当ブログ著者を始め全国の歴オタ諸氏に絶好評のNHK大河ドラマ『真田丸』を視て、真田丸公園を看る大阪市住民の方々を始め関西極道関係者らは挙って山口組四代目を奪るってな迫力に痺れてると忖度しますが、滅びの美学ゆうて何だって真田昌幸・信繁(幸村)父子は豊臣家に命を懸けてまで忠義を尽くしたんですかねぇ・・・?
武士道・・・?武士道がそういう観念で割り切れるっつうんやったら、大阪のヤーさんの方がよっぽど利口に見えるかて、もそっと政治経済学的に真田父子の生涯を省察せにゃアカンのやないか思うのれす。
真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(あるいは幸綱)は武田信玄に仕えた武将で、信繁の祖父・幸隆には二人の弟が在ったことを伝える。
信繁祖父の次弟を矢沢頼綱と伝え、信繁祖父が本拠とした小県郡真田郷に隣接する矢沢郷の領主となっているが、元々矢沢郷は諏訪大社の神職を世襲した武家が領有していた地とされ、信繁の遠祖と矢沢郷の領主は古く争っていたことを伝え、戦国の最中に真田郷の領主と矢沢郷の領主が手打ちする手段として信繁祖父の次弟が矢沢郷領主の嗣子となったことを推測させる。
諏訪大社秋宮の神職を生家とした金刺盛澄は弟・光盛が小県郡手塚郷を領地として源義仲の麾下に加わったことから頼朝は盛澄を処刑しようと考えたが、梶原景時の懇請で御家人に取り立てられている。
源義仲の郎党には金刺盛澄の弟・手塚光盛の他に樋口兼光・今井兼平の兄弟らが在ったが、伊那郡樋口郷、今の辰野町に該るが、樋口郷を本貫とした兼光も、筑摩郡今井郷、今の松本市に該るが、今井郷を本貫とした兼平も兄弟であるからともに金刺姓を伝え、兼光・兼平兄弟らの父として筑摩郡下の大吉祖荘を治め源義仲を扶育した中原兼遠もまた当然金刺姓であった。
『日本書紀』は今の皇室の始祖となる継体天皇の3人の子らが輩行即位した中で後世に皇統を伝えた前王朝の仁賢天皇の皇女を母とする欽明天皇の皇居を磯城島金刺宮とし、『醫道系図』という古書は朝廷の地下官人として平安期から江戸期に亘って少納言局を支配した中原氏の祖をヤマト王権時代に大和・磯城郡を支配した樫石タリニ(足りない=天皇の臣下の意)とする。
金刺姓中原氏を出自とした鎌倉初期の信濃における領主としては他に佐久郡甕(もたい)郷を領地とした者を伝え、源義仲の郎党と伝える根井行親を海野幸親と同一人視する史家は少なくなく、海野幸親の本貫を間近くして依田荘を治めていた依田実信の居城で源義仲は治承4年の源氏旗揚げに呼応している。
真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)は母方祖父とされる海野棟綱が武田信玄の父・信虎によって滅ぼされると、上野・群馬郡下の箕輪城主・長野業正を頼っているが、箕輪城主の配下であったとする上泉信綱を18世紀に成った『関八州古戦録』は金刺姓であったとする。
頼朝から処刑されようとした金刺盛澄の助命を懇請した梶原景時を派した鎌倉景政を鎌倉幕府創業の功臣と謳われた三浦義明の菩提寺である横須賀市所在の満昌寺が伝えた文書は平公雅の後裔とし、尾張・知多郡下の内海荘を治め頼朝の父・義朝を殺した長田忠致の祖・致頼の父が平公雅であり、知多郡阿久居郷には菅原道真の孫・雅規の後裔が在って、知多郡から伊勢湾を渡った伊勢より奈良盆地へ脱ける最短経路上に位置する大和・添上郡柳生郷の領主・宗厳に上泉信綱が剣を伝えたとされ、柳生宗厳は菅原雅規の子・薫宣の後裔とする。
『醫道系図』なる古書は金刺姓中原氏の源流を成す大和・磯城郡を支配した樫石タリニの弟・船瀬タリニから『尊卑分脈』が平高望の祖父とする葛原親王の家令を務めて833年に有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道や藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の家令を務めた有道惟広らを派したとし、有道惟広が平公雅の娘から生した惟能は菅原薫宣の娘を室としている。
