先頃まで当ブログのタイトルを早雲庵伊勢氏伝としながら、忙しくてさっぱり記事を書けなかったので、改めて戦国大名の走りとされる北条早雲の出自と室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏なる武家の源流について解き明かしたいと思う。

 何故、著者が北条早雲の出自や伊勢氏の源流について拘るかは、鎌倉幕府に君臨した北条氏と戦国の世を切り抜け江戸幕府将軍家にまで昇り詰めた徳川氏の出自について同時に解明できる驚異が在るからだ。

 『古事記』は相模で土匪と闘った日本武尊が三浦半島の走水から弟橘媛とともに房総半島に向かうべく東京湾を渡ったとし、近畿への帰途にて武尊が碓氷峠で東京湾に投身した弟橘媛を憶い嘆き放った「吾が妻よ」の辞が東を"あづま"と訓ずる由来とされるが、その碓氷峠を上野から信濃へ脱ける碓氷峠とする説とともに箱根の碓氷峠とする説を看る。

 確かに、往古には江戸時代の中山道に該る近畿・関東間のルートは雨期の鉄砲水に悩まされた大井川の渡しや駿府から駿河湾岸へ向かう途次にて東名高速の高架が海に張り出した薩た峠、箱根外輪山が立ち塞ぐ険しい山路などを見る東海道よりも、朝廷関係者らには好まれたものかと憶測されるが、箱根外輪山に囲まれた山中はまた匪賊らにとって恰好の根城となり、現に平安京に奠都してからの百年は僦馬の党と呼ばれた山賊らが箱根峠より北に在った足柄関を通って関東から都へ運ばれる官物を強奪し、それを上野などの北関東の地で捌いたと伝え、藤原道長に仕えて朝家に武名を揚げた源頼光の配下であった坂田金時はその名から関ヶ原へ脱ける近江・坂田郡の生まれと思われるも足柄山で鉞を担いでいたと言われ、頼光の若頭的位置に在った碓井貞光の名はまた信濃へ脱ける上野・碓氷郡との関わりを憶測させるも坂田金時が縄張りとした箱根の碓氷峠辺りを拠点とした可能性も考えられる。

 芦ノ湖の北から発する早川は北に向かって仙石原で南へ転じ小田原市街の外れで相模湾に注ぐが、早川に沿って仙石原の集落から宮城野集落へ向かう途は国道138号が通うようになるまでの往古には早川の東側を伝った山路を通わなければならず、その途次に見る箱根・碓氷峠と向き合うように箱根登山鉄道終点の強羅駅から攀じ登るケーブル・カーで辿り着く早雲山駅を望み、山嶺を挿んで西側に位置する大涌谷の反対側となる地獄谷からは今も火山ガスの噴出を見せる。

 頼朝の遠祖となる頼信の兄・頼光の武名を高からしめた配下の武将らとは如何なる人物であったかを考察することは鎌倉幕府の誕生から江戸幕府に至る日本における封建制の胚胎を考究することであり、『今昔物語集』に見える頼光の郎党である平貞道の名は碓井貞光を指す筈で、これらの名はまた相模の大身として鎌倉幕府の誕生に甚大な貢献を成した在地領主である三浦氏の始祖と伝える平忠光・三浦忠通父子らの名と訓音を酷似させる。

 此処でさらに想起させる人物として鎌倉に在った私邸を頼光の甥となる源頼義に寄贈した上、娘を娶せ八幡太郎義家の母とした平直方が在り、直方は在京する摂関家の家人であったと伝えながら鎌倉にも邸を有していた訳で、執権・北条氏の遠祖とされる平直方とは源頼光の郎党であった碓井貞光と同一人であった可能性を憶測させる。

 藤原道長の長兄として清少納言が仕えた一条天皇皇后・定子の父である中関白・道隆の嫡子・伊周の家司を務めた人物に有道惟能なる吏僚が在ったが、この吏僚の従兄として有道定直なる名を伝える古書が在り、この有道定直の定の字が碓井貞光に通じ、直の字がまた平直方に通ずる。

 有道惟能の父・惟広もまた中関白・藤原道隆の家司を務め、惟広の高祖父となる丈部(はせつかべ)氏道を『続日本後紀』は常陸・筑波郡の出身と伝え、桓武天皇の子となる葛原親王の家司を務め、桓武帝の孫となる仁明天皇が即位した833年に有道姓を授けられたという。

 桓武平氏の祖とされる平高望は有道姓を授けられた常陸・筑波郡出身の丈部氏道が仕えた葛原親王の孫とされ、高望の孫となる平将門が叛乱を果たした時に常陸の長官として拘禁された藤原惟幾の子・為憲は平高望の娘を母としたと伝え、この藤原為憲の後裔となる伊東祐親をともに母方祖父とした者らが北条義時と三浦義村であった。

 北条時政の愛妾・牧の方の近親である牧宗親を平頼盛の母であった池禅尼の弟と看る学者が在り、頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼は有道氏が仕えた中関白・藤原道隆の後裔となる女性であった。

 北条時政との眷属関係を伝える牧宗親が管理していた駿河郡下の大岡牧は平頼盛が領有したものと伝え、室町期に駿河郡を支配した葛山氏や相模・足柄郡を支配した大森氏らは有道氏が仕えた藤原伊周の後裔を唱えていた。

 北条早雲はこの大森氏が根城としていた小田原城を奪って戦国大名へ昇り詰めた。

 北条早雲が生前に早雲庵宗瑞の号を称えたことは確かであり、箱根・碓氷峠から早雲を望み抱いた想念を憶測させる。

 では、北条早雲が称えた宗瑞なる法名は何を意味するであろうか?

