豊臣秀吉の臣となった真田昌幸は秀吉の裁定で利根川以東の上野・利根郡を小田原北条氏に割譲することとなったが、利根川以西となる真田昌幸の領した吾妻郡下の名胡桃城が小田原城主配下であった猪俣邦憲によって侵され、豊臣秀吉による小田原征伐を惹き起こしたとされる。

 小田原城の陥落に因って徳川家康は三河・遠江・駿河を領する大名から小田原北条氏が支配した領地を掌中に収め、豊臣政権で最大の領地を有する大名となった。

 なぜ秀吉は北条の領国に上杉景勝を越後から転封させなかったか?

 無論、上野全土は真田昌幸に与えた上でのことだが、信濃・小県郡下の上田城に籠城した真田昌幸を家康は囲み大敗を喫したという。

 家康と反目した筈の真田昌幸の領地に接して真田氏の領地を遥かに凌ぐ巨大な領地を家康が関東に与えられたのは、実に真田昌幸が秀吉に建言したからではなかろうか。

 会津に転封された上杉景勝を征伐する為、家康が軍勢を率いて陸奥に向かった時、真田昌幸と書信の往復を繁くした石田三成が挙兵し、関ヶ原合戦を前に関東の軍勢を率いて東山道を西上する家康の子・秀忠を真田昌幸が上田城で足止めしたとされるが、為に石田三成は家康の率いる軍勢に勝る兵力で関ヶ原に布陣し必勝を期した訳で、しかし関ヶ原での家康本陣背後となる丘に登った毛利の大軍は終始動くこと無く、石田三成は敗北した。

 真田昌幸の子・信繁は豊臣秀頼が大坂冬の陣で家康と和睦する条件として大坂城の外堀を埋めた為に城郭の外で真田丸を築いたとするが、夏の陣で家康の本陣に幾度となく肉薄した上に力尽き戦没したとされる。

 そんな真田信繁の没年を1641年とする異説が在る。


 堀田正盛は江戸幕府の幕閣要職に登った人物として武蔵・川越藩主、信濃・松本藩主、そして江戸城に最も近い初代・佐倉藩主を任じ、父・正吉を尾張・中島郡下の津島神社々家と伝える。

 尾張・中島郡下の津島港は往時に殷賑を極め、織田信長の父・信秀が蓄財を遂げた地として識られ、大坂城奉行人の長束正家・増田長盛らはともに尾張・中島郡の生まれと言われており、堀田正盛の諱は長束正家・増田長盛らの偏諱を併せたものとなって、堀田正盛の父・正吉は秀吉の偏諱を承けた容を成している。

 津島神社は京都の八坂神社と等しく牛頭天王社であり、播磨・揖保郡下の広峰神社もまた牛頭天王社として識られ、広峰神社の鎮座する地に在った者が関ヶ原合戦が演じられた地の領主であった竹中重治とともに豊臣秀吉の帷幕の将と言われた黒田長政であった。

 大坂城奉行人を務めた長束正家は徳川家康と伏見で談じていた長宗我部元親の子・盛親が率いた四国の軍勢を関ヶ原合戦を前に近江・甲賀郡水口郷から遥か戦場の外に導いており、長宗我部盛親は家康の許に十市新左衛門なる士を送って東軍に与することを図っていた。

 長宗我部盛親の母は明智光秀の臣であった斉藤利三の母が遠江・佐野郡下に在った石谷氏の許に再稼して生んだ娘であり、織田信長の命で明智光秀が丹波を領知した為、斉藤利三が氷上郡下の黒井城を接収すると、黒井城主であった赤井忠家は遠江・引佐郡二俣郷に赴き、徳川家康から信濃・佐久郡下の芦田城主の叔父である山口直之の許に行くよう命じられた。

 赤井忠家の従弟となる山口直之の子・直友は徳川家康の側近であり、赤井忠家が信濃に在った時石田三成の臣となっていた旧臣より届いた書状を関ヶ原合戦前に家康に献呈し、忠家は大和・十市郡下に領地を与えられた。

 赤井忠家が本拠としていた黒井城を接収した斉藤利三の娘が春日局であり、春日局は黒井城下で生まれたという。

 春日局の推挙で堀田正盛の子・正俊が徳川家光に仕えたのは春日局を継室に迎えた稲葉正成が正室との間に生した娘を母とした者が堀田正盛であった関係に因るとされる。

 堀田正盛の母方祖父となる稲葉正成の父・林政秀は織田信長から稲葉山城を奪われた斉藤義龍より離反した稲葉良通の血族として信長の付家老であった林秀貞の親族と思われるが、大和・添上郡下に多聞山城を構えた松永久秀の臣にも林通勝なる士が在った。

