石寺の伝える文書は熊谷直実と北条時政を従兄弟の続柄に在った者らとする。

 北条時政と従兄弟であったっぽい熊谷直実の伯父・直光が領した大里郡久下郷から元荒川を下った先の埼玉郡久下郷を領した親弘は有道姓を伝える領主だが、久下親弘の父・弘定は埼玉郡下を流れる旧利根川の中川をずっと遡った先の児玉郡久下塚郷を領したとされながら、埼玉県教委の努力にも拘わらず未だに久下塚弘定の居館遺構を発見できず、しかしながら久下塚弘定の大叔父と伝える児玉郡塩谷郷の領主・家遠は通称を平五大夫とし、家遠の叔父とする児玉郡真下郷の領主・基直もまた通称を五大夫として、児玉郡塩谷郷には渋谷金王丸の墓碑とする風化した五輪塔を見せ、金王丸の諱とされる昌俊から連想される『吾妻鏡』の土佐坊昌俊は頼朝から京・堀川に駐屯する義経らへの襲撃を下命され、下野に在る老母と幼児を案じたとし、下野・塩屋郡に隣接する那須郡の郡司を世襲した武家の旧称は有道氏の旧称と等しく丈部であって、那須氏からはまた有道経行の娘を迎えた源経国の継室が送られている。

 土佐坊昌俊の実体であったように憶測される塩谷家遠の叔父・真下基直をまた基行と伝える文書を多く見せ、『愚管抄』巻第六にて北条時政について叙べた段落の末尾に突如文脈から逸脱した一文が示唆する「ミセヤノ大夫行時」の女婿であった児玉党の武士を真下基直or基行とするならば、「ミセヤノ大夫行時」は源経国を女婿とした有道経行の子として上野・多胡郡片山郷を領した行時であったと思われる。

 居館址を児玉郡下に見せない久下塚弘定の長兄・庄家長は『平家物語』にて一ノ谷合戦で平重衡を捕縛した武者とされ、家長は鎌倉幕府から備中・小田郡下の草壁荘地頭職を与えられており、庄家長の後裔は室町期の備中守護であった管領・細川京兆家の守護代を務め、備中・後月郡下の荏原荘には那須氏が在ったことを伝え、やはり荏原荘下に高越山城を構えた北条早雲こと伊勢宗瑞は細川京兆家の内衆・庄元資の配下であった士から借財を為していたことを伝える。

 庄家長の弟らには久下塚弘定の他にも児玉郡四方田郷を領したと伝える弘長の居館址が発見されておらず、児玉郡に隣接した那珂郡に蟠踞した武家が多摩郡下の船木田新荘を治めた武家を惣領とする横山党から派したと伝えることから、四方田弘長は逆に児玉党から横山党に猶子として送られ、横山党の平子広長に成り替わった可能性を感得し、長兄である庄家長が嫡流を児玉郡に残さなかったことからも、児玉郡の臨む利根川を下った先となる幡羅郡中条保の領主を児玉党に属した者と横山党に属した者とを併せて伝える点を考え、横山党に属した中条家長は実に児玉党に属した庄家長であった可能性をも感得して、鎌倉幕府から三河・賀茂郡下の高橋荘地頭職を与えられた中条家長の後裔に仕えた藤白鈴木家から上野より信濃を経て三河へ転じたとする松平親氏を女婿とした鈴木信重を派したとする伝承を聞かせ、確かに徳川家康の高祖父となる松平長親の岳父を鈴木重勝とし、今川の客将であった伊勢宗瑞に額田郡下の岩津城を囲まれた。

 有道経行の娘を迎えた源経国が武蔵・児玉郡下に開いた河内荘を流れる小山川を下った先の児玉郡牧西郷の領主・弘季もまた庄家長の弟とし、弘季の子を義季と伝える点、児玉郡牧西郷から小山川を下って直ぐに合流する利根川を下った先にて利根川畔となる上野・新田郡得川郷を領した義季は新田義重の猶子として児玉党から送られた観を得て、新田義重の父である源義国に扶育された者が有道経行の娘を迎えた源経国であった係累を利したものと推測される。


