史上初の人臣摂政となった藤原良房が補弼した帝が清和天皇であり、清和帝には源能有(よしあり)という兄が在ったが、兄の生母は出自が卑しかった為に皇位に就くことが適わなかったとされる。
源能有は諱の如く有能な公卿であったと伝え、菅原道真との親交が識られる能有が死没すると宇多法皇は『寛平御遺誡』において動揺を露わにしている。
この源能有の娘が生んだ子が源経基であり、『将門記』において平将門が義侠心から足立郡司・武蔵武芝を援ける因を成した悪代官として顕れる。
清和帝を補弼した藤原良房の甥・基経の諱を逆転させた人物が源経基であったが、史上初の関白に就いた藤原基経は清和帝の子・陽成天皇を補弼するも、平安朝4百年間で享年を80歳として最長寿を遂げた陽成帝を退位させ、皇統は清和・陽成父子の父・祖父となる文徳天皇の弟として54歳で即位した光孝天皇にまで逆行した。
茲に剰り考察されない陰の部面で文徳・光孝らの父・仁明天皇が即位した833年に常陸・筑波郡出身とする丈部(はせつかべ)氏道なる吏僚が有道姓を与えられたことを留意したい。
749年に陸奥守・百済王敬福から東大寺大仏に鍍金する素材として献上された金を陸奥・小田郡涌谷郷で発見したと伝える者を丈部大麻呂と伝えるが、桓武天皇の孫となる仁明帝が即位した833年に有道姓を与えられた丈部氏道は桓武帝が多治比真宗に生ませた葛原親王の家令を務めていた。
平将門が支配した下総の猿島・豊田両郡や将門の伯父・国香が本拠とした常陸・真壁郡は有道姓を与えられた丈部氏道の出身地と伝える筑波郡に隣接する地であったが、源経基の無法ぶりに苦しめられ平将門に援けられた武蔵武芝の遠祖は藤原仲麻呂を討った功に因り武蔵姓を与えられた丈部不破麻呂であって、不破麻呂に藤原仲麻呂を討たせた道鏡は弓削氏を出自とし、有道氏は弓削氏と祖を等しくするとした古書を看る。
天武天皇の血脈を伝えた最期の皇統となる称徳女帝を誑かした道鏡が配流された下野に本拠を構えた藤原秀郷の高祖父となる魚名は称徳女帝が薨去した後に天智天皇の孫となる光仁天皇の即位に尽力した朝臣の一人であり、光仁帝の諡号は丈部氏道が有道姓を与えられた年に即位した仁明帝や仁明帝の曽孫から54歳にして皇位を襲った光孝帝らの諡号に分かたれている。
光孝帝の子である宇多法皇をして動揺させた源能有の死は宇多の孫となる朱雀天皇の治世に平将門の叛乱を見た。
平将門と反目した源経基は源能有を母方祖父としたが、経基の子・満仲は平将門を討った藤原秀郷の子・千晴を罪に陥しめ左大臣・源高明を失脚させた安和の変における陰謀の密告者として伝える。
宇多法皇の子であり源高明の父であった醍醐天皇の母方祖父・宮道弥益は道鏡の出自である弓削氏や有道氏と祖を等しくする出自とした古書を看て、安和の変に暗躍した源満仲の母方祖父ではないかとされる藤原敏有なる人物は如何なる素姓・出自であったか審らかにせずも、清和帝の兄でありながら生母の出自が卑しかった為に即位できなかったとする源能有の諱とともに有の偏諱を帯びていることは留意される。
平将門を討った藤原秀郷の高祖父となる魚名の生母は片野朝臣として素姓・出自を全く後世に伝えぬ謎の女だが、『醫道系図』なる古書が道鏡の出自である弓削氏や醍醐帝の母方祖父となる宮道氏そして『尊卑分脈』が平将門の高祖父とする葛原親王の家令を務めた丈部氏道の後裔となる有道氏らと祖を等しくするとした族が交野氏であり、交野市の本拠が今の大阪府交野市であったならば、物部氏の祖とされる饒速日(にぎはやひ)が天降った哮峰(いかるがのみね)が在ったとの伝承を見せる交野市に看る私市(きさいち)の地名は古代朝廷における皇后の私領と領民を指す后部(きさきべ)の在ったことを推測させ、藤原魚名の生母と伝える片野朝臣が交野氏を出自とした女であったならば、古書が物部氏とともに饒速日の後裔とする弓削氏・宮道氏・有道氏らと血脈を通じていた人物が藤原魚名とその玄孫となる秀郷であったこととなる。