 藤原道長が左大臣に就いた996年、有道惟能が仕えた道長の甥である藤原伊周は大宰府へ左遷され、惟能は主家が左遷される2ヶ月前に家司の職を辞し、武蔵・児玉郡下の山間に在った官営牧場の監督官として赴いたという。

 群馬・埼玉県境を成す神流川を遡って方々のホーム・センターなどに庭石を出荷する三波石峡を間近くした勅旨営牧・阿久原牧址の一帯は上野から信濃へ脱ける碓氷峠をも近くし、平安京に奠都した百年間見られた僦馬の党は南関東に地にては東海道の足柄関で活動する一方で北関東では東山道の碓氷関でもまた同様の活動を果たし、そうした連中の北関東における拠点の一つが朝廷の吏僚であった有道惟能が下った武蔵・児玉郡下の山間であったと思われる。

 有道惟能の孫と伝える経行は祖父が営んだ勅旨営牧を拠点に摂関家・師実の子として後白河法皇の子である二条天皇の母方祖父となった藤原経実の娘を正室とした源経国に娘を稼し、源義家の孫となる経国は有道経行が拠点とした勅旨営牧と丘陵を挿んで隣接する地に河内荘を開いた。

 経国の父である源義忠は頼朝の曾祖父となる義親の弟であるも、頼朝の曾祖父・義親は殺人の罪科で平正盛に処断され、義忠は頼信ー頼義ー義家と3代続けた河内守を最期に務め、義家から河内源氏の家督を継承したが、義家の弟として武田氏など甲斐源氏の祖となる源義光に謀殺され、頼朝の祖父・為義が河内源氏の惣領とされた。

 こうした経緯をもつ義忠の子であった源経国は平家の祖となる正盛の娘を母とし、源平の血脈を交えた経国は摂関家の近親となる娘を正室としながら、武蔵山間の地に荘園を立券したのは新田・足利両氏の祖として経国の叔父となる源義国に扶育された為でもあったかも知れない。

 側室として迎えた女の父が拠点とする地と隣接して荘園を開いた源経国は晩年を洛北・鞍馬に隠棲したと伝え、経国の子・盛経は有道経行が拠点とした武蔵・児玉郡下に在った阿久原牧と父・経国が開いた河内荘とを結んで山間を伝った途次となる稲沢郷を拠点としたが、斯地には今も稲聚神社と号する祠を見せ、源義経の郎党であった水軍の将・鈴木重家の本貫である紀伊・名草郡藤白郷を治めた武家より岐れて伊豆半島の稲取岬一帯を拠点とした江梨鈴木家を連想させる。

 もし、源義経が頼朝の実弟でなく頼朝の曾祖父・義親の弟であった義忠の曾孫に該る人物であったとするならば、壇ノ浦から京に凱旋した義経は源平の血脈を交えた河内源氏の嫡流となる人物であったこととなり、後白河法皇より官途を授けられた義経を必死になって逐い詰めた頼朝らの真意を推し量ることができる。

 源経国に娘を稼した有道経行の孫と伝える行時は上野・多胡郡片山郷を拠点とし、『愚管抄』巻第六にて北条時政について叙べられた段落の末尾に文脈から突然外れて顕れる"ミセヤノ大夫行時"に該る人物と思われ、源頼家の岳父・比企能員のさらに岳父となる者を『吾妻鏡』が伝える通りに渋河兼忠とする学界の通説は『愚管抄』と瞭らかに異にし、『抄』は比企能員の岳父をミセヤノ大夫行時として、『抄』はさらに行時が児玉党の武士にも娘を稼していたと含蓄深い示唆を与え段落を結んでいる。

 北条時政の郎党であった天野遠景を『愚管抄』は比企能員を刺し殺した者と叙べ、遠景の後裔を唱えた尾張藩士・天野信景が編んだ『浪合記』は有道経行の孫・行時の後裔として上野・多胡郡奥平郷の領主とともに徳川氏の遠祖が14世紀に足利勢に圧され信濃を経て三河へ転じた趣旨を説いており、源経国に娘を稼した有道経行の兄と伝える者の玄孫となる庄家長を『平家物語』は一ノ谷合戦にて東大寺の大仏に火を放った平重衡を捕縛したと叙べ、家長の甥と伝える義季は源経国が開いた河内荘を流れる小山川が利根川と合流する手前の畔となる武蔵・児玉郡牧西郷を治めたとされるが、義季が治めた児玉郡牧西郷から小山川を下って利根川を進むと源経国を扶育した源義国の子・新田義重が治めた上野・新田郡下にて利根川に臨む得川郷に至り、新田義重の子にも義季の名を伝える。

