今年のNHK大河ドラマ『真田丸』主人公の父・真田昌幸は豊臣秀吉の裁定で信濃・小県郡と鳥居峠を越えて接する上野・吾妻郡を所領とし、利根川を境として東側となる昌幸の旧領・利根郡は小田原北条氏に割譲することとなったが、小田原方の猪俣邦憲が吾妻郡下の名胡桃城を侵したことを秀吉に訴え小田原征伐の因を成し、小田原北条氏の領国は丸ごと徳川家康のものとなった。

 小田原征伐の因を成した名胡桃城の城代を鈴木重則と伝える処は徳川家康の高祖父・長親が鈴木重勝を母方祖父とし、松平氏が発祥した三河・賀茂郡下の高橋荘を治めた中条氏の配下であった藤白鈴木家という武家は松平氏と姻戚関係を成したことの有る武家であったことから、真田昌幸と徳川家康が通謀して小田原征伐の因を成したと考えたくなる。

 1560年の桶狭間合戦後、遠江・引佐郡下の曳馬城主であった井伊直平は来年のNHK大河ドラマ主人公の曽祖父となる人物で1563年に毒殺されたと言われ、曳馬城は井伊直平の付家老であった飯尾連龍を城主として今川義元の子・氏真に与したとされる。

 しかし、曳馬城主に仕えた江間時成は徳川家康に内通し、井伊直平が殺されると引佐郡下の犬居城を拠点とした天野景泰・元景父子は今川氏真から離反し徳川家康に与した。

 天野氏は北条時政の郎党として『愚管抄』巻第六にて比企能員を刺し殺したと叙べられる天野遠景の後裔とされ、飯尾氏は鎌倉幕府が創業した時に京から下った三善康信の後裔を唱えていたが、飯尾は古く"いのう"と訓じたとする説が在り、稲生姓と通ずるものが有って、下総・香取郡下を流れる利根川支流の大須賀川源流に看る伊能の字名は三善康信の後裔が領した地であった可能性を感得する。

 大須賀康高は家康の旗本先手役の武将であったが、遠祖の本貫を下総・香取郡大須賀郷とし、一方北条時政の郎党・天野遠景を時政に娘を稼した足立遠元の子と考える史家が在る。

 足立遠元の後裔は丹波・氷上郡下を流れる加古川畔の佐治郷を領し、佐治郷と隣接する芦田郷の領主から岐れた族が氷上郡下の黒井城を本拠とした赤井氏であったとされる。

 氷上郡に隣接する多紀郡下には日蓮正宗大石寺の伝える文書が北条時政と従兄弟の続柄に在ったとする熊谷直実の伯父・久下直光の後裔が蟠踞し、また遠江・引佐郡下の曳馬城主に仕えた江間時成の姓からは北条時政の子・義時の本貫であった伊豆・田方郡江間郷を想起させる。

 江間時成が徳川家康に内通し天野父子もまた離反したことから今川氏真は飯尾連龍を殺したが、家康は曳馬城に籠城する飯尾連龍の未亡人に開城を促す為に曳馬城主の配下であった頭蛇寺城主・松下之綱を使者として送っており、豊臣秀吉が若い頃に仕えたとの伝承を見せる松下之綱の娘が徳川家光の陪臣・柳生宗矩の室となっている点、松下之綱が徳川家康に通じていたことは瞭らかである。

 この時、『改正三河後風土記』は飯尾連龍の未亡人が「小国の武藤刑部丞」を通じて武田信玄の支援を乞うたとし、信濃・小県郡を本拠とした真田昌幸が武田信玄の存命中に武藤喜兵衛と称えたことを想起させる。