天智帝の孫となる光仁帝の即位に尽力した藤原魚名は光仁・桓武両朝で左大臣に就き、魚名に纏わる川辺大臣の渾名は安和の変に暗躍した源満仲が多田荘を開いて清和源氏発展の経済的基盤を確かにした摂津・川辺郡を連想させる。
源満仲が多田荘を開いた地は江戸幕府が銅山を経営した地であったが、奈良朝期に落成した東大寺大仏に鍍金する素材となった金を陸奥で発見した者を丈部大麻呂と伝え、有道氏の旧称は丈部であり、藤原魚名の玄孫となる秀郷の後裔が陸奥の産金を支配したと言われる奥州藤原氏祖・清衡であった。
清和源氏発展の礎を成した源満仲の子・頼光は大江山の酒呑童子を退治した伝承でよく識られた武将だが、頼光と母を異にして藤原致忠の娘を母とした満仲の子が頼信であり、頼信の母方祖父となる藤原致忠は南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲み、致忠の子・保昌は頼朝の遠祖となる頼信とともに藤原道長・四天王に挙げられ、道長四天王の他は伊勢平氏の祖となる平維衡と将門の従兄・公雅の子である平致頼であり、平致頼は致頼とともに道長四天王に挙げられる藤原保昌の父であり源頼信の母方祖父であった致忠と致の偏諱を通じている。
桓武平氏の祖とされる葛原親王の家令を務め有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となる有道惟広は藤原道長の長兄・道隆の家令を務め、惟広の室は道長四天王の一人に挙げられる致頼の父・平公雅の娘と伝える。
葛原親王を生んだ多治比真宗の高祖父・嶋の弟であった三宅麻呂の後裔は武蔵・加美郡下で丹荘を営み、源満仲が死没する前年の996年に藤原道長が左大臣に就いたことから有道惟広の子・惟能(これよし)が家令を務めた道長の甥・伊周は大宰府へ左遷され、有道惟能は多治比氏が丹荘を営んでいた加美郡に隣接する児玉郡下に在った勅旨営牧の牧監として下ったが、さらに児玉郡に隣接する秩父郡を支配していた郡司は平将恒を祖と伝え、将恒の父・忠頼には経明という別諱を識らせることから、秩父平氏とは『将門記』に平将門の配下として顕れる多治経明こそが真の祖であった筈で、この経明は虞らく加美郡下で丹荘を営んでいた多治比氏を出自とした者であったと推測され、秩父平氏の祖・将恒の弟であった忠常が鎌倉幕府創業の功臣と謳われた千葉常胤の祖となり、千葉氏は多治比氏を出自としたことを理解する。
千葉氏は妙見信仰に努め、清和源氏の高祖と言える満仲が多田荘を開いた今の兵庫県川西市の市境にも妙見山とする号を見受け、川西市を流れる猪名川の畔に満仲が邸を構えたと伝える地に多田神社が見られ、多田神社と猪名川を挟んだ向かい側の丘陵となる平井の地が頼朝の遠祖となる頼信とともに道長四天王に挙げられる藤原保昌が拠点とした地であったと思われ、頼信の父・満仲が多田荘を開いた川辺郡を連想させる川辺大臣の渾名を伝えた藤原魚名の母・片野朝臣の生家と憶測させる交野氏が本拠とした筈の大阪府交野市に在った素封家の平井清貞邸を本能寺の変の後に徳川家康が立ち寄ったという。
本能寺を囲んだ明智光秀の陣中には四方田氏という武家が見られ、四方田氏は家康の側近であった天海を住持とした無量寿寺北院を版図に収めた川越藩士に取り立てられており、四方田氏が鎌倉期から丈部大麻呂が金を発見した陸奥・小田郡(遠田郡)涌谷郷一帯を戦国期に至るまで支配していたことが識られ、武蔵・児玉郡に土着した有道惟能の後裔として同郡四方田郷を本貫とした武家が四方田氏であった。
児玉郡四方田郷から発する女堀川を下って、有道惟能の孫・経行の娘を迎えた源義家の孫・経国が児玉郡下に開いた河内荘を流れる小山川と女堀川とが合流する児玉郡牧西郷を領した弘季は四方田氏祖・弘長の弟であり、牧西郷から小山川を下って合流する利根川をさらに下った先となる上野・新田郡下一円を荘園化した新田義重の父である源義国は有道経行の娘を迎えた源経国の養父であって、牧西弘季の子・義季は新田義重の養子となって利根川畔の新田郡得川郷を領したものと推測される。
