1575年に武田勝頼が率いた甲信駿の軍勢と織田・徳川連合軍が闘った長篠合戦にて、武田勝頼の本陣近くに小幡信貞という武将が在ったんですわぁ。

 小幡信貞の指揮下に在った武将としてさらに依田や芦田という者らを見受け、武田勢の右翼に展開した真田信綱・昌輝兄弟らと同じく信濃・小県郡の国衆と呼ばれた武家ですが、真田氏は長篠合戦で討ち死にした信綱・昌輝らの父である幸隆より前が識られぬのに対し、依田氏は1180年に以仁王の令旨を受けて旗揚げした源義仲が挙兵した依田城の城主だった武家で、義仲を筑摩郡の木曽谷で育てた中原兼遠は本姓を金刺と伝え、兼遠の子である樋口兼光は伊那谷から松本方面と諏訪湖方面への分岐点に該る辰野町に在って義仲に仕え、樋口兼光の弟である今井兼平は松本市に在ってやはり義仲に仕えて、頼朝に仕えた金刺盛澄の弟・手塚光盛もまた義仲に仕えましたが、光盛は依田氏と同じく小県郡に在ったのです。

 金刺盛澄・手塚光盛兄弟らの生家は諏訪湖の北東に鎮座する諏訪大社秋宮の神職・金刺氏でしたが、諏訪大社秋宮の北に連なる丘陵を登る中山道の和田峠を越え、千曲川の畔近くまで下った所に芦田城が在り、徳川家康に仕えた山口直友は丹波の赤鬼と謳われた猛将・赤井直正の甥として丹波に生まれながら信濃に在った芦田氏の養子となったと伝え、武田信玄に仕えて俄かに大身の武家となった真田氏と同じく小県郡の国衆であった依田氏や芦田氏は上野・甘楽郡下の国峰城を本拠とした小幡信貞の麾下に編入されていた訳です。

 小幡信貞の計る陣形は非常に変わっていたと伝え、五格五行陣形として識られていますが、小幡氏とは有道経行なる人物の子であった行高を祖とする武家でした。

 12世紀前葉を生きた有道経行は武蔵・児玉郡下に在った勅旨営牧を拠点に源義家の孫となる経国に娘を稼し、源経国は有道経行が拠点とした勅旨営牧と隣接する地に河内荘を開いており、祖父・義家から河内源氏の惣領とされた父・義忠を謀殺した義家の弟・義光を滅ぼした者が源経国であって、源義光の後裔が武田信玄でした。

 有道経行の子・行高は兄・行重とともに母方伯父となる秩父郡司・平重綱の養子となって兄・行重とともに母方生家の平姓を称えるようになったと伝え、行高は上野・甘楽郡小幡郷を、行高の兄・行重は上野・多胡郡多比良郷を拠点としました。

 上野の中山道が通う地に多胡郡が新設された711年、今の群馬県高崎市吉井町に石碑が建立され、見事な篆刻の碑文を揮毫した人物が碑文の末尾に顕れる多治比三宅麻呂とされ、三宅麻呂は朝廷で銅貨鋳造の責任者を任じていましたが、711年に多胡郡が新設されたのも708年に秩父郡黒谷郷で自然銅が発見されたことと関連するものと思われ、碑文は羊なる奇妙な名を称えた者に多胡郡の経営を委ねたと記しています。

 奈良時代の常陸・筑波郡に在った丈部(はせつかべ)小牧万呂という人物の従弟に該る者を羊と伝え、小牧万呂の居た地は霞ヶ浦近くで鬼怒川と合流する国交省1級河川の小貝川を遡り、支流・糸繰川の源流を成す大宝沼の近傍でしたが、小牧万呂より14世先となる大ミ布(ミブ→ミは口偏に羊)は父を伊香色雄(いかがしこお)とし、琵琶湖北部に臨む近江・伊香郡に在った色雄の妹が皇統譜第10代・崇神天皇を生んでおり、京都市に在る壬生の地名を十干の壬の年に生まれた者と説くのは誤りで、口偏に羊の字は中国人がギリシア人の発話を毛織物の素材を与える価値有る動物の啼き声のように感得したことから与えたものであり、大ミ布の布は部族を意味します。