有道惟能は自身が家令を務めた藤原伊周が伊周の叔父・道長の左大臣就任に因って大宰府へ左遷される直前に家令を辞し武蔵・児玉郡山間に在った勅旨営牧の牧監として下っており、有道惟能の孫とする経行は祖父・惟能が牧監を務めた勅旨営牧を拠点に源義家の孫となる経国に娘を稼し、源経国はまた有道経行の娘より先に白河院政期の摂関家である師実の子・経実の娘を迎えていた。
後白河法皇の子として藤原経実の娘を母とした二条天皇の准母(継母)とされた八条院・暲子(あきこ)内親王は鳥羽法皇が藤原得子(なりこ)に生ませた娘として後白河法皇の異母妹となり、藤原得子は藤原魚名の血脈を伝える女であって、魚名の母を片野朝臣と伝え、中原氏の遠祖となる樫石タリニや有道氏の遠祖となる船瀬タリニらの伯父となる多弁スクネ(少ない=天皇の臣下の意)より6世となる宇志が交野氏の祖とされる。
藤原伊周の家令を辞し武蔵・児玉郡下に在った勅旨営牧の牧監として下った有道惟能の従兄・定直は源義家の母方祖父として義家の父・頼義に鎌倉の邸を寄贈した平直方の正体であり、相模・三浦郡の領主はこの平直方こと有道定直の後裔であって、定直の卑属として定直の従弟・惟能の孫・弘行の猶子となって児玉郡真下郷の領主となった基直が北条時政の尊属に該り、有道定直流となる三浦義明の子・佐原義連の子であった伊勢義盛が源義経の郎党として有道弘行の弟となる経行の後裔が繁衍した上野南西部の碓氷郡板鼻郷に邸址を伝え、源義経の実父である盛経は有道経行が本拠とした武蔵・児玉郡下に在った勅旨営牧と隣接する地に河内荘を開いた源経国の子として河内荘に隣接する稲沢郷を領地とし、この稲沢盛経の後裔が紀伊・日高郡下で野長瀬荘を拠点とした武家であり、武蔵坊弁慶は日高郡に出生したとの伝承を見る。
児玉郡稲沢郷の地には稲聚神社と号する祠を遺し、伊豆半島の稲取岬を拠点とした水軍の将・江梨鈴木家は紀伊・名草郡藤白郷を本貫とした水軍の将・藤白鈴木家の分流であり、藤白鈴木家を生家とする鈴木重家は平泉で主である源義経とともに玉砕している。
松平親氏は上野から信濃・伊那郡浪合郷を経て三河・賀茂郡下に在った高橋荘を治めた中条氏の配下に在った藤白鈴木家の流れを汲む鈴木信重の娘婿となったとする伝承を見受け、事実、徳川家康の高祖父となる松平長親の母方祖父を鈴木重勝と伝える。
真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)の三弟を常田(ときた)隆永と伝え、小県郡常田郷は八条院・暲子内親王に相続された全国に散らばる広大な荘園群に属していたことが識られ、八条院領が後醍醐天皇を出す大覚寺統の経済的基盤となっており、真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)のさらに父と伝える頼昌が武田信玄の父・信虎に小県郡下の海尻城を逐われた海野棟綱の娘と婚じたとしても、頼昌が海野氏の血族であったと考えるのは得心できない。
真田信繁(幸村)の父・昌幸の岳父・尾藤頼忠は遠江・引佐郡の領主であったと伝え、尾藤頼忠は兄・知宣が羽柴秀吉の家臣となっていた縁故を頼って秀吉の弟・秀長の家臣となったという。
遠江・引佐郡に在った尾藤氏が北条泰時の被官・尾藤景綱の後裔であったとすれば、真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)の次弟・頼綱が小県郡矢沢郷を領有し諏訪大社の神職を世襲した一族と伝える武家の嗣子となっていることから、尾藤景綱と同じく北条泰時の被官であった諏訪盛重は小県郡手塚郷の領主・光盛の兄として諏訪大社秋宮の神職を生家とした金刺盛澄と眷属関係に在ったと憶測され、遠江・引佐郡に金指の字名を看ることからも、真田信繁(幸村)の父・昌幸の岳父であった尾藤頼忠は北条得宗被官の後裔であった可能性を推測させる。
