摂関政治の隆盛を見た藤原道長の長兄・道隆の娘である定子は一条天皇皇后として清少納言が仕えた女性でしたが、秀才の誉れ高かった兄・伊周は道長が左大臣に就く996年に大宰府へ左遷され、皇統は道長の娘・彰子の生んだ後朱雀天皇の子孫に伝わりました。
藤原伊周が大宰府へ左遷される2ヶ月前に伊周の家令を務めた有道惟能(これよし)という吏僚は家令の職を辞し、武蔵・児玉郡下の山間部に在った勅旨営牧の牧監として関東僻遠の地に下っています。
有道惟能の孫という経行は祖父・惟能が牧監を務めた勅旨営牧を拠点として新田・足利の祖となる源義国に扶育された義国の甥・経国に娘を稼し、源経国は有道経行が拠点とした勅旨営牧と隣接する地に河内荘を開いています。
頼朝の曾祖父となる義親は殺人の罪科に因って朝廷の命令を受けた平家の祖・正盛に討たれていますから、義親の弟となる義忠は頼信ー頼義ー義家と三代続いた河内守を最期に務めた者として瞭らかに河内源氏の惣領であった人物で、この源義忠を父とした経国はまた母を平正盛の娘とし、源平併せた血脈を承け継ぐ人物でしたが、父・義忠は武田の祖となる義忠の叔父・義光に謀殺され、経国は父・義忠の弟となる義国に扶育されたのです。
源経国が開いた河内荘と有道経行が拠点とした勅旨営牧とを結ぶ山道の途上に児玉郡稲沢郷が在り、源経国の子・盛経が領したその地には今も稲聚神社と呼ばれる祠が遺され、源義経の郎党であった鈴木重家の生家として紀伊・名草郡藤白郷を本貫とした水軍の将・藤白鈴木家の分流である江梨鈴木家が本拠とした伊豆半島東岸に在る稲取岬を連想させます。
晩年を洛北の鞍馬に過ごした源経国の孫となる者が義経であったならば、義経と母を等しく常盤御前とする阿野全成が平清盛の孫らと同じく頼朝が伊豆で決起するまで京・伏見の醍醐寺に過ごした理由も納得できますし、義経の真の父である稲沢盛経の後裔を唱えた武家が紀伊・日高郡下に在った野長瀬荘を拠点とし、『ウルトラセブン』を演出した野長瀬三摩地の生家が在る紀伊・日高郡に武蔵坊弁慶が生まれたとする伝承にも得心します。
異同を甚だしくする『武蔵七党系図』の多くの写本にあって児玉党条に見られる庄家長は概ね有道経行の兄にとって玄孫となる者とされ、『平家物語』は家長が一ノ谷合戦で東大寺大仏殿に火を放った平重衡を捕縛したとし、庄家長は鎌倉幕府より備中・小田郡下に在った草壁荘の地頭職を与えられ、家長の後裔は室町幕府の管領・細川氏を守護とした備中の守護代として長く遺ったことが識られています。
小田原北条氏の祖となる早雲庵宗瑞と号した武将を近年の学界が足利義政に仕えた伊勢貞親の妹を室とした伊勢盛定の子とする説に対して、著者は北条早雲の父が実にこの備中・庄氏を出自とした者ではなかったかと思っており、何れにしても今川義忠に与した北条早雲が義忠が求めた守護大名の自立性を拡げる方向に尽力したことは間違いないことです。
北条早雲は今川の客将として徳川家康の高祖父となる松平長親が拠点とした三河・額田郡下の岩津城を攻めており、その動機は松平氏を今川氏や早雲自身らにとって妨げとなる存在と考えてのことであったと推量されます。
松平長親の祖父・信光の名は室町幕府政所執事の職を世襲した伊勢氏の下に在ってやはり政所代を世襲した蜷川氏にて親元が遺した日記に顕れ、松平信光が応仁の乱を見た伊勢貞親の被官であったことが識られ、幕府の直轄領を保全・拡大することを狙っていた伊勢貞親の方策に応じた者が三河・賀茂郡下に当初の拠点を構えていたと伝える松平信光とその後裔が発展する契機を成したと思われます。
