大嘗祭の日に因み、当ブログ著者の遠祖・饒速日(ニギハヤヒ)命の後裔を述べたいと思います。

 先ず、ニギハヤヒの後裔としてよく識られる物部守屋は丁未の乱(587年)で蘇我馬子に倒されたオッチャンであり、奈良県天理市に在る石上神宮の祭神を氏神としとったといいます。

 桓武天皇の時代には石上宅嗣が大納言まで昇り、『先代旧事本紀』はニギハヤヒを天火明(アメノホアカリ)命の舎弟とし、『新撰姓氏録』はニギハヤヒを高天原の出身としています。

 アレクサンドロス3世の一行はアフガニスタン北部のバルフの街を通って今のタジキスタンへ向かったそうですが、バルフの街は火を拝むゾロアスター教の発祥地とされ、タジキスタンとタリム盆地の間に聳えるパミール高原は世界の屋根と呼ばれております。

 若狭湾に注ぐ由良川を遡りますと福知山市大江町有路に延喜式内社である阿良須(アラス)神社がございまして、飢えに倒れた天火明命を介抱した蟻稚菟道彦(アリチ・ウジヒコ)を祀るとのこと、由良川河口を間近くする天ノ橋立に臨んだ籠神社は元伊勢神宮とされ、阿良須神社の周辺にも元伊勢神宮内宮・外宮が看られます。

 天武天皇の血脈を伝えた最期の天皇となる称徳女帝の寵愛を受けた道鏡は物部氏の流れを汲む弓削氏を出自とし、道鏡に与して藤原南家のエース・仲麻呂を討った丈部(ハセツカベ)不破麻呂は武蔵・一ノ宮の神職であったといいます。

 称徳女帝の後、皇統は天智天皇の孫となる光仁天皇に移りますが、光仁帝の即位に立ち働いた藤原魚名は北家祖・房前の五男とされ、母を片野朝臣と伝えます。

 この片野朝臣という女がどういった素姓であったか全く判らないのですが、これが大阪府交野市と関係していたならば、ニギヤハヤヒが天降った哮峰(いかるがのみね)の在った地との伝承を看る交野市内に私市(きさいち)の地名を見出すことから、平安時代の武蔵・埼玉郡北部に私市(きさい)党と呼ばれた武士団が在ったことを想起させ、埼玉郡から北に進んで道鏡が配流された下野の安蘇郡下に本拠を構えた藤原秀郷は魚名の玄孫となる武将でした。

 藤原北家祖の曽孫となる冬嗣のさらに孫とされる高藤は魚名の子であり秀郷の曽祖父となる藤嗣のように藤原姓にも拘わらず諱に藤の字を重ねる奇妙な印象を与え、平安時代の初期には郡司を世襲した族を大領と呼び、藤原高藤は大阪府交野市と程近い宇治の大領であった宮道弥益の娘・列子との間に生した娘を醍醐天皇の生母としており、宇治大領であった宮道氏もまたニギハヤヒの後裔とされます。

 藤原魚名らの尽力で即位した光仁帝の子・桓武天皇のさらに子となる葛原親王の家令を務めた丈部(はせつかべ)氏道を『続日本後紀』は常陸・筑波郡の出身とし、氏道は833年に有道(ありち)姓を与えられました。

 『尊卑分脈』が葛原親王の孫とする平高望のさらに孫となる将門は頼朝の遠祖となる源経基の武蔵での横暴に反抗した武蔵武芝を応援しますが、武芝の遠祖は道鏡に与して藤原仲麻呂を討った丈部不破麻呂であり、将門が支配した下総の猿島郡や豊田郡は筑波郡と隣接する地で、将門を討ったのはまた藤原秀郷でした。

 有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となる有道惟広(これひろ)は藤原道長の長兄・道隆に家令として仕え、惟広の子・惟能(これよし)は藤原道隆の嫡子・伊周(これちか)の家令を務めましたが、伊周の叔父・道長が左大臣に就く996年に伊周が大宰府へ左遷される直前、伊周の家令を辞し関東山地の一角にて千曲川の源流となる高天原山より発する神流川の畔に在った官営牧場の監督官として関東に土着します。

 北条時政や明智光秀や徳川家康が有道惟能の後裔となることは当ブログの別の記事で述べましたが、家康の高祖父となる松平長親の岳父を派した藤白鈴木家は紀伊・名草郡藤白郷を本貫とする穂積氏の流れとなり、穂積氏もまたニギハヤヒの後裔とされます。

 ニギハヤヒの後裔となる宮道氏の流れを汲んだ室町幕府政所代・蜷川親元は松平信光が応仁の乱の張本と言える政所執事・伊勢貞親の被官であったことを記しています。

 紀伊半島南端に蟠踞した熊野氏もまたニギハヤヒの後裔とされますが、熊野大社は島根県松江市八雲に鎮座します。

 有道惟能の後裔となる埼玉県本庄市四方田を領した族は戦国時代まで北上川支流の江合川が流れる陸奥・遠田郡に蟠踞しましたが、明智光秀の素姓は四方田氏であり、本能寺を囲んだ四方田氏は天海が住持を務めた無量寿寺喜多院を版図に収める川越藩士となっており、本能寺の変後に家康は大阪府交野市内の平井清貞なる素封家の邸に立ち寄っており、変より12日後に明智光秀が戦った山崎合戦場から程近く、丈部大麻呂が東大寺大仏へ鍍金する素材を与えた史上初の産金を遂げた地は遠田郡涌谷郷であり、遠田郡に隣接する黒川郡下には延喜式内社の石上山精(いわかみやまずみ)神社が在り、社殿の裏手にそそり立つ岩屏風が地上に向かって傾斜する光景は圧巻です。

 丈部とは馳せ遣う部民を意味すると思われますが、故・佐伯有清さんは埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文に看る杖頭人ー往古の皇居で天皇に近侍した族の後裔と考え、為に武士をさむらいと言い、もののふとはまたニギハヤヒの後裔となる物部氏を意味します。


【著者の辞】
 出稿のご依頼は izumo_tribe@yahoo.co.jp まで