 『井伊家伝記』は曳馬城主に仕えた江間時成の弟・泰顕は武田信玄に内通し、家康に内通した兄・時成を殺すが、泰顕もまた時成の臣・小野田小次郎によって殺されたとし、引佐郡下の犬居城を拠点とした天野氏の祖・遠景が足立遠元の子であったならば、足立遠元の父を小野田遠兼と伝えることを想起させ、遠兼の諱はまた源義仲を信濃・筑摩郡で扶育した中原兼遠の諱を逆転させており、筑摩郡を流れる木曽川を下った美濃・可児郡下の明知長山城主や恵那郡下の岩村城主らであった遠山氏は『吾妻鏡』が北条時政の生きた時代に伊豆・田方郡に在った加藤景廉の後裔を唱えており、織田信長の母方祖父となる土田秀久は明知長山城主の配下として源義仲の郎党であった根井行親の後裔を唱え、信長の叔母はまた恵那郡下の岩村城主・遠山景任に嫁いでおり、信長の妹である犬の方が尾張・知多郡下の大野城主・佐治信方に嫁いでいることは足立遠元の後裔が丹波・氷上郡佐治郷を本拠としたことを想起させ、信長の母方祖父・土田秀久が遠祖とした根井行親を海野幸親と同一人視する史家は少なくなく、一般に信濃・小県郡を本拠とした真田氏は海野氏より岐れたとされ、千曲川畔となる小県郡海野郷を間近くした依田城で源義仲は治承4年の源氏旗揚げに呼応し、やはり海野郷を間近くする芦田城主とともに依田氏は長篠合戦で上野・甘楽郡下の国峰城主・小幡信貞の陣に加わっている。

 明智光秀が織田信長から丹波の領知を命ぜられたことから、光秀の臣・斉藤利三が赤井氏の居城であった黒井城を接収し、利三の娘として柳生宗矩とともに徳川家光に仕えた春日局は黒井城下で出生したと言われ、赤井忠家は遠江に在った眷族を頼った後、徳川家康から信濃・佐久郡下の芦田城主の許へ寄寓するよう命ぜられたという。

 徳川家康の側近であった山口直友もまた丹波に出生し芦田城主に扶育され、赤井忠家と従兄弟の続柄に在った人物であった。

 赤井忠家が芦田城主の許に寄寓していた時石田三成に仕えていた旧臣からの書状を家康に献呈し、関ヶ原合戦後忠家は大和・十市郡下に所領を与えられており、真田昌幸もまた石田三成から多くの書状を受け取っている。

 真田昌幸は遠江・引佐郡に在った尾藤頼忠の娘を室とし、尾藤頼忠の兄・知宣は豊臣秀吉の弟・羽柴秀長の臣となっており、戦国期に引佐郡に在った尾藤氏が北条泰時の被官であった尾藤景綱の後裔であったならば、北条得宗被官の尾藤氏は尾張の藤原こと源頼朝の生母・由良御前の父である藤原季範の眷族である可能性を感得し、藤原季範は熱田神宮の神職を世襲した尾張氏に入婿した者であって、因幡・八上郡にも尾張氏が在ったことを伝え、八上郡佐治郷を領した佐治重貞は和田義盛と戦った北条義時に与した鎌倉幕府御家人であった。

 1563年に毒殺されたという遠江・引佐郡下の曳馬城主・井伊直平は同郡井伊ノ谷郷に発祥した武家の後裔とされ、井伊ノ谷郷を近くして金指という字名を看ることから、信濃・小県郡海野郷を間近くした佐久郡下の芦田城から東山道=中山道を登って和田峠を越えた天竜川の源流を成す諏訪湖畔の諏訪大社秋宮の神職・金刺氏と井伊氏との関係を憶測させ、頼朝から御家人に取り立てられた金刺盛澄の弟・光盛は小県郡手塚郷を領して義仲の郎党となっている。

 江戸時代に成った『関八州古戦録』は武田信玄の上野侵攻で滅ぼされた群馬郡下の箕輪城主・長野業正の配下であった上泉信綱の本姓を金刺とし、上泉信綱が柳生宗矩の父・宗厳に剣を伝えたとされる。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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