伊勢貞親の被官であった松平信光の子であり徳川家康の高祖父として北条早雲の三河侵攻を撃退した松平長親の父となる親忠は三河・賀茂郡下に在った高橋荘を領する名族・中条氏と干戈を交え破っており、この鎌倉時代以来の名門・中条氏の配下であったのが源義経の郎党・鈴木重家を生した藤白鈴木家の流れを汲む武家で、松平長親の母は鈴木重勝の娘であったと伝えます。
徳川将軍家の公式ホーム・ページに拠りますと、何でも、松平氏の始祖という親氏っちゅう人は三河・賀茂郡松平郷を領した鈴木信重の許に入婿したってなことが言われています。
ところで、三河・藤白鈴木家の主家であった中条氏は家長という人物が鎌倉幕府の要職に就き、三河・賀茂郡下に在った高橋荘を領することになって以来の名族でしたが、中条家長は小野篁の後裔を唱えて武蔵・多摩郡下に在った船木田新荘を領する武家を惣領とした横山党の流れを汲む者と伝え、横山党から岐れたという武家がまた利根川の支流・小山川からさらに岐れた志戸川を遡った武蔵・那珂郡猪俣郷を領した武家を中心に武蔵北部に拡がり猪俣党と呼ばれたように、利根川に臨む武蔵北部の幡羅郡中条保を領した人物とされますも、中条家長にとって惣領に該る横山時兼は和田義盛との姻戚関係から義盛に与して北条義時と争い滅びており、しかしながら中条家長とその後裔は室町幕府奉公衆となるまで銀座高級クラブのメンバー的に長らく羽振りを利かせた訳です。
この家長と似たような境遇に在った者が横山時兼の弟と伝える平子広長で、壇ノ浦から京に凱旋して義経と同じく後白河法皇より官途を授かりながら、広長はお咎めを蒙るどころかその後も頼朝の側近として富士の巻狩りで曽我祐成の太刀を浴びており、横山党に属した武家の中で生き延びた中条家長と平子広長らの諱を眺めていますと、『平家物語』で活躍した庄家長と家長の弟として武蔵・児玉郡四方田郷を領したと伝える弘長ら兄弟の名前を想起させるのです。
平安中期を生きた吏僚に過ぎなかった有道惟能の後裔とする領主らが拡がった武蔵・児玉郡下にて、庄家長が生きた時代には同じ四方田郷を弘長とその弟とする別の人物が領したとされ、家長の後裔は備中に拠点を移して以往斯地に長らく遺り、しかも庄家長は鎌倉幕府の要職に就いた中条家長の諱と等しくし、面白いことに中条家長が領した武蔵・幡羅郡中条保を同じく領したという有道姓の領主が在ったと伝えます。
中条家長と諱の訓音を等しくする庄家長の弟・四方田弘長の諱とまた訓音を等しくする平子広長の兄・横山時兼を惣領とした武士団の分流という猪俣党が拡がった武蔵・那珂郡を流れる志戸川が合流する小山川を遡ると有道経行の娘を迎えた源経国が開いた河内荘が在りましたが、志戸川が小山川に合流する一帯となる児玉郡牧西郷を領した義季は庄家長や四方田弘長らの甥に該り、しかし、児玉郡牧西郷から小山川を下ると僅かな距離を以て利根川に合流し、さらに下れば幡羅郡を過ごし、有道経行の娘を迎えた源経国を扶育した源義国とその子・義重らが拡げた新田荘の在った上野・新田郡に到り、新田郡得川郷はまた利根川の畔に位置しますも、新田義重が遺した領地の相続に係る書状には得川郷の地名が顕れません。
因みに、武蔵・児玉郡四方田郷を本貫とする武家は鎌倉時代から陸奥の地にて鳴子温泉郷辺りから発する北上川の支流・江合川流域に豊臣秀吉の時代に至るまで蟠踞し、四方田氏は本能寺を囲んだ明智光秀の陣中に現れ、江戸時代を川越藩士として過ごしており、家康に仕えた天海は後に川越藩領に属することとなる無量寿寺北院の住持であったと伝え、それ以前には上野・新田郡世良田郷に在る長楽寺に在籍していたと伝えます。
