1985年8月に日航123便が墜落した群馬県上野村の高天原山は群馬県と長野県の県境を成す関東山地の一画に位置し、長野県側の山腹から千曲川を発し、日本海に注ぐ時には信濃川となって、群馬県側の山腹からは埼玉県との県境を成す神流(かんな)川を発し、物部氏の祖として初めて大倭豊秋津島瑞穂国に天降った饒速日(ひぎはやひ)命の出生地とする高天原を号した山から発する川はまた神の流れる川とされる。

 神流川を挟んで群馬県と向かい合う埼玉県神川町の金鑚(かなさな)神社は古くから在ったことを伝え、拝殿のみを構えて神体を収める本殿を廃し、背後の御嶽山を神体とする特異な形式は諏訪大社春宮が守屋山を神体として拝殿のみを構える形式と等しく、他には物部氏が奉仕したという奈良県天理市の石上神宮とともに『古事記』に顕れる三つの神社の一つである奈良県大三輪町の大神(おおみわ)神社が三輪山を神体として拝殿のみを配した形式を見るのみである。

 金鑚神社の神体とする御嶽山の麓には国指定天然記念物とされた御嶽の鏡岩という奇観が見られ、金鑚神社の参道入口に立つ大鳥居の前には天台宗の大光普照寺が在る。

 奈良時代に創建された勅願寺と伝える大光普照寺を天台宗としたのは最澄が開いた天台宗を興隆させた円仁であり、下野・都賀郡下に生まれたという円仁が大光普照寺を天台宗とした時の仁明天皇が即位した833年、常陸・筑波郡出身の丈部(はせつかべ)氏道が有道姓を与えられており、氏道は『尊卑分脈』が平高望の祖父とする葛原親王の家令を務めていた。

 平安時代における関東での天台宗の檀徒には丈部と名乗った者を多く見受けるが、桓武天皇の孫として後世に皇統を伝える仁明天皇が即位した年に有道姓を与えられた丈部氏道より6世となる有道惟能(これよし)は家令を務めた藤原伊周が叔父・道長の左大臣就任の年に大宰府へ左遷される直前に伊周の家令を辞し、関東に下った先が金鑚神社の神体とする御嶽山の北に流れる神流川を少し遡った地に在った勅旨営牧であった。

 有道惟能の後裔として源平合戦時代を生きた武蔵・児玉郡下の領主らにて、庄家長は『平家物語』が一ノ谷合戦で平重衡を捕縛した武将とされ、鎌倉幕府より備中・小田郡下の草壁荘地頭職を与えられ、家長の後裔は戦国初期に細川京兆家を守護とした備中の守護代を任じている。

 備中・後月郡下の荏原荘に高越山城を構えたと伝える伊勢宗瑞は細川京兆家の内衆であった庄元資の家臣から借財を為し、返済しなかったことから訴えられたとする史伝を見せ、宗瑞の出自を示唆するものを感得し、茲に備中・後月郡下の荏原荘には那須氏が在ったことが注目される。

 有道惟能の孫・経行は祖父が下った武蔵・児玉郡下の勅旨営牧を拠点に源義家の嫡子・義忠の子となる経国に娘を稼し、叔父として新田・足利の祖となる義国に扶育された源経国は有道経行が拠点とした勅旨牧と隣接する地に河内荘を開いている。

 有道経行の娘を迎えて武蔵・児玉郡下に河内荘を開いた源経国はまた下野の那須氏からも娘を迎えており、平安初期に郡司職を世襲した在地の族を大領と呼んだが、那須大領の旧称もまた仁明天皇が即位した年に有道姓を与えられた氏道と等しく丈部であった。

 有道経行が拠点とした勅旨営牧と源経国が開いた河内荘を結ぶ山道の途上となる児玉郡稲沢郷の地は源経国の子・盛経が領し、盛経の偏諱は父・経国の母方祖父となる平正盛の偏諱と通じ、盛経は平清盛の祐筆を務めたとする巷伝を見る。

