司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』が描くように、幕末に全国で吹き荒れた若き青年志士らの尊皇攘夷運動を日本史の青春期とするならば、青春期を上り詰めた坂の上に見たものが日露戦争であって、日露戦争における陸軍軍人と言えば乃木希典、海軍軍人と言えば名参謀と謳われる秋山真之だろうが、日露戦時に乃木や秋山らの上に立った児玉や東郷もまた決して識られてない訳でない。

 日露戦時には弾道計算や動力機関の専門的教育を受けた部下らに比して、幕末に生まれた児玉と東郷は軍人としては全くの素人であり、しかし、二人には共通する点が見受けられる。

 一つは児玉が日露開戦に当たって天皇が任命する勅任官であった陸軍大臣から閣議で任命される議奏官となる総参謀長への降格人事を承諾し、東郷が休日を厭わず連日海軍の演習に手弁当で現れたことで、無学な者の摂る二人の愚直ぶりである。

 もう一つは誰も指摘しないが二人の家系は一つの祖に辿り着くことだ。

 日清戦争が集結した年に早稲田大学の前身校を首席で卒業し、大隈重信らの援助でアイビー・リーグの名門ダートマス・カレッジへ留学した朝河貫一は藩主を丹羽氏とする陸奥・二本松藩の武家に生まれ、日露開戦の前々年にエール大学より博士号を授与された。

 朝河はポーツマス講和条約が締結された翌年から翌々年にかけて日本に関する図書を収集する為に帰国しているが、アメリカで死去した朝河は東郷の生家を派する薩摩の渋谷氏が伝えた『入来院文書』の研究を成している。

 源平合戦時代を生きた渋谷重国の子とされる光重は『吾妻鏡』だけが記す1247年の宝治合戦での軍功として得た薩摩の地頭職を東郷別府は子・実重に、入来院は子・定心(法名)に分与した。

 日本列島に鉄器文化を伝えた饒速日(にぎはやひ)は中央アジアに築かれたグレコ・バクトリア王朝の遺民であったが、饒速日より7世となる伊香色雄(いかがしこお)は琵琶湖の北岸に位置する近江・伊香郡を拠点に妹を皇統譜第10代・崇神天皇の后とし、伊香色雄の子らが物部氏などに連なり、その中でも今の京都市壬生を拠点とした大ミ布(ミブ;ミは口偏に羊)は中国人がギリシア人を羊が啼くような発話をする部族の長を意味する号であり、大ミ布の後裔となる有道惟広(これひろ)は一条天皇皇后として清少納言が仕えた定子の父・藤原道隆の家令を務め、有道惟広の孫となる経行は武蔵・児玉郡に在って隣接する秩父郡を支配した重綱の妹を室とし、子2人を重綱の猶子としている。

 有道惟広の後裔として武蔵・入間郡正代郷を所領とした小代行平が安芸・山県郡下の壬生荘地頭職を山縣氏と争い源実朝の前で獲ち取ったことが『吾妻鏡』に記され、小代行平が地頭職を得た壬生荘に隣接する地に吉田郡山城を構えた毛利氏の配下となる小代氏から派したものが児玉の生家であった。

 東郷の遠祖と等しく北条時頼が三浦泰村を滅ぼした宝治合戦での軍功に因り小代重俊は肥後・玉名郡下の野原荘地頭職を得て、肥後に岐れた小代氏が伝え長崎県島原市に遺った『小代文書』を東大名誉教授の故・石井進さんが研究し、文書は有道経行の義兄となる秩父重綱の子・江戸重継の娘を母とした畠山重忠の異父兄を有道経重とし、畠山重忠は秩父重綱の曽孫となる者であった。

 有道経行の義兄となる秩父重綱の弟を武蔵・橘樹郡小机郷を拠点とした基家と伝え、基家が前九年の役の軍功に因り源頼義より与えられた武蔵・豊嶋郡下の谷盛荘は東郷の遠祖となる渋谷光重の弟・高重が和田義盛に与して相模・高座郡下の渋谷荘を喪った高重の子が隠棲した地として今日の東京・渋谷となり、基家の子・重家は多摩川河口となる今の川崎・堀之内に居館を構え、重家の子が渋谷重国となるが、基家が本拠とした武蔵・橘樹郡小机郷を流れる鶴見川の源流となる多摩郡小山田郷を領した有重は有道経重を異父兄とした畠山重忠の叔父とされ、小山田有重の子・重成は基家の子・重家が居館を構えた多摩川河口より遡った畔となる稲毛荘を治めていた。

 ことほど然様に、アドミラル東郷の遠祖となる渋谷光重・実重父子らの尊属となる重国は祖父・基家を有道経行の義兄・秩父重綱の弟と伝えながら、実の処、紀元前3世紀の中央アジアにグレコ・バクトリア王朝を築いたギリシア人の後裔となる饒速日より派した有道氏の血脈であることを十分に推測させ、有道氏を出自とする児玉と併せ日露戦争は陸海ともにギリシアの英血がヨーロッパ最大の強国をアジアの涯で退けた壮挙であったことを識る。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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