新田郡得川郷に隣接する世良田郷に新田義重の嫡子・義兼の弟とする得川四郎義季は北条義時が自身に向けて発せられた後鳥羽上皇の追討軍と戦った年に栄西の法弟・栄朝を招いて長楽寺を建立していますが、長楽寺に隣接して江戸幕府は日光例幣使が通う東照宮の分祠を建てており、得川義季に招かれて長楽寺の開基となった栄朝はそれ以前に源義経の郎党であった伊勢義盛の邸址を示した板鼻郷の属する上野・碓氷郡下に開いた蓮華寺の祖となっています。
徳川家康の祖父・松平清康は自身の墓碑に世良田姓を刻ませていますが、同じ源義国の子でありながら足利氏の祖となる義康の後裔は頼朝や北条氏から厚遇されながら、頼朝や北条氏から冷遇された義重の子として義俊は上野・吾妻郡里見郷を、義範は群馬郡山名郷を領し、新田荘から随分離れた地を拠点として、『吾妻鏡』は頼朝が里見義俊と山名義範らには新田惣領家とは別立ての旗幟を許したとし、伊勢義盛の邸址を伝える碓氷郡ととも里見氏祖や山名氏祖ら本貫の在った地まで源経国に娘を稼した有道経行の後裔となる領主らが拡がっていました。
『愚管抄』巻第六には北条時政について叙べた段落が看られ、『吾妻鏡』の記載や学界の通説は源頼家の嫡子を生んだ女の父・比企能員の岳父を渋河兼忠とするのとは異にして、『抄』は北条時政に謀殺された比企能員の岳父を"ミセヤノ大夫行時"とし、段落の末尾に文脈から凡そ突飛な調子で外れ文意を解釈し難い「行時はまた児玉党の武士にも娘を稼していた」とする一文を加えて、後世に生きる我々に大きな興奮を与えてくれます。
有道経行の孫となる行時は伊勢義盛の邸址を示す上野・碓氷郡と山名義範の本貫の在った群馬郡との間となる多胡郡片山郷を領し、行時の父となる行重や叔父となる行高らは北条時政に謀殺された畠山重忠の遠祖となる行重・行高らの母方祖父として児玉郡に隣接する秩父郡を支配した重綱の猶子となり、行時の叔父・行高は上野・甘楽郡小幡郷を領しました。
上野・多胡郡片山郷を間近くする奥平郷を領した武家は有道経行ー行重ー行時の流れを汲むとされますが、『武蔵七党系図』児玉党条は行重の弟・行高の後裔を入嗣させたような記載を示し、宇都宮氏二代とされる八田宗綱の許に入婿し下野・都賀郡下の小山荘を本拠とした武家の祖とされる政光は旧姓を太田とし武蔵国衙に関わっていたと伝えますが、上に述べました通り、小野姓横山党に属すると伝える家長が領した幡羅郡中条保をまた有道姓児玉党に属する者が領したと伝える史料を見せ、幡羅郡太田郷を領した武家は中条家長と等しく小野姓横山党に属した領主と伝えますも真実を考える余地を感得し、14世紀に公家が編んだ『尊卑分脈』は小山氏祖となった政光の祖父を行高とする点は我々を刺激して、さらに小山政光の父を行政とする処は二階堂行政の出自を北条義時と三浦義村との間を従兄弟の続柄とさせた娘らを生した伊東祐親と等しく、平高望の娘を母とした藤原南家祖三子・乙麻呂流となる為憲の流れとする以上の真実を後世に窺わせます。
福沢諭吉翁の主家であった豊前・中津藩主の公式ホーム・ページは祖を村上天皇とし、莫迦ばかしくて話になりませんが、少なくも奥平氏は氏行なる人物を遠祖の一人に据えて、"児玉庄左衛門の息"なる文言を脇注に付す点は多少とも真実を伝え、奥平氏の遠祖・氏行の父・則景の玄孫を播磨・佐用郡を本拠とした赤松則村とする点は示唆深く、東大名誉教授の五味文彦さんが指摘する『吾妻鏡』の編纂に中心的な役割を果たした者らを派した二階堂行政や小山氏らの真実の遠祖となる有道行高の孫にも氏行なる名を伝え、徳川家康と姻戚関係を成した奥平信昌より7世先となる定家が徳川氏の遠祖とともに上野から信濃を経て三河へ転じたとする伝承も強ち信憑性が無いものとして否定することは惜しまれます。