 真田信繁の母は近年の学界では遠江・引佐郡に在った尾藤頼忠の娘とされ、尾藤頼忠の兄・宇多知宣は羽柴秀長の臣となっており、引佐郡を支配した曳馬城主・井伊直平を謀殺したとされる飯尾連龍の配下であった頭蛇寺城主・松下之綱に若き豊臣秀吉が仕えていたとする伝説は夙に識られ、松下之綱の娘は堀田正盛の子として春日局の推挙で登用された正俊とともに徳川家光に仕えた柳生宗矩の室となっており、柳生宗矩の父・宗厳が領した地は松永久秀が多聞山城を構えた大和・添上郡下の柳生郷であった。

 今川義元の尾張侵攻で徳川家康の初陣と言われる大高城への兵粮入れが成された後の桶狭間合戦で義元に槍を入れたという服部一忠は小田原征伐の功で伊勢・一志郡下に領地を与えられたが、真田信繁の母方大伯父となる宇多知宣が仕えた羽柴秀長の失脚に連坐し、伊賀への玄関口となる伊勢・一志郡榊原郷を本貫とした武家の子弟であった榊原康政は桶狭間合戦の年に初めて徳川家康の許に現れている。

 本能寺の変が勃発した時、和泉・堺から家康は危難の伊賀越えを服部半蔵の援けで遂げたとされ、1641年に死没したという異説を示す真田信繁とは敢えて別に江戸幕府の幕閣要職に登った堀田正盛は1651年に死没したと伝える。

 堀田正盛が藩主を務めた武蔵・川越藩には本能寺を囲んだ明智光秀の陣にも在った四方田氏という武家が在り、本能寺の変の際に明智光秀の臣・斉藤利三の胎違いの妹を正室とした長宗我部元親を征討する軍を大坂・住吉に駐留させながら、住吉から離れ家康の居た和泉・堺により近づく岸和田で美濃・斉藤氏旧臣らと遊興に耽じていたという丹羽長秀を長秀の邸が在った尾張・春日井郡児玉郷が示す如く四方田氏と遠祖を等しくするとの説を見受け、織田信長の母方祖父・土田秀久は美濃・可児郡下の明知長山城主の配下であったが、土田秀久が遠祖とした根井行親を海野幸親と同一人視する史家は少なくなく、丹波・氷上郡下の黒井城を斉藤利三に接収された赤井忠家が頼った信濃・佐久郡下の芦田城を間近くする小県郡海野郷を本貫とした武家から岐れた族を真田信繁の生家とする史家を多くする。

 織田信長の母方祖父・土田秀久が遠祖とした根井行親は信濃・小県郡海野郷を間近くした依田城で1180年の源氏旗揚げに呼応して決起した源義仲の郎党であったが、信長の母方祖父が在った美濃・可児郡を流れる木曽川を遡った信濃・筑摩郡下で源義仲を扶育した中原兼遠はやはり義仲の郎党であった手塚光盛と等しく本姓を金刺と伝え、真田信繁の母方祖父・尾藤頼忠が在った遠江・引佐郡下には金指の字名を見受け、手塚光盛は信濃・小県郡手塚郷を領したが、武田信玄に箕輪城を陥された長野業正の臣・上泉信綱を江戸中期に成った『関八州古戦録』は金刺姓であったとし、柳生宗厳に剣を伝えたという上泉信綱の本姓という金刺氏と本能寺を囲んだ陣に在り江戸期に川越藩士となった四方田氏や丹羽氏はヤマト王権時代を生きた遠祖を等しくするとした古書を看て、武蔵・児玉郡四方田郷より発する女堀川を下って小山川と合流する牧西郷を領した弘季の子・義季は小山川を遡った先の山間に河内荘を開いた源経国を扶育した源義国の子・義重の猶子に送られ、義重が一円支配した上野・新田郡下の利根川畔となる得川郷を領した。

 尾張藩士であった天野信景が編纂した『浪合記』は得川有親・松平親氏父子が上野から信濃・伊那郡浪合郷を経て三河・賀茂郡に転じたとし、『尾張諸家系図』は得川有親の子であり松平親氏の弟である義英の後裔を織田信長の傅役であった平手政秀とする。

 武蔵・児玉郡から利根川を下って上野・新田郡に至る途中の武蔵・幡羅郡下で長井荘を治めた斉藤実盛が源頼朝の庶兄・義平に襲撃された源義賢の遺児・義仲を信濃・筑摩郡下に在った中原兼遠の許へ送り届けたという。

 春日局の父・斉藤利三はこの斉藤実盛の後裔とする。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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