遠州錯乱の因を成したとされる引佐郡下の曳馬城主・飯尾連龍の配下であった頭蛇寺城主・松下之綱の娘は近世に成った『関八州古戦録』が金刺姓であったとする上泉信綱より剣を伝えられた柳生宗厳の子・宗矩の室となっており、若き豊臣秀吉がまた松下之綱に仕えたとする伝承から秀吉が生国の尾張と遠江との関係を持った眷族に知遇を得たか縁故が有ったのではないかと推測したくなる。
尾藤氏の出自について鎌倉に看る尾藤ヶ谷の地名から山之内荘を治めた山内首藤氏との眷属関係を推測したくなるが、山内首藤氏は源頼義に随った美濃・席田(むしろだ)郡の守部氏を出自とするものである限り、尾藤氏の姓は尾張の藤原を表すものと考えたい。
尾張の藤原とは頼朝の生母・由良御前の父・藤原季範が熱田神宮の神職を世襲した尾張氏に入婿したことを指し、尾藤氏の出自に関して藤原南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲んだ季範との眷属関係を憶測させる。
尾張を生国とした豊臣秀吉は熱田神宮の神職と縁故の在る遠江の領主の伝手を頼って引佐郡下の頭蛇寺城主・松下之綱に仕えたのではあるまいか。
遠江に在った尾藤頼忠を岳父とした真田昌幸と子・信繁(幸村)は為に豊臣家に忠義を尽くしたものと推測され、豊臣家が天下を治める武家であったれば、真田父子は徳川四天王級の家格にグレード・アップした訳だ。
ところが、1589年の豊臣秀吉による裁定で真田昌幸が実力で切り取った上野・利根郡下の沼田城は利根川以東を小田原北条氏方の領地とされたことで小田原方に引き渡さねばならなくなり、利根川以西に在った沼田城の付城である名胡桃城が小田原方によって侵略されたことを因に小田原征伐が敢行されたとされ、真田昌幸から名胡桃城代を委ねられていた者を鈴木重則の名で伝える点に刮目させる。
『醫道系図』なる古書は鎌倉幕府創業の功臣・三浦義明や北条時政を派した有道定直の遠祖とする者の兄・大水口スクネを紀伊・名草郡藤白郷を本貫とした水軍の将・藤白鈴木家が出自とする穂積氏の祖とし、藤白鈴木家の流れを汲む武家が三河・賀茂郡下の高橋荘を領した中条氏の配下として在って、鈴木信重は松平親氏を入婿させた伝承を見せ、鈴木重勝は徳川家康の高祖父・松平長親の母方祖父と伝える。
端から真田昌幸は徳川家康に通謀し、小田原城陥落後に家康が関八州の領主として転封される企画に加担していた疑いが持たれ、その代償として家康は信繁(幸村)の兄・信幸(信之)を江戸幕府の大名に取り立てたものと思料される。
真田昌幸・信繁(幸村)父子の豊臣家への忠節は昌幸の岳父・尾藤忠頼の出自と太閤殿下の素姓との関連を憶測させるが、上野・吾妻郡から信濃・小県郡へ越える鳥居峠の麓に位置する真田郷の領主は千曲川を挟んで小県郡に拡がっていた望月・禰津・海野といった領主らの血族ではなかったものと思われ、鎌倉期の小県郡に在った塩田荘を領した北条義時の孫・義政の後裔ではないかと憶測させる。
北条義政は幕府の評定衆という要職に在りながら突如鎌倉を出奔し、塩田荘は幕府に収公されているが、北条義政はまた駿河・有度郡下に在った入江荘をも領有していたのではないか。
東海道随一の難所として識られる薩た峠は東名高速の高架が駿河湾の海面に迫り出た光景を見せ、薩た峠を越えた今の静岡市吉川に朝廷は清見ヶ関を設けていた。
梶原景時の一族郎党が殲滅された地が有度郡吉川郷であり、清水港に注ぐ塩田川より岐れた巴川の流域に吉川郷を看て、近傍には楠木や長崎といった字名を看る。