清和源氏は有道氏にとって触媒でしかなかったのであり、明智光秀と徳川家康は遠祖を等しくした。
源能有は諱の如く有能な公卿であったと伝え、菅原道真との親交が識られる能有が死没すると宇多法皇は『寛平御遺誡』において動揺を露わにしている。
この源能有の娘が生んだ子が源経基であり、『将門記』において平将門が義侠心から足立郡司・武蔵武芝を援ける因を成した悪代官として顕れる。
清和帝を補弼した藤原良房の甥・基経の諱を逆転させた人物が源経基であったが、史上初の関白に就いた藤原基経は清和帝の子・陽成天皇を補弼するも、平安朝4百年間で享年を80歳として最長寿を遂げた陽成帝を退位させ、皇統は清和・陽成父子の父・祖父となる文徳天皇の弟として54歳で即位した光孝天皇にまで逆行した。
茲に剰り考察されない陰の部面で文徳・光孝らの父・仁明天皇が即位した833年に常陸・筑波郡出身とする丈部(はせつかべ)氏道なる吏僚が有道姓を与えられたことを留意したい。
749年に陸奥守・百済王敬福から東大寺大仏に鍍金する素材として献上された金を陸奥・小田郡涌谷郷で発見したと伝える者を丈部大麻呂と伝えるが、桓武天皇の孫となる仁明帝が即位した833年に有道姓を与えられた丈部氏道は桓武帝が多治比真宗に生ませた葛原親王の家令を務めていた。
平将門が支配した下総の猿島・豊田両郡や将門の伯父・国香が本拠とした常陸・真壁郡は有道姓を与えられた丈部氏道の出身地と伝える筑波郡に隣接する地であったが、源経基の無法ぶりに苦しめられ平将門に援けられた武蔵武芝の遠祖は藤原仲麻呂を討った功に因り武蔵姓を与えられた丈部不破麻呂であって、不破麻呂に藤原仲麻呂を討たせた道鏡は弓削氏を出自とし、有道氏は弓削氏と祖を等しくするとした古書を看る。
天武天皇の血脈を伝えた最期の皇統となる称徳女帝を誑かした道鏡が配流された下野に本拠を構えた藤原秀郷の高祖父となる魚名は称徳女帝が薨去した後に天智天皇の孫となる光仁天皇の即位に尽力した朝臣の一人であり、光仁帝の諡号は丈部氏道が有道姓を与えられた年に即位した仁明帝や仁明帝の曽孫から54歳にして皇位を襲った光孝帝らの諡号に分かたれている。
光孝帝の子である宇多法皇をして動揺させた源能有の死は宇多の孫となる朱雀天皇の治世に平将門の叛乱を見た。
平将門と反目した源経基は源能有を母方祖父としたが、経基の子・満仲は平将門を討った藤原秀郷の子・千晴を罪に陥しめ左大臣・源高明を失脚させた安和の変における陰謀の密告者として伝える。
宇多法皇の子であり源高明の父であった醍醐天皇の母方祖父・宮道弥益は道鏡の出自である弓削氏や有道氏と祖を等しくする出自とした古書を看て、安和の変に暗躍した源満仲の母方祖父ではないかとされる藤原敏有なる人物は如何なる素姓・出自であったか審らかにせずも、清和帝の兄でありながら生母の出自が卑しかった為に即位できなかったとする源能有の諱とともに有の偏諱を帯びていることは留意される。
平将門を討った藤原秀郷の高祖父となる魚名の生母は片野朝臣として素姓・出自を全く後世に伝えぬ謎の女だが、『醫道系図』なる古書が道鏡の出自である弓削氏や醍醐帝の母方祖父となる宮道氏そして『尊卑分脈』が平将門の高祖父とする葛原親王の家令を務めた丈部氏道の後裔となる有道氏らと祖を等しくするとした族が交野氏であり、交野市の本拠が今の大阪府交野市であったならば、物部氏の祖とされる饒速日(にぎはやひ)が天降った哮峰(いかるがのみね)が在ったとの伝承を見せる交野市に看る私市(きさいち)の地名は古代朝廷における皇后の私領と領民を指す后部(きさきべ)の在ったことを推測させ、藤原魚名の生母と伝える片野朝臣が交野氏を出自とした女であったならば、古書が物部氏とともに饒速日の後裔とする弓削氏・宮道氏・有道氏らと血脈を通じていた人物が藤原魚名とその玄孫となる秀郷であったこととなる。
天智帝の孫となる光仁帝の即位に尽力した藤原魚名は光仁・桓武両朝で左大臣に就き、魚名に纏わる川辺大臣の渾名は安和の変に暗躍した源満仲が多田荘を開いて清和源氏発展の経済的基盤を確かにした摂津・川辺郡を連想させる。