 真田幸村の父・昌幸が上田城で2千の手勢を以て徳川家康配下の将・鳥居元忠&大久保忠世らが率いた8千の兵を撃退したとこの間NHKでやってたけど、真田昌幸は関ヶ原合戦直前にも江戸城から兵を率いて西へ向かった徳川秀忠の軍勢を足止めしたとされるが、真田昌幸は石田三成と書簡の往復を繁くしたことを止め、上田城を間近くする佐久郡下の芦田城主・山口直之の嗣子となった直友は徳川家康配下の士であり、山口直之・直友両者は丹波・氷上郡下の黒井城を本拠とした赤井氏を出自としながら武田信玄の配下となった信濃・佐久郡下の芦田城主の嗣子となった者らで、武田遺臣の小幡景憲が編纂したとされる『甲陽軍鑑』が戦国三傑として挙げる一人の赤井直正が後見した一族惣領の忠家は明智光秀にとって股肱の臣であった斉藤利三に黒井城を接収されると縁者を頼って遠江・引佐郡に下ったとし、大久保忠世を介して家康より芦田城主の許に赴くよう慫慂されたと伝え、芦田城に在った時石田三成に仕えていた旧臣から届けられた書状を家康に献呈し、忠家は関ヶ原合戦後大和・十市郡下に所領を与えられた。

 庄家長が成り替わったと思われる中条家長の所領が在った武蔵・幡羅郡下の長井荘を治めた斉藤実盛が頼朝の庶兄・義平に襲撃された源義賢の遺児・義仲を信濃・筑摩郡に在った中原兼遠の許へ送り届けたとされ、義仲が治承4年の源氏旗揚げで決起した地は信濃・佐久郡下に在った依田実信の居城であり、この依田氏の庶流が芦田城主で、赤井氏の本拠であった丹波・氷上郡下の黒井城を接収した斉藤利三は斉藤実盛の後裔を唱え、利三の母が再稼した先である遠江・佐野郡石谷(いしがい)郷の領主は鎌倉幕臣であった二階堂氏の流れとし、斉藤利三にとって父違いの妹が『甲陽軍鑑』にて戦国三傑の一人に挙げられる長宗我部元親の正室であった。

 長宗我部氏は阿波に在った秦氏を出自とし、『愚管抄』は伊豆に在った頃の頼朝に有道姓の領主らが拡がった武蔵・比企郡から仕送りを続けた比企尼の嗣子となる能員を阿波の生まれと叙べ、鎌倉期の上野・多胡郡下には有道姓の領主と秦氏を出自とする惟宗姓の領主らが在ったことを伝え、『愚管抄』は上に述べた「ミセヤノ大夫行時」の女婿となった者を児玉党の武士とともに比企能員と指摘している。

 若き太閤殿下が遠江・引佐郡下の頭蛇寺城主・松下之綱に仕えたとする伝承を聞かせるが、松下之綱の娘を室とした者が斉藤利三の娘として父が接収した丹波・氷上郡下の黒井城下で生まれた春日局とともに徳川家光に密着した柳生宗矩であって、松下之綱を配下とした飯尾連龍は鎌倉幕臣・三善氏の流れとし、家康が浜松城と号を改める曳馬城を主であった井伊直平から奪ったが、真田幸村の母は遠江・引佐郡に在った尾藤頼忠の娘で、尾藤姓からは北条泰時の被官であった尾藤景綱を連想させるが、尾藤頼忠の娘を室とした者がまた石田三成であり、尾藤頼忠の兄であった宇多知宣が太閤殿下の弟であった羽柴秀長の臣となっていることからも、江戸期の講談で信長の草履取りを務めていたとする太閤殿下は尾藤、即ち尾張の藤原との関係を憶測させる。