寡兵を以て大軍に当たる機略を逞しくしながら主への忠義を尽くした楠木正成と真田昌幸はまこと祖を等しくした可能性を見せ、真田六文銭の旗幟は駿河の入江荘で採取した食塩を上信国境の鳥居峠を越え信濃の塩田荘で領民らに頒布して徴収した金額を表すものかも知れない。
武士道・・・?武士道がそういう観念で割り切れるっつうんやったら、大阪のヤーさんの方がよっぽど利口に見えるかて、もそっと政治経済学的に真田父子の生涯を省察せにゃアカンのやないか思うのれす。
真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(あるいは幸綱)は武田信玄に仕えた武将で、信繁の祖父・幸隆には二人の弟が在ったことを伝える。
信繁祖父の次弟を矢沢頼綱と伝え、信繁祖父が本拠とした小県郡真田郷に隣接する矢沢郷の領主となっているが、元々矢沢郷は諏訪大社の神職を世襲した武家が領有していた地とされ、信繁の遠祖と矢沢郷の領主は古く争っていたことを伝え、戦国の最中に真田郷の領主と矢沢郷の領主が手打ちする手段として信繁祖父の次弟が矢沢郷領主の嗣子となったことを推測させる。
諏訪大社秋宮の神職を生家とした金刺盛澄は弟・光盛が小県郡手塚郷を領地として源義仲の麾下に加わったことから頼朝は盛澄を処刑しようと考えたが、梶原景時の懇請で御家人に取り立てられている。
源義仲の郎党には金刺盛澄の弟・手塚光盛の他に樋口兼光・今井兼平の兄弟らが在ったが、伊那郡樋口郷、今の辰野町に該るが、樋口郷を本貫とした兼光も、筑摩郡今井郷、今の松本市に該るが、今井郷を本貫とした兼平も兄弟であるからともに金刺姓を伝え、兼光・兼平兄弟らの父として筑摩郡下の大吉祖荘を治め源義仲を扶育した中原兼遠もまた当然金刺姓であった。
『日本書紀』は今の皇室の始祖となる継体天皇の3人の子らが輩行即位した中で後世に皇統を伝えた前王朝の仁賢天皇の皇女を母とする欽明天皇の皇居を磯城島金刺宮とし、『醫道系図』という古書は朝廷の地下官人として平安期から江戸期に亘って少納言局を支配した中原氏の祖をヤマト王権時代に大和・磯城郡を支配した樫石タリニ(足りない=天皇の臣下の意)とする。
金刺姓中原氏を出自とした鎌倉初期の信濃における領主としては他に佐久郡甕(もたい)郷を領地とした者を伝え、源義仲の郎党と伝える根井行親を海野幸親と同一人視する史家は少なくなく、海野幸親の本貫を間近くして依田荘を治めていた依田実信の居城で源義仲は治承4年の源氏旗揚げに呼応している。
真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)は母方祖父とされる海野棟綱が武田信玄の父・信虎によって滅ぼされると、上野・群馬郡下の箕輪城主・長野業正を頼っているが、箕輪城主の配下であったとする上泉信綱を18世紀に成った『関八州古戦録』は金刺姓であったとする。
頼朝から処刑されようとした金刺盛澄の助命を懇請した梶原景時を派した鎌倉景政を鎌倉幕府創業の功臣と謳われた三浦義明の菩提寺である横須賀市所在の満昌寺が伝えた文書は平公雅の後裔とし、尾張・知多郡下の内海荘を治め頼朝の父・義朝を殺した長田忠致の祖・致頼の父が平公雅であり、知多郡阿久居郷には菅原道真の孫・雅規の後裔が在って、知多郡から伊勢湾を渡った伊勢より奈良盆地へ脱ける最短経路上に位置する大和・添上郡柳生郷の領主・宗厳に上泉信綱が剣を伝えたとされ、柳生宗厳は菅原雅規の子・薫宣の後裔とする。
『醫道系図』なる古書は金刺姓中原氏の源流を成す大和・磯城郡を支配した樫石タリニの弟・船瀬タリニから『尊卑分脈』が平高望の祖父とする葛原親王の家令を務めて833年に有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道や藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の家令を務めた有道惟広らを派したとし、有道惟広が平公雅の娘から生した惟能は菅原薫宣の娘を室としている。
