大坂夏の陣で徳川家康の本陣に肉薄した真田信繁の祖父・幸隆は武田信玄の配下に在った将として識られ、史家の多くは信濃・小県郡海野郷を本貫とした武家の分流と考えている。

 1180年の源氏旗揚げに臨み海野郷を間近くした依田城で決起した源義仲の郎党・根井行親を海野幸親と同一人視する史家もまた多く、義仲が中原兼遠に扶育された筑摩郡から木曽川を下った美濃・可児郡下の明知長山城主の配下であった土田秀久は根井行親の後裔とし、土田秀久の娘が織田信長の母であった。

 海野幸親の子・幸長を『徒然草』226段に見える『平家物語』の作者・信濃前司行長と考える国文学者が在り、上田市に在る信濃国分寺の伝えた『牛頭天王之祭文』は出雲族の祖神・須佐之男命がインドの祇園精舎の守護神である牛頭天王に仮託された由縁を教え、播磨・揖保郡下で牛頭天王を祀った広峰神社から勧請された京都の八坂神社の祭礼で牛頭を頭上に戴いた仏像に怨霊退散を祈った御霊会が祇園祭の起源とされる。

 藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父であった中関白・道隆の家令を務めた有道惟広という吏僚の子・惟能は家令を務めた中関白の嫡子・伊周が伊周の叔父・道長の左大臣就任に因って大宰府へ左遷される直前に武蔵・児玉郡下に在った勅旨営牧の牧監として関東山間の僻地に下り土着したが、有道惟能の後裔となる武家が上野・多胡郡奥平郷を領し、上野・新田郡得川郷の領主とともに信濃を経て三河へ転じ、奥平氏より岐れた武家はまた播磨西部に位置した佐用郡を拠点とした赤松氏となり、室町期に播磨守護を任じた赤松氏の許で守護代を務めた武家が播磨中央に位置した揖保郡を拠点とした浦上氏であり、揖保郡に在った赤松氏の庶流となる小寺政職の被官であった者が豊臣秀吉の軍師・黒田長政で、播磨東部に位置した加古郡を拠点として豊臣秀吉に攻められた三木城主・別所長治もまた赤松氏より岐れた武家であり、頼朝の遠祖となる源満仲が多田荘を開いた摂津・川辺郡と播磨・加古郡を結ぶ途上に在った有馬氏もまた赤松氏の分流であって、播磨・加古郡三木郷小字大村を領した大村由古は豊臣秀吉の祐筆を務め、キリシタン大名で識られる有馬晴信や大村純忠らが拠点を構えた肥前・彼杵郡下にも有名なカトリック教会の建つ浦上郷の字名を看る。

 播磨・揖保郡浦上郷を本貫とした武家と祖を等しくするとした武家が徳川家光に重用された堀田正盛であり、堀田氏は京・八坂神社が勧請した揖保郡下の広峰神社に次いで古い牛頭天王社と言われる尾張・中島郡下の津島神社の社家であったいう。

 織田信長の父・信秀は津島神社の鎮座する地で往時に殷賑を極めた港を支配し、信長が雄飛する経済的基礎を堅めた。

 対馬海流がぶつかる山口県萩市に出雲族の祖神を連想させる須佐湾を看て、京・祇園祭の起源を成す御霊会の辞から連想されるのが相模・鎌倉郡下に幾つか看られる御霊神社であり、『吾妻鏡』は御霊神社の祀る鎌倉景政の孫を相模・三浦郡長柄郷を領した長江義景であるとし、長江義景の後裔が美濃・不破郡の関ヶ原を領した竹中重治であって、黒田長政とともに豊臣秀吉の軍師として識られた武将であった。

 牛頭天王祭文を伝えた信濃国分寺の在る小県郡下の真田郷は上野・吾妻郡への路を渡す鳥居峠の麓に位置し、武田信玄の時代に現れた真田幸隆の孫・信繁は徳川家光に重用された堀田正盛が死ぬ10年前に死んだとする異説を看る。

 堀田正盛は生家の在る尾張・中島郡をともに出身地と伝えて大坂城奉行を務めた長束正家と増田長盛それぞれの偏諱を併せ武蔵・川越藩主を務めており、徳川家康の遠祖となる義季は新田義重の猶子となって新田郡得川郷を領し、新田義重の父である源義国が扶育した経国は義国の甥であり、有道惟能の孫・経行の娘を迎えた源経国が武蔵・児玉郡に開いた河内荘を流れる小山川を下った先となる牧西郷を領した弘季の子が家康の遠祖となる得川義季であった。

 児玉郡牧西郷で小山川より岐れる女堀川を遡った四方田郷を本貫とする武家は明智光秀が本能寺を囲んだ陣に加わり、堀田正盛が藩主を務めたことの有る川越藩に仕えている。

 百歳を優に越えた異常な長寿を伝える天海が住持を務めた天台宗の無量寿寺北院は川越藩の版図に在り、家康の側近であった天海は有道惟能の後裔らの拡がった武蔵・児玉郡下にて惟能の後裔らが崇敬した金鑚(かなさな)神社の別当寺として参道入口の鳥居前に在る天台宗の大光普照寺の住持をも兼ね、真田氏が発祥した小県郡下にて『牛頭天王之祭文』を伝える信濃国分寺もまた天台寺院である。




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