 詰まり、大ミ布は今のタジキスタンに王朝を築いたギリシア人の後裔であり、大ミ布より14世となる羊が虞らく武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅を発見した者と思われ、上野に新設された多胡郡の経営を委ねられた羊の従兄・小牧万呂より10世となる者が行重・行高らの父・経行でした。

 小牧万呂の孫となる氏道は桓武天皇が多治比真宗に生ませた葛原親王の家令(律令職)を務め、833年に有道姓を与えられており、711年上野・多胡郡に建立された石碑に碑文を揮毫した多治比三宅麻呂の兄・嶋の玄孫となる女が真宗でしたが、『尊卑分脈』は真宗が生んだ葛原親王の孫を平高望としており、多治比氏とはアレクサンドロス3世が中央アジアに原住する女を王妃としたロクサーヌの出自であるタジク族(イラン系)の後裔でした。

 四国の讃岐から阿波には往古に秦氏が拡がっていたことを伝え、京都市の太秦は秦氏が養蚕を営んでいた地とされ、中国人は帝政ローマを大秦と記していますが、ユダヤ人(ヘブライ族)であった秦氏を出自とした惟宗允亮が編纂した『政事要略』に武蔵・児玉郡下で勅旨営牧を設けた記事が看られ、その初めての牧監が惟宗氏であったことを記し、有道経行の祖父・惟能(これよし)が藤原伊周の家令を辞し京より下った先が惟宗氏を初代の牧監とした児玉郡下の勅旨営牧でした。

 鎌倉幕府の御家人として上野・多胡郡下に惟宗姓を称えた者が在ったことを伝え、『愚管抄』巻第六は北条時政のことを述べた段落にて「ミセヤノ大夫行時」が阿波の生まれである比企能員に娘を稼し、もう一人の娘を児玉党の武士に稼していたとし、有道経行の兄・弘行の後裔が拡がった武蔵・比企郡の郡司を務めた比企掃部允の未亡人・比企尼の養子となったという比企能員は阿波の秦氏から上野・多胡郡に迎えられた後に比企尼の養子となっており、ミセヤノ大夫行時とは有道経行の子として多胡郡多比良郷を拠点とした行重の子・行時であって、鏑川畔の片山郷を拠点とした行時の後裔が多胡郡奥平郷を拠点とした武家で、長篠合戦で長篠城に立て籠もった奥平貞昌を派している訳です。

 すると、徳川家康の配下であった奥平貞昌が籠城した長篠城を武田勝頼が大軍を率いて攻囲し、設楽原という狭い土地で織田・徳川連合軍と合戦となった出来事は武田勢の中に奥平貞昌と遠祖を等しくする小幡信貞が在り、小幡信貞の麾下に在った芦田氏は徳川家康に仕えた山口直友の養父であって、芦田氏と同じく信濃の国衆であった真田氏は信綱・昌輝兄弟らは討ち死にしたものの、信綱・昌輝らの弟となる昌幸は生き残り、真田昌幸は武田勝頼が滅びた後に諏訪・高島城下の寺で織田信長に謁見し信長の配下となって、徳川家康の配下であった筈の奥平貞昌は織田信長から信の偏諱を与えられ、以後奥平信昌とした訳です。

 『愚管抄』は比企能員を北条時政が謀殺した時、天野遠景が比企能員を刺し殺したとしており、天野遠景は北条時政に娘を稼した足立遠元の子と考える史家が在って、丹波・氷上郡を流れる加古川畔の芦田郷に隣接した佐治郷を足立遠元の後裔らは本拠としており、氷上郡下の黒井城を本拠とした赤井氏は同郡の芦田郷を本拠とした武家から派したとする説を見ます。

 有道経行の兄・弘行の後裔が拡がった児玉郡の臨む利根川を下った先となる幡羅郡下で長井荘を営んだ斉藤実盛は武蔵・男衾郡下に在った源義賢が頼朝の庶兄・義平に襲撃された時、義賢の遺児・義仲を木曽の中原兼遠の許に送り届けた人物とされ、斉藤実盛の後裔とする美濃守護代・斉藤妙椿の曽孫・利三は明智光秀にとって股肱の臣でしたが、斉藤利三の異父妹が土佐の長宗我部元親の正室となっており、明智光秀が織田信長に丹波の領治を命じられたことから斉藤利三が赤井氏の本拠であった黒井城を接収し、黒井城主であった赤井忠家は徳川家康に仕えた山口直友と従兄弟の続柄に在って、赤井忠家は家康から信濃の芦田氏の許に在るよう命じられています。