源満仲が多田荘を開いた地は江戸幕府が銅山を経営した地であったが、奈良朝期に落成した東大寺大仏に鍍金する素材となった金を陸奥で発見した者を丈部大麻呂と伝え、有道氏の旧称は丈部であり、藤原魚名の玄孫となる秀郷の後裔が陸奥の産金を支配したと言われる奥州藤原氏祖・清衡であった。
清和源氏発展の礎を成した源満仲の子・頼光は大江山の酒呑童子を退治した伝承でよく識られた武将だが、頼光と母を異にして藤原致忠の娘を母とした満仲の子が頼信であり、頼信の母方祖父となる藤原致忠は南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲み、致忠の子・保昌は頼朝の遠祖となる頼信とともに藤原道長・四天王に挙げられ、道長四天王の他は伊勢平氏の祖となる平維衡と将門の従兄・公雅の子である平致頼であり、平致頼は致頼とともに道長四天王に挙げられる藤原保昌の父であり源頼信の母方祖父であった致忠と致の偏諱を通じている。
桓武平氏の祖とされる葛原親王の家令を務め有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となる有道惟広は藤原道長の長兄・道隆の家令を務め、惟広の室は道長四天王の一人に挙げられる致頼の父・平公雅の娘と伝える。
葛原親王を生んだ多治比真宗の高祖父・嶋の弟であった三宅麻呂の後裔は武蔵・加美郡下で丹荘を営み、源満仲が死没する前年の996年に藤原道長が左大臣に就いたことから有道惟広の子・惟能(これよし)が家令を務めた道長の甥・伊周は大宰府へ左遷され、有道惟能は多治比氏が丹荘を営んでいた加美郡に隣接する児玉郡下に在った勅旨営牧の牧監として下ったが、さらに児玉郡に隣接する秩父郡を支配していた郡司は平将恒を祖と伝え、将恒の父・忠頼には経明という別諱を識らせることから、秩父平氏とは『将門記』に平将門の配下として顕れる多治経明こそが真の祖であった筈で、この経明は虞らく加美郡下で丹荘を営んでいた多治比氏を出自とした者であったと推測され、秩父平氏の祖・将恒の弟であった忠常が鎌倉幕府創業の功臣と謳われた千葉常胤の祖となり、千葉氏は多治比氏を出自としたことを理解する。
千葉氏は妙見信仰に努め、清和源氏の高祖と言える満仲が多田荘を開いた今の兵庫県川西市の市境にも妙見山とする号を見受け、川西市を流れる猪名川の畔に満仲が邸を構えたと伝える地に多田神社が見られ、多田神社と猪名川を挟んだ向かい側の丘陵となる平井の地が頼朝の遠祖となる頼信とともに道長四天王に挙げられる藤原保昌が拠点とした地であったと思われ、頼信の父・満仲が多田荘を開いた川辺郡を連想させる川辺大臣の渾名を伝えた藤原魚名の母・片野朝臣の生家と憶測させる交野氏が本拠とした筈の大阪府交野市に在った素封家の平井清貞邸を本能寺の変の後に徳川家康が立ち寄ったという。
本能寺を囲んだ明智光秀の陣中には四方田氏という武家が見られ、四方田氏は家康の側近であった天海を住持とした無量寿寺北院を版図に収めた川越藩士に取り立てられており、四方田氏が鎌倉期から丈部大麻呂が金を発見した陸奥・小田郡(遠田郡)涌谷郷一帯を戦国期に至るまで支配していたことが識られ、武蔵・児玉郡に土着した有道惟能の後裔として同郡四方田郷を本貫とした武家が四方田氏であった。
児玉郡四方田郷から発する女堀川を下って、有道惟能の孫・経行の娘を迎えた源義家の孫・経国が児玉郡下に開いた河内荘を流れる小山川と女堀川とが合流する児玉郡牧西郷を領した弘季は四方田氏祖・弘長の弟であり、牧西郷から小山川を下って合流する利根川をさらに下った先となる上野・新田郡下一円を荘園化した新田義重の父である源義国は有道経行の娘を迎えた源経国の養父であって、牧西弘季の子・義季は新田義重の養子となって利根川畔の新田郡得川郷を領したものと推測される。
清和源氏は有道氏にとって触媒でしかなかったのであり、明智光秀と徳川家康は遠祖を等しくした。