新田義重の嫡子・義兼の弟とする得川四郎義季の名は『吾妻鏡』に顕れませんが、代わりか否か、徳河三郎義秀なる名が新田義兼の弟として現れ、ところで北条時政もまた四郎時政の名を今に伝えています。
藤原伊周が大宰府へ左遷される2ヶ月前に伊周の家令を務めた有道惟能(これよし)という吏僚は家令の職を辞し、武蔵・児玉郡下の山間部に在った勅旨営牧の牧監として関東僻遠の地に下っています。
有道惟能の孫という経行は祖父・惟能が牧監を務めた勅旨営牧を拠点として新田・足利の祖となる源義国に扶育された義国の甥・経国に娘を稼し、源経国は有道経行が拠点とした勅旨営牧と隣接する地に河内荘を開いています。
頼朝の曾祖父となる義親は殺人の罪科に因って朝廷の命令を受けた平家の祖・正盛に討たれていますから、義親の弟となる義忠は頼信ー頼義ー義家と三代続いた河内守を最期に務めた者として瞭らかに河内源氏の惣領であった人物で、この源義忠を父とした経国はまた母を平正盛の娘とし、源平併せた血脈を承け継ぐ人物でしたが、父・義忠は武田の祖となる義忠の叔父・義光に謀殺され、経国は父・義忠の弟となる義国に扶育されたのです。
源経国が開いた河内荘と有道経行が拠点とした勅旨営牧とを結ぶ山道の途上に児玉郡稲沢郷が在り、源経国の子・盛経が領したその地には今も稲聚神社と呼ばれる祠が遺され、源義経の郎党であった鈴木重家の生家として紀伊・名草郡藤白郷を本貫とした水軍の将・藤白鈴木家の分流である江梨鈴木家が本拠とした伊豆半島東岸に在る稲取岬を連想させます。
晩年を洛北の鞍馬に過ごした源経国の孫となる者が義経であったならば、義経と母を等しく常盤御前とする阿野全成が平清盛の孫らと同じく頼朝が伊豆で決起するまで京・伏見の醍醐寺に過ごした理由も納得できますし、義経の真の父である稲沢盛経の後裔を唱えた武家が紀伊・日高郡下に在った野長瀬荘を拠点とし、『ウルトラセブン』を演出した野長瀬三摩地の生家が在る紀伊・日高郡に武蔵坊弁慶が生まれたとする伝承にも得心します。
異同を甚だしくする『武蔵七党系図』の多くの写本にあって児玉党条に見られる庄家長は概ね有道経行の兄にとって玄孫となる者とされ、『平家物語』は家長が一ノ谷合戦で東大寺大仏殿に火を放った平重衡を捕縛したとし、庄家長は鎌倉幕府より備中・小田郡下に在った草壁荘の地頭職を与えられ、家長の後裔は室町幕府の管領・細川氏を守護とした備中の守護代として長く遺ったことが識られています。
小田原北条氏の祖となる早雲庵宗瑞と号した武将を近年の学界が足利義政に仕えた伊勢貞親の妹を室とした伊勢盛定の子とする説に対して、著者は北条早雲の父が実にこの備中・庄氏を出自とした者ではなかったかと思っており、何れにしても今川義忠に与した北条早雲が義忠が求めた守護大名の自立性を拡げる方向に尽力したことは間違いないことです。
北条早雲は今川の客将として徳川家康の高祖父となる松平長親が拠点とした三河・額田郡下の岩津城を攻めており、その動機は松平氏を今川氏や早雲自身らにとって妨げとなる存在と考えてのことであったと推量されます。
松平長親の祖父・信光の名は室町幕府政所執事の職を世襲した伊勢氏の下に在ってやはり政所代を世襲した蜷川氏にて親元が遺した日記に顕れ、松平信光が応仁の乱を見た伊勢貞親の被官であったことが識られ、幕府の直轄領を保全・拡大することを狙っていた伊勢貞親の方策に応じた者が三河・賀茂郡下に当初の拠点を構えていたと伝える松平信光とその後裔が発展する契機を成したと思われます。
伊勢貞親の被官であった松平信光の子であり徳川家康の高祖父として北条早雲の三河侵攻を撃退した松平長親の父となる親忠は三河・賀茂郡下に在った高橋荘を領する名族・中条氏と干戈を交え破っており、この鎌倉時代以来の名門・中条氏の配下であったのが源義経の郎党・鈴木重家を生した藤白鈴木家の流れを汲む武家で、松平長親の母は鈴木重勝の娘であったと伝えます。