有道惟能は自身が家令を務めた藤原伊周が伊周の叔父・道長の左大臣就任に因って大宰府へ左遷される直前に家令を辞し武蔵・児玉郡山間に在った勅旨営牧の牧監として下っており、有道惟能の孫とする経行は祖父・惟能が牧監を務めた勅旨営牧を拠点に源義家の孫となる経国に娘を稼し、源経国はまた有道経行の娘より先に白河院政期の摂関家である師実の子・経実の娘を迎えていた。
後白河法皇の子として藤原経実の娘を母とした二条天皇の准母(継母)とされた八条院・暲子(あきこ)内親王は鳥羽法皇が藤原得子(なりこ)に生ませた娘として後白河法皇の異母妹となり、藤原得子は藤原魚名の血脈を伝える女であって、魚名の母を片野朝臣と伝え、中原氏の遠祖となる樫石タリニや有道氏の遠祖となる船瀬タリニらの伯父となる多弁スクネ(少ない=天皇の臣下の意)より6世となる宇志が交野氏の祖とされる。
藤原伊周の家令を辞し武蔵・児玉郡下に在った勅旨営牧の牧監として下った有道惟能の従兄・定直は源義家の母方祖父として義家の父・頼義に鎌倉の邸を寄贈した平直方の正体であり、相模・三浦郡の領主はこの平直方こと有道定直の後裔であって、定直の卑属として定直の従弟・惟能の孫・弘行の猶子となって児玉郡真下郷の領主となった基直が北条時政の尊属に該り、有道定直流となる三浦義明の子・佐原義連の子であった伊勢義盛が源義経の郎党として有道弘行の弟となる経行の後裔が繁衍した上野南西部の碓氷郡板鼻郷に邸址を伝え、源義経の実父である盛経は有道経行が本拠とした武蔵・児玉郡下に在った勅旨営牧と隣接する地に河内荘を開いた源経国の子として河内荘に隣接する稲沢郷を領地とし、この稲沢盛経の後裔が紀伊・日高郡下で野長瀬荘を拠点とした武家であり、武蔵坊弁慶は日高郡に出生したとの伝承を見る。
児玉郡稲沢郷の地には稲聚神社と号する祠を遺し、伊豆半島の稲取岬を拠点とした水軍の将・江梨鈴木家は紀伊・名草郡藤白郷を本貫とした水軍の将・藤白鈴木家の分流であり、藤白鈴木家を生家とする鈴木重家は平泉で主である源義経とともに玉砕している。
松平親氏は上野から信濃・伊那郡浪合郷を経て三河・賀茂郡下に在った高橋荘を治めた中条氏の配下に在った藤白鈴木家の流れを汲む鈴木信重の娘婿となったとする伝承を見受け、事実、徳川家康の高祖父となる松平長親の母方祖父を鈴木重勝と伝える。
真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)の三弟を常田(ときた)隆永と伝え、小県郡常田郷は八条院・暲子内親王に相続された全国に散らばる広大な荘園群に属していたことが識られ、八条院領が後醍醐天皇を出す大覚寺統の経済的基盤となっており、真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)のさらに父と伝える頼昌が武田信玄の父・信虎に小県郡下の海尻城を逐われた海野棟綱の娘と婚じたとしても、頼昌が海野氏の血族であったと考えるのは得心できない。
真田信繁(幸村)の父・昌幸の岳父・尾藤頼忠は遠江・引佐郡の領主であったと伝え、尾藤頼忠は兄・知宣が羽柴秀吉の家臣となっていた縁故を頼って秀吉の弟・秀長の家臣となったという。
遠江・引佐郡に在った尾藤氏が北条泰時の被官・尾藤景綱の後裔であったとすれば、真田信繁(幸村)の祖父・幸隆(幸綱)の次弟・頼綱が小県郡矢沢郷を領有し諏訪大社の神職を世襲した一族と伝える武家の嗣子となっていることから、尾藤景綱と同じく北条泰時の被官であった諏訪盛重は小県郡手塚郷の領主・光盛の兄として諏訪大社秋宮の神職を生家とした金刺盛澄と眷属関係に在ったと憶測され、遠江・引佐郡に金指の字名を看ることからも、真田信繁(幸村)の父・昌幸の岳父であった尾藤頼忠は北条得宗被官の後裔であった可能性を推測させる。
