8世紀の初めに朝廷で銅貨鋳造の責任者を務めた多治比(たじひ)三宅麻呂の名を刻んだ石碑が今も群馬県高崎市吉井町の一角に利根川と合流する鏑川の畔に遺る。

 石碑が建てられた711年に周囲数kmほどの小さな郡が東山道の途上に新設され多胡郡と号し、その3年前に武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅が発見されたことと関係すると思われる。

 朝廷は多治比氏を胡族、詰まり胡椒を産する地の族と捉えていたことを示すのが新郡の号で、三宅麻呂の兄となる多治比嶋は『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴公子のモデルとなっている。

 嶋の曽孫となる多治比長野は閣僚を務め、長野の娘が桓武天皇の後宮で葛原親王を生んだ多治比真宗であった。

 鎌倉幕府が滅亡した後の14世紀に藤原北家の流れにて醍醐天皇の血脈を併せる閑院流の西園寺家より岐れた洞院公定が成した『尊卑分脈』は葛原親王の孫を平高望とし、高望より派した後裔が板東平氏や伊勢平氏・平家とされている。

 今の学界は平姓の由来を"たいらの宮"、詰まり桓武帝が奠都を図った平安京を意味すると説くが、桓武帝の子である平城上皇に抗って皇統を後裔に伝えた平城の弟・嵯峨天皇では摂津・西成郡に蟠踞し源頼光の郎党であった渡辺綱が嵯峨の子・源融の後裔と伝えるように後裔を源姓とし、しかしながら桓武帝の孫となる仁明天皇の孫にも平姓を与えられた者が在ったとされ、この仁明の子・文徳天皇の子にも平姓を与え、さらに文徳の弟・光孝天皇の孫にも平姓を与えられた者が在ったとするからには、文徳の孫・陽光天皇が平安時代4百年間にて80歳を越える最長寿を全うしながら史上初の関白となった藤原基経によって退位させられた後に文徳の弟・光孝が55歳の年齢で即位していることからも、平姓の意義は平安京を示す程度のものでないことが窺える。

 嵯峨帝を輔弼し平城上皇の復権を挫いた冬嗣は藤原北家祖・房前の曽孫となり、桓武帝の後宮で良峯安世を生んだ百済永継を母とした。

 永継の父・飛鳥部奈止麻呂は大和川が生駒山地と金剛山地を縊る亀の瀬渓谷を脱けて奈良盆地へ到る山門の手前に位置する河内・安宿(あすかべ)郡に在地していたが、大和川を遡ると三輪山を神体として拝殿を設えた大神(おおみわ)神社を前に纏向遺跡が発掘されている。

 安宿郡に隣接して応神天皇陵と仁徳天皇陵との間に製鉄を生業としたと伝える多治比氏が古くから本拠とした地と思われる丹比(たじひ)郡が見られ、多治比真宗も百済永継もともに百済遺民の後裔と伝える大和乙継の娘が生んだ桓武帝の後宮に入っている。

 凡庸な公家であった藤原北家祖の孫に再稼した百済永継を母とした冬嗣が嵯峨帝を輔弼し、冬嗣の娘が生んだ文徳が即位し、文徳の弟・光孝を生んだ女の父となる総継は藤原北家祖の曽孫に該るが、北家祖の五男とする魚名は片野朝臣なる後世に父親の氏素姓を全く識らせない謎の女性を母とし、生駒山地が北になだれた先に位置する大阪府交野市と関係するか、交野市内に見る私市(きさいち)の地名は往古のファースト・レディの財源として設けられた后部の名残と思われ、利根川が江戸時代に犬吠埼へ注ぐようになる以前に東京湾へ向かった流路であった武蔵・埼玉郡北部にも私市(きさい)党と呼ばれた武士団が平安時代に蟠踞し、埼玉郡と下総・葛飾郡との境を成した今の江戸川を遡った先となる下野・安蘇郡を本拠とした藤原秀郷は魚名の玄孫であった。

 そうした魚名の子・末成はその子・総継が光孝の母方祖父となって以往3百年間世に現れた者を出さなかったにも拘わらず、武士が台頭し始めた12世紀になって魚名の子・末成の後裔として家成が『愚管抄』にて鳥羽法皇の寵臣と叙べられるようになっている。

 光孝の母の妹が光孝の兄・文徳の孫となる陽成を退位させた藤原基経の母であり、自らが百済遺民の後裔を母とした桓武帝の周辺で史上に現れた者らの尊属となる多治比真宗や百済永継らが後世に名を伝え、眷属に平姓を伝えている。

 百済永継の父・飛鳥部奈止麻呂が在地した河内・安宿(あすかべ)郡の号に見る飛鳥の語源とは朝鮮語の安宿(あんすく)であって、朝鮮語の安宿とは中国の史書が記した安息を指し、紀元前3世紀に今のイラン・イラクを版図としてパルニ氏族を出自としたアルサケスが興したパルティア王朝を意味し、河内・丹比(たじひ)郡を古く本拠としたと思われる多治比氏の称はパルティア王朝と版図を接してやはり紀元前3世紀にギリシア人のディオドトス1世が興したグレコ・バクトリア王朝の在った地に原住したタジク族を出自とし、為に奈良朝は銅貨鋳造の任に在った多治比三宅麻呂を胡族と看た。

 三宅麻呂の名を刻んだ古碑を遺す上野・多胡郡下には多比良(たひら)の字名を見受け、平姓とは多治比の血が流れることを意味すると思われる。

 流れることに良の字を当てたのは良血だからで、良をラと訓ずるのは羅の音を藉りたものであって、この場合の羅の字は男系の血が並ぶことを指す。

 今の学界は後醍醐天皇の子である護良親王を"もりよし"親王と訓ずるのが正しいとするが、なぜ古く"もりなが"親王と伝わったか熟考すべきだ。

 銅貨鋳造の任に在った多治比三宅麻呂の名を刻んだ古碑は羊なる者に新たに設けられた郡の経営を委ねた旨を叙べているが、学界が解明し得ない羊の素姓は日本の国家的起源と平安時代に萌し鎌倉時代から江戸時代に亘って続いた武家政治の真相を教える意味から多くの日本人の意表を衝く驚異的な史実を明らかにし、往年の系図学の大家であった太田亮が史料的価値を全く認めなかった『醫道系図』に顕れる羊は708年に武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅を発見し、羊の孫となる継主こそ749年に東大寺の大仏に鍍金する素材として陸奥守であった百済王敬福が献上した金を陸奥・小田郡涌谷郷で採掘した丈部(はせつかべ)大麻呂に該り、羊の従兄の孫となる丈部氏道は多治比真宗を母とした葛原親王の家令を務め、孫に平姓を与えた仁明天皇が即位する833年に有道姓を与えられている。

 "ありち"と訓じた有道姓の意味とは大和川の源流を近くする大神神社が祀る大己貴(おおなむち)命の父となる須佐之命が山口県萩市の須佐湾に上陸した後、出雲族が拠点とした島根半島西端に位置する出雲大社の南方に展がる神戸川が開析した平野部の真ん中となる神門郡有原郷に在った阿利神社から若狭湾に注ぐ由良川を遡って元伊勢神宮内宮・外宮を間近くした丹後・加佐郡有路郷に在る阿良須神社が祀る蟻稚菟道彦(ありちうじひこ)などに由来し、『続日本後紀』が常陸・筑波郡の出身とする丈部氏道が出自とする族の称とは朝廷が陸奥に蟠踞して金を採掘する異民族に馳せ遣う部民を意味し、桓武帝が征伐に熱意を傾けた陸奥の蝦夷とは皇統譜において古くする先王朝の王族であった異民族であり、有道姓を与えられた丈部の遠祖であった。

 有道姓を与えられた丈部氏道より8世となる有道経行は秩父重綱の妹に生ませた子・行重を秩父重綱の猶子とし、以往行重は堂々と平姓を冒すようになったが、行重は上野・多胡郡に在地し、上に述べた多比良郷がその地であると思われる。

 平安時代に秩父郡を支配した族の祖とする平将恒の父・忠頼には経明の別諱が伝わり、『将門記』に見える平将門の配下に在った多治経明こそ秩父平氏の真の祖である筈で、多治比三宅麻呂の名を刻んだ古碑を遺す上野・多胡郡や自然銅が発見された秩父郡を間近くする武蔵・加美郡にて多治比氏が丹荘と号した荘園を営んでおり、藤原道長に仕えた源頼光の偏諱となる頼の字を帯びた秩父平氏祖の父・忠頼の弟・忠光は相模の豪族・三浦氏の祖とされ、秩父平氏祖・将恒の弟・忠常は三浦義明とともに鎌倉幕府創業の功臣と謳われた千葉常胤の家祖とし、秩父平氏や千葉氏・三浦氏ら鎌倉幕府の主だった御家人らが平姓を称えた由縁は製鉄に従った多治比氏の血脈を伝えることを意味する。

 世界の屋根と呼ばれたパミール高原の西麓に原住したタジク族をユーラシア大陸の際涯となる列島に導いたのはエーゲ海を挟んでアテネと向き合うイズミルの街を築いたポカイア人であり、マルセイユやモナコの港街を築いたポカイア人がユーラシア大陸を何世代にも亘って横断し日の本に達したものが出雲族であって、"ありち"とはヘレニズムをアジアに拡げたアレクサンドロス3世の師・アリストテレスの門下・アリストロイを意味する。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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