徳川将軍家の公式ホーム・ページに拠りますと、何でも、松平氏の始祖という親氏っちゅう人は三河・賀茂郡松平郷を領した鈴木信重の許に入婿したってなことが言われています。
ところで、三河・藤白鈴木家の主家であった中条氏は家長という人物が鎌倉幕府の要職に就き、三河・賀茂郡下に在った高橋荘を領することになって以来の名族でしたが、中条家長は小野篁の後裔を唱えて武蔵・多摩郡下に在った船木田新荘を領する武家を惣領とした横山党の流れを汲む者と伝え、横山党から岐れたという武家がまた利根川の支流・小山川からさらに岐れた志戸川を遡った武蔵・那珂郡猪俣郷を領した武家を中心に武蔵北部に拡がり猪俣党と呼ばれたように、利根川に臨む武蔵北部の幡羅郡中条保を領した人物とされますも、中条家長にとって惣領に該る横山時兼は和田義盛との姻戚関係から義盛に与して北条義時と争い滅びており、しかしながら中条家長とその後裔は室町幕府奉公衆となるまで銀座高級クラブのメンバー的に長らく羽振りを利かせた訳です。
この家長と似たような境遇に在った者が横山時兼の弟と伝える平子広長で、壇ノ浦から京に凱旋して義経と同じく後白河法皇より官途を授かりながら、広長はお咎めを蒙るどころかその後も頼朝の側近として富士の巻狩りで曽我祐成の太刀を浴びており、横山党に属した武家の中で生き延びた中条家長と平子広長らの諱を眺めていますと、『平家物語』で活躍した庄家長と家長の弟として武蔵・児玉郡四方田郷を領したと伝える弘長ら兄弟の名前を想起させるのです。
平安中期を生きた吏僚に過ぎなかった有道惟能の後裔とする領主らが拡がった武蔵・児玉郡下にて、庄家長が生きた時代には同じ四方田郷を弘長とその弟とする別の人物が領したとされ、家長の後裔は備中に拠点を移して以往斯地に長らく遺り、しかも庄家長は鎌倉幕府の要職に就いた中条家長の諱と等しくし、面白いことに中条家長が領した武蔵・幡羅郡中条保を同じく領したという有道姓の領主が在ったと伝えます。
中条家長と諱の訓音を等しくする庄家長の弟・四方田弘長の諱とまた訓音を等しくする平子広長の兄・横山時兼を惣領とした武士団の分流という猪俣党が拡がった武蔵・那珂郡を流れる志戸川が合流する小山川を遡ると有道経行の娘を迎えた源経国が開いた河内荘が在りましたが、志戸川が小山川に合流する一帯となる児玉郡牧西郷を領した義季は庄家長や四方田弘長らの甥に該り、しかし、児玉郡牧西郷から小山川を下ると僅かな距離を以て利根川に合流し、さらに下れば幡羅郡を過ごし、有道経行の娘を迎えた源経国を扶育した源義国とその子・義重らが拡げた新田荘の在った上野・新田郡に到り、新田郡得川郷はまた利根川の畔に位置しますも、新田義重が遺した領地の相続に係る書状には得川郷の地名が顕れません。
因みに、武蔵・児玉郡四方田郷を本貫とする武家は鎌倉時代から陸奥の地にて鳴子温泉郷辺りから発する北上川の支流・江合川流域に豊臣秀吉の時代に至るまで蟠踞し、四方田氏は本能寺を囲んだ明智光秀の陣中に現れ、江戸時代を川越藩士として過ごしており、家康に仕えた天海は後に川越藩領に属することとなる無量寿寺北院の住持であったと伝え、それ以前には上野・新田郡世良田郷に在る長楽寺に在籍していたと伝えます。
新田郡得川郷に隣接する世良田郷に新田義重の嫡子・義兼の弟とする得川四郎義季は北条義時が自身に向けて発せられた後鳥羽上皇の追討軍と戦った年に栄西の法弟・栄朝を招いて長楽寺を建立していますが、長楽寺に隣接して江戸幕府は日光例幣使が通う東照宮の分祠を建てており、得川義季に招かれて長楽寺の開基となった栄朝はそれ以前に源義経の郎党であった伊勢義盛の邸址を示した板鼻郷の属する上野・碓氷郡下に開いた蓮華寺の祖となっています。