 北条時政の郎党として比企能員を殺した天野遠景の後裔を唱えた尾張藩士・天野信景が編纂した『浪合記』は上野に在った得川有親と松平親氏の父子が足利勢に圧され、やはり上野を本拠としていた奥平定家とともに信濃の伊那谷と木曽谷の間となる山間の浪合郷に潜んだとし、確かに浪合の地から美濃・可児郡下の明知長山城や三河・賀茂郡松平郷や奥平定家が拠点としたという三河・設楽郡作手郷は路を通ずると言えましょう。

 『尊卑分脈』は比企尼とともに伊豆に配流された頼朝に仕送りを続けたという寒河尼が若かった時に婿となって下野・都賀郡下の小山荘を治めることとなった小山氏祖の太田政光の父を行政、祖父を行高とし、児玉郡の臨む利根川を下った先の幡羅郡下となる太田郷の領主は小野姓を称えた猪俣一族の武家とされますが、児玉郡を流れる利根川の支流・小山川からさらに岐れる志戸川を遡った那珂郡猪俣郷の領主を惣領とする一族に有道氏から養子として送られた者が太田政光であったと思われ、志戸川を南に分ける地で小山川より北に岐れる女堀川を遡った児玉郡四方田郷の領主の後裔は明智光秀が本能寺を囲んだ時、丹波の国衆であった赤井氏らとともに陣に加わっており、小山氏祖となる太田政光の父・行政とは北条時政や足立遠元らとともに源頼家による親裁停止後の鎌倉幕府宿老十三将による合議制に加わった二階堂行政を指す筈で、太田政光の祖父・行高が小幡信貞の遠祖となる行高であったことを推測させます。

 利根川の支流・小山川を遡った山間の地に有道経行の娘を迎えた源経国が開いた河内荘が在ったのですが、河内荘に隣接する児玉郡稲沢郷の領主・盛経は経国の子であり、また源義経の実父であって、児玉郡稲沢郷に遺る稲聚神社と号した祠は源義経の郎党であった鈴木重家との関係を示し、鈴木重家の生家は紀伊・名草郡藤白郷を本拠とする水軍の将として聞こえた武家であり、藤白鈴木家の分流となる江梨鈴木家は伊豆半島の稲取岬一帯を拠点とし、藤白・江梨鈴木家は穂積姓を伝え、有道氏の遠祖となる大ミ布の兄として近江・甲賀郡水口郷を拠点とした大水口スクネ(少ない=天皇の臣下の意)より派した族が穂積姓の藤白・江梨鈴木家でした。

 尾張藩士・天野信景が編纂した『浪合記』は松平親氏が三河・賀茂郡に在った藤白鈴木家の流れを汲む鈴木信重の娘婿となったとし、確かに徳川家康の高祖父・松平長親の母方祖父は鈴木重勝であったと伝えています。

 1575年の長篠合戦で織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼が1582年に滅ぼされるや、長篠合戦で死ななかった真田昌幸は諏訪・高島城下の寺で織田信長に謁見し信長の家臣となり、その時、明智光秀は徳川家康の眼前で織田信長から折檻されたといい、3ヶ月後に本能寺の変が起こり、豊臣秀吉の裁定に拠り上野・吾妻郡は真田昌幸の、利根郡は小田原北条氏の領地とされましたが、吾妻郡下の名胡桃城が小田原方によって襲撃されたことが小田原征伐の因とされており、小田原城が陥落したことで徳川家康は三河・遠江・駿河を領する大名から一挙に関東のほぼ全域を手中に収めた訳で、真田昌幸の名胡桃城を守っていた武将を鈴木重則と伝える点、真田昌幸と徳川家康が通謀していたことは想像するに難くありません。

 真田昌幸の上田城を徳川家康が大軍を率いて攻めながら敗北を喫したとか、徳川秀忠が率いた大軍をやはり上田城で迎えた真田昌幸が見事に撃退したとか、真田昌幸の子として講談では幸村で識られる武将が大坂夏の陣で徳川家康の本陣に何度も肉薄する攻撃を見せたとかってな話は全く莫迦ばかしい話な訳です。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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