 北条泰時の被官であった尾藤景綱を相模・鎌倉郡下の山内荘址に尾藤の字名を看ることから、同荘を治めていた山内首藤氏の岐れと考える向きが在るが、山内首藤氏の出自は美濃・席田郡に在地していた守部氏であり、尾藤氏は尾張の藤原として頼朝の母・由良御前の父であった藤原南家祖四子・巨勢麻呂流となる季範との眷属関係を憶測したくなる。

 熱田神宮の神職を世襲した尾張氏の嗣子となる藤原季範の後裔と関わりを持った者が太閤殿下であったと考えられる。

 史上、瞭らかに父子揃って徳川家康と敵対したとされる真田昌幸・幸村だが、武田勝頼が囲んだ長篠城に立て籠もる奥平貞昌の遠祖は上野・多胡郡奥平郷を拠点とし、群馬県に残った奥平氏の後裔を唱える人々は真田昌幸の叔父となる矢沢頼綱と等しく矢沢姓を称え、武田勝頼より離叛した小山田信茂の血族に真田幸村の姉が嫁いでおり、NHKが描く通り幸村が初めて室に迎えた女の親族を堀田と伝え、上田城を近くした信濃国分寺には『牛頭天王之祭文』といった古文献を伝え、信長の父・織田信秀が支配して蓄財を遂げた尾張・中島郡下の津島神社は代表的な牛頭天王社であり、津島社の社家であったとする堀田正盛の子・正俊を春日局は徳川家光に推挙し、堀田正盛の諱を分解するとともに大坂城奉行を務めた長束正家と増田(ました)長盛の偏諱を生成して、しかも両人はめでたく堀田正盛と等しく尾張・中島郡の生まれという。

 太閤殿下の裁定で利根川を境に上野の利根郡を小田原北条に、吾妻郡を真田昌幸に帰属させることとなった後、真田昌幸の叔父・矢沢頼綱が治めていた利根郡下の沼田城と利根川を挟んで目と鼻の先に望む吾妻郡下の名胡桃城を小田原北条配下の猪俣邦憲が侵したことが太閤殿下の小田原征伐の因を成したとされるが、真田側の名胡桃城を守備していた武将を鈴木重則と伝え、家康の遠祖とする松平親氏が鈴木信重の女婿となったとする伝承や家康の高祖父となる松平長親の岳父を鈴木重勝と伝えることを連想させる名ではある。

 結局、小田原征伐で一番得をしたのは家康で、家康は一挙に広大な封土を獲得した。

 石田三成と連んだ真田昌幸は西へ急ぐ徳川秀忠の軍勢を上田城で足止めし、紀伊の九度山に配流されたが、江戸幕府の大名に取り立てられ沼田城主となった子・信之に九度山から度々金を送れと催促し、京都に何度も赴いており、真田昌幸が家康配下の二将が率いた軍勢や徳川秀忠の軍勢と上田城で争ったというイベントや幸村が大坂夏の陣で家康の本陣に何度も肉薄したとする話は芝居臭く、NHKが教える通り真田昌幸が上田城を普請したのは家康の配下となった時代に家康から費用を支弁して貰ってのことで、尾張・中島郡下の津島神社々家であったとする堀田正盛の子・正俊の後裔は江戸城に最も近い下総・印旛郡下の佐倉城主に収まり、上に述べた小田原北条の真の出自と思われる庄家長の弟として埼玉県教委の努力にも拘わらず居館址を発見させぬ四方田弘長の後裔は鎌倉期から太閤殿下の奥州仕置に至るまで陸奥・遠田郡に蟠踞し、伊達の軍勢を撥ね返すほど健在を保ち、明智光秀が本能寺を囲んだ陣中にも現れ、四方田氏は光秀が成り替わったとする巷説を見せる天海が住持を務めた無量寿寺北院を版図に収めて佐倉城とともに江戸城を近くする川越藩に取り立てられている。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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