遠州錯乱の因を成したとされる引佐郡下の曳馬城主・飯尾連龍の配下であった頭蛇寺城主・松下之綱の娘は近世に成った『関八州古戦録』が金刺姓であったとする上泉信綱より剣を伝えられた柳生宗厳の子・宗矩の室となっており、若き豊臣秀吉がまた松下之綱に仕えたとする伝承から秀吉が生国の尾張と遠江との関係を持った眷族に知遇を得たか縁故が有ったのではないかと推測したくなる。
尾藤氏の出自について鎌倉に看る尾藤ヶ谷の地名から山之内荘を治めた山内首藤氏との眷属関係を推測したくなるが、山内首藤氏は源頼義に随った美濃・席田(むしろだ)郡の守部氏を出自とするものである限り、尾藤氏の姓は尾張の藤原を表すものと考えたい。
尾張の藤原とは頼朝の生母・由良御前の父・藤原季範が熱田神宮の神職を世襲した尾張氏に入婿したことを指し、尾藤氏の出自に関して藤原南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲んだ季範との眷属関係を憶測させる。
尾張を生国とした豊臣秀吉は熱田神宮の神職と縁故の在る遠江の領主の伝手を頼って引佐郡下の頭蛇寺城主・松下之綱に仕えたのではあるまいか。
遠江に在った尾藤頼忠を岳父とした真田昌幸と子・信繁(幸村)は為に豊臣家に忠義を尽くしたものと推測され、豊臣家が天下を治める武家であったれば、真田父子は徳川四天王級の家格にグレード・アップした訳だ。
ところが、1589年の豊臣秀吉による裁定で真田昌幸が実力で切り取った上野・利根郡下の沼田城は利根川以東を小田原北条氏方の領地とされたことで小田原方に引き渡さねばならなくなり、利根川以西に在った沼田城の付城である名胡桃城が小田原方によって侵略されたことを因に小田原征伐が敢行されたとされ、真田昌幸から名胡桃城代を委ねられていた者を鈴木重則の名で伝える点に刮目させる。
『醫道系図』なる古書は鎌倉幕府創業の功臣・三浦義明や北条時政を派した有道定直の遠祖とする者の兄・大水口スクネを紀伊・名草郡藤白郷を本貫とした水軍の将・藤白鈴木家が出自とする穂積氏の祖とし、藤白鈴木家の流れを汲む武家が三河・賀茂郡下の高橋荘を領した中条氏の配下として在って、鈴木信重は松平親氏を入婿させた伝承を見せ、鈴木重勝は徳川家康の高祖父・松平長親の母方祖父と伝える。
端から真田昌幸は徳川家康に通謀し、小田原城陥落後に家康が関八州の領主として転封される企画に加担していた疑いが持たれ、その代償として家康は信繁(幸村)の兄・信幸(信之)を江戸幕府の大名に取り立てたものと思料される。
真田昌幸・信繁(幸村)父子の豊臣家への忠節は昌幸の岳父・尾藤忠頼の出自と太閤殿下の素姓との関連を憶測させるが、上野・吾妻郡から信濃・小県郡へ越える鳥居峠の麓に位置する真田郷の領主は千曲川を挟んで小県郡に拡がっていた望月・禰津・海野といった領主らの血族ではなかったものと思われ、鎌倉期の小県郡に在った塩田荘を領した北条義時の孫・義政の後裔ではないかと憶測させる。
北条義政は幕府の評定衆という要職に在りながら突如鎌倉を出奔し、塩田荘は幕府に収公されているが、北条義政はまた駿河・有度郡下に在った入江荘をも領有していたのではないか。
東海道随一の難所として識られる薩た峠は東名高速の高架が駿河湾の海面に迫り出た光景を見せ、薩た峠を越えた今の静岡市吉川に朝廷は清見ヶ関を設けていた。
梶原景時の一族郎党が殲滅された地が有度郡吉川郷であり、清水港に注ぐ塩田川より岐れた巴川の流域に吉川郷を看て、近傍には楠木や長崎といった字名を看る。
寡兵を以て大軍に当たる機略を逞しくしながら主への忠義を尽くした楠木正成と真田昌幸はまこと祖を等しくした可能性を見せ、真田六文銭の旗幟は駿河の入江荘で採取した食塩を上信国境の鳥居峠を越え信濃の塩田荘で領民らに頒布して徴収した金額を表すものかも知れない。