 徳川氏の源流はこの新田義季であるとするのが同氏の公式発表であったが、10世紀前葉に編まれたとされる『倭名類聚抄』は上野・新田郡得川郷の訓音を"えがわ"としており、しかしながら北条時政の邸址を伝える伊豆・韮山盆地にも江戸幕府の代官を務め佐久間象山に西洋流砲術を伝えたという江川英龍の邸址を見せる。

 『武蔵七党系図』児玉党条は源経国に娘を稼した有道経行の甥として武蔵・児玉郡真下郷を治めた基直なる名を伝え、この基直を写本に依っては基行とも記すものを見る点はこの真下基直or基行こそ『愚管抄』巻第六が示唆する有道経行の孫として上野・多胡郡片山郷を治めた行時が娘を稼した児玉党の武士と思われる。

 基直の甥と伝える家遠は基直が治めた真下郷に隣接する塩谷郷を治め、真下郷には『平治物語』が頼朝の父に仕えたとする渋谷金王丸の墓碑と伝える風化した石碑を見て、東京・渋谷の金王八幡宮にて境内の一角に祀られる金王丸を『吾妻鏡』が京に在る源義経への襲撃を命じられた土佐坊昌俊に比定する説をも見て、昌俊が下野に在る老母と幼児の行く末を案じたと『鏡』が叙べる処は有道経行の娘を迎えた源経国にやはり娘を稼した那須氏は平安初期に下野・那須郡の郡司を世襲した大領・丈部の後裔と伝え、有道氏もまた常陸・筑波郡の丈部であったと伝えて、那須郡に隣接して塩屋郡の号を見せ、渋谷金王丸に比定され『吾妻鏡』に現れる土佐坊昌俊はまた真下基直の甥・塩谷家遠であった可能性を感得する。

 有道経行の孫・行時の娘を迎えた真下基直は有道経行の甥に該る者と伝えるが、その諱から武蔵・児玉郡から上野に拡がった在地領主らの祖となる有道惟能の従兄として相模の大身・三浦氏の真実の祖と思われる有道定直の流れを汲む者が北関東の遠戚に猶子として送られた観を得て、この真下基直こそ北条時政の尊属に該る人物と推量され、時政が伊豆に在った由縁は上に述べた点から推測される。

 源義経の真実の父と思われ武蔵・児玉郡稲沢郷を治めた盛経の後裔を唱えた武家が紀伊・日高郡下で野長瀬荘を営んだ一族であり、『ウルトラセブン』を演出した野長瀬三摩地の生家でもあり、武蔵坊弁慶を日高郡の生まれとする伝承を見る。

 義経の郎党であった伊勢義盛の邸址と伝える地が有道経行の後裔らが拡がった上野・碓氷郡下の板鼻郷であり、『義経記』が伊勢義盛の父を"伊勢のかんらいの義連"と叙べる処は有道定直の流れを汲む鎌倉幕府創業の功臣・三浦義明の子として有道惟能の流れを汲む庄家長が平重衡を捕縛した一ノ谷合戦にて鵯越えを進言したともされる佐原義連が伊勢・度会郡に拠点を構えたことを示唆し、佐原義連の父である三浦義明が頼朝の父とともに伊勢神宮に寄進された相模・高座郡下の大庭御厨を掠略したことから、佐原義連は伊勢・度会郡に出先を設けていたものと推量される。

 上に述べた鈴木重家は平泉にて源義経に殉じている一方、主とともに九州へ向かった海上で難破して以往主と別れた伊勢義盛の子と思われる者が三河・額田郡下に在る古刹・滝山寺の伝えた『滝山寺縁起』に顕れる肥前々司・藤原俊経であり、この俊経の子となる俊継こそ伊勢氏の源流を辿って最古となる平俊継であると思われる。

 勤王党に与して足利勢に圧され14世紀に上野から奥平氏とともに信濃を経て三河へ転じたとする説を見せる徳川氏の遠祖はこの伊勢氏に縁の有る地を頼ったものと思われ、徳川氏の源流を辿って史料上瞭らかに実在性を確かめ得る松平信光は足利義政の下で室町幕府政所執事を務めた伊勢貞親の被官であったことが識られる。

 近年の学界では足利義政の申次衆を務めた伊勢盛定の子が北条早雲であったとするが、早雲の父・盛定が伊勢貞親の妹を室としていることから果たして盛定が伊勢氏を出自としたか疑問を感じる。

 有道惟能の流れを汲む庄家長は備中・小田郡下の草壁荘の地頭職を得てより管領・細川京兆家を守護とした備中守護代を任ずる迄後裔を長らえており、北条早雲の本貫とされる備中・後月郡下の荏原荘もまた庄氏の眷族が