徳川家康の祖父・松平清康は自身の墓碑に世良田姓を刻ませていますが、同じ源義国の子でありながら足利氏の祖となる義康の後裔は頼朝や北条氏から厚遇されながら、頼朝や北条氏から冷遇された義重の子として義俊は上野・吾妻郡里見郷を、義範は群馬郡山名郷を領し、新田荘から随分離れた地を拠点として、『吾妻鏡』は頼朝が里見義俊と山名義範らには新田惣領家とは別立ての旗幟を許したとし、伊勢義盛の邸址を伝える碓氷郡ととも里見氏祖や山名氏祖ら本貫の在った地まで源経国に娘を稼した有道経行の後裔となる領主らが拡がっていました。
『愚管抄』巻第六には北条時政について叙べた段落が看られ、『吾妻鏡』の記載や学界の通説は源頼家の嫡子を生んだ女の父・比企能員の岳父を渋河兼忠とするのとは異にして、『抄』は北条時政に謀殺された比企能員の岳父を"ミセヤノ大夫行時"とし、段落の末尾に文脈から凡そ突飛な調子で外れ文意を解釈し難い「行時はまた児玉党の武士にも娘を稼していた」とする一文を加えて、後世に生きる我々に大きな興奮を与えてくれます。
有道経行の孫となる行時は伊勢義盛の邸址を示す上野・碓氷郡と山名義範の本貫の在った群馬郡との間となる多胡郡片山郷を領し、行時の父となる行重や叔父となる行高らは北条時政に謀殺された畠山重忠の遠祖となる行重・行高らの母方祖父として児玉郡に隣接する秩父郡を支配した重綱の猶子となり、行時の叔父・行高は上野・甘楽郡小幡郷を領しました。
上野・多胡郡片山郷を間近くする奥平郷を領した武家は有道経行ー行重ー行時の流れを汲むとされますが、『武蔵七党系図』児玉党条は行重の弟・行高の後裔を入嗣させたような記載を示し、宇都宮氏二代とされる八田宗綱の許に入婿し下野・都賀郡下の小山荘を本拠とした武家の祖とされる政光は旧姓を太田とし武蔵国衙に関わっていたと伝えますが、上に述べました通り、小野姓横山党に属すると伝える家長が領した幡羅郡中条保をまた有道姓児玉党に属する者が領したと伝える史料を見せ、幡羅郡太田郷を領した武家は中条家長と等しく小野姓横山党に属した領主と伝えますも真実を考える余地を感得し、14世紀に公家が編んだ『尊卑分脈』は小山氏祖となった政光の祖父を行高とする点は我々を刺激して、さらに小山政光の父を行政とする処は二階堂行政の出自を北条義時と三浦義村との間を従兄弟の続柄とさせた娘らを生した伊東祐親と等しく、平高望の娘を母とした藤原南家祖三子・乙麻呂流となる為憲の流れとする以上の真実を後世に窺わせます。
福沢諭吉翁の主家であった豊前・中津藩主の公式ホーム・ページは祖を村上天皇とし、莫迦ばかしくて話になりませんが、少なくも奥平氏は氏行なる人物を遠祖の一人に据えて、"児玉庄左衛門の息"なる文言を脇注に付す点は多少とも真実を伝え、奥平氏の遠祖・氏行の父・則景の玄孫を播磨・佐用郡を本拠とした赤松則村とする点は示唆深く、東大名誉教授の五味文彦さんが指摘する『吾妻鏡』の編纂に中心的な役割を果たした者らを派した二階堂行政や小山氏らの真実の遠祖となる有道行高の孫にも氏行なる名を伝え、徳川家康と姻戚関係を成した奥平信昌より7世先となる定家が徳川氏の遠祖とともに上野から信濃を経て三河へ転じたとする伝承も強ち信憑性が無いものとして否定することは惜しまれます。
新田義重の嫡子・義兼の弟とする得川四郎義季の名は『吾妻鏡』に顕れませんが、代わりか否か、徳河三郎義秀なる名が新田義兼の弟として現れ、ところで北条時政もまた四郎時政の名を今に伝えています。