 源義経の母・常盤御前は朝廷の女官であったされ、義経の郎党として平泉で玉砕した主と最期まで行を共にした鈴木重家は穂積姓を伝えて紀伊・名草郡藤白郷を本領とした水軍の将・藤白鈴木家の生まれで、藤白鈴木家の分流として小田原北条氏に仕えた水軍の将・江梨鈴木家は伊豆半島の稲取岬一帯を拠点とし、武蔵坊弁慶の出生地との伝承を聞く紀伊・日高郡下の野長瀬荘を治めた武家は有道経行の娘を迎えた源経国の子・稲沢盛経の後裔を唱え、武蔵・児玉郡稲沢郷には今も稲聚神社と号する祠を遺す。

 『平家物語』が平重衡を捕らえたとする庄家長の後裔は備中に残り、家長の弟として児玉郡四方田郷を領したと伝える弘長は史家に実在性を疑われながら、四方田氏は鎌倉期から戦国期に至るまで陸奥にて北上川支流の江合川流域に蟠踞し、749年陸奥守・百済王敬福が落成を間近くした東大寺大仏へ鍍金する素材として献上した金を陸奥・小田郡涌谷郷で発見した者を丈部大麻呂と伝え、有道氏や那須氏の旧称と等しくする。

 明智光秀の配下として四方田氏は本能寺を囲み、江戸期には川越藩士に取り立てられるが、川越に在る天台宗の無量寿寺北院の尊海・法弟であった豪海は13世紀末に武蔵・児玉郡下の大光普照寺を天台のアカデミーたる檀林とし寺中興の誉を伝える。

 徳川家康の側近として百歳を越える賀寿を伝えた天海を住持としたのが川越の無量寿寺北院で、巷説では天海を陸奥の生まれとする。

 有道経行の娘を迎えた源経国が開いた河内荘を流れる小山川と四方田弘長が領したと伝える児玉郡四方田郷から発する女堀川とが合流する児玉郡牧西郷を領したと伝える者が庄家長・四方田弘長らの弟となる弘季で、牧西弘季の子・義季は源経国の叔父として経国を扶育した源義国が子・義重とともに郡内一円の私領化を遂げた上野・新田郡下で利根川畔となる得川郷を領した義季として新田義重の猶子に送られた者と思われる。

 庄家長と諱を等しくする中条家長は児玉郡から利根川を下った先となる幡羅郡中条保を領した小野姓横山党に属する領主と伝えるが、史家に実在性を疑われる四方田弘長の諱の訓音と等しくする平子広長もまた小野姓横山党に属したと伝えながら、広長の兄として横山党の惣領であった横山時兼が和田義盛との姻戚関係から北条義時に滅ぼされた後も、中条家長や平子広長らの卑属は健在で、中条家長は三河・賀茂郡下の高橋荘地頭職を鎌倉幕府から与えられている。

 北条時政の郎党であった天野遠景の後裔を唱えた尾張藩士・天野信景が編纂した『浪合記』は足利勢に圧された得川有季・親氏父子が上野から信濃を経て三河・賀茂郡に入ったとし、親氏は賀茂郡下の高橋荘を治めた中条氏の配下として紀伊・名草郡藤白郷を本領とした藤白鈴木家の流れを汲む鈴木信重の娘婿となったとし、確かに徳川家康の高祖父となる松平長親の母方祖父を鈴木重勝と伝える。

 備中・後月郡下の荏原荘に高越山城を構えたと伝える伊勢宗瑞は今川氏の客将として三河・額田郡下の岩津城に松平長親を囲んでおり、伊勢宗瑞から小田原城を奪われた大森藤頼は藤原伊周の後裔を伝えるが、伊周の家令を務めた者が有道惟能であった。

 北条氏政・氏直の旧領は徳川家康が収めた。


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