文永の役での戦功を訴えるべく安達泰盛との面会を果たした竹崎季長は肥後・宇城郡松橋郷に在地する武士であった。

 季長が鎌倉幕府の要路と面会を果たし得たのは姉の婚家の親族と思われる長門守護代・三井季成が長門守護であった二階堂行忠の被官であった為と言われる。

二階堂氏  二階堂氏行忠は安達泰盛が平頼綱によって討たれる前年に政所執事の職に就いたとされ、行忠の前に同職に在ったのは行忠の次兄の子・頼綱とされるが、弘安の役で肥後守護代として竹崎季長を指揮した安達盛宗は平頼綱に討たれた泰盛の子であり、安達泰盛と姻戚関係に在った二階堂行忠は実に泰盛とともに頼綱によって討たれていたのではなかろうか。

 であるから、竹崎季長は恩義の有る安達泰盛や二階堂行忠らへの鎮魂の意を込めて『蒙古襲来絵詞』を肥後・益城郡下に在る甲佐神社へ奉納したものと思われる。

 詰まり、史実は竹崎季長の主家となる二階堂行忠や安達泰盛らを討った平頼綱とは二階堂行忠の甥となる頼綱であり、その頼綱は 1293年に起きた平禅門の乱に因って討たれるまで生きていたこととなる。

 源頼家親裁停止と鎌倉幕府宿老・十三将による合議制下で十三将に加わった二階堂行政の長子・行光の後裔を信濃守系とし、行政の次子・行村の後裔となる隠岐守系に対して信濃守系二階堂氏が『吾妻鏡』の編纂に中心的役割を果たしたとされ、鎌倉幕府が滅亡する前年に政所執事の職に就いた二階堂貞藤道蘊は隠岐守系の流れを汲む人物で、幕府の要職に在ったにも拘わらず道蘊は建武政府に登用されている。

 二階堂氏の嫡流となる信濃守系が編纂に関わった『吾妻鏡』は安達泰盛や泰盛の姻戚であった二階堂行忠らに関する史実を歪曲して記していると思われ、陸奥・安達郡との関連を示唆して『鏡』の記す安達氏の祖・盛長とは鎌倉幕府創業の功臣と謳われた三浦義明の子とする佐原義連の子と思われる。

  佐原氏 なぜならば、『義経記』にて源義経の郎党であった伊勢義盛の父を"伊勢のかんらいの義連"と叙べ、伊勢神宮領であった相模・高座郡下の大庭御厨を頼朝の父とともに掠略した三浦義明の子・佐原義連は伊勢・度会郡に何らかの関係をもったものと憶測され、佐原義連の子が義経に仕えた伊勢義盛たれば、義盛の兄として同じく佐原義連の子である盛連こそ伊豆に在った頃の頼朝の小姓を務めたという安達盛長に該るものと思われるからだ。

 盛連の子・新宮時連は祖父・義連が幕府より守護に補任された紀伊に拠点を構え水軍を擁したものと推測され、時連をまた横須賀時連とも記す文書を看る処から、今の横須賀米海軍基地の在る東京湾に向かって突き出た小半島の楠ヶ浦の地にも拠点を有していたと思われ、宝治合戦で三浦泰村を滅ぼした安達義景とは実に三浦氏の庶流となる新宮時連であったと考えられ、陸奥・安達郡から猪苗代湖方面へ進んだ先となる河沼郡下に在った蜷川荘の地頭職を佐原義連の孫・景義であったとする文書が在り、惣領家を倒した三浦氏庶流たる新宮時連の子が安達泰盛であったことになる。

不知火 その安達泰盛の子・盛宗が弘安の役に臨んで肥後守護代として竹崎季長を指揮しており、季長が在地した宇城郡松橋郷と隣接する宇土郡不知火郷には西へ向かってく延びた陸地のから文永の役にて蒙古軍との戦いで窮地に陥った季長を救う福田兼重が在地した彼杵郡を間近に望む半島の付け根に位置して長崎の小字が看られる。

 細川重男さんは平禅門の乱後に幕府の最高実力者となった長崎円喜が生涯に亘って最も長く用いた実名を盛宗であったと指摘し、竹崎季長が平頼綱の討たれた年に出家して法名を法喜としたことと符合する。

 安達泰盛と組んだ信濃守系二階堂氏の行忠を除いた頼綱を再び泰盛の子・盛宗が倒した訳で、さらに長崎円喜こと安達盛宗を倒すべく隠岐守系二階堂氏の貞藤が安達氏祖とする盛長こと佐原盛連の弟であった伊勢義盛の後裔らとともに起ったことが鎌倉幕府を滅亡させ、室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏と政所代を世襲した蜷川氏の出自は以上から瞭らかとなろう。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

© Ryohichi Horigome 2011-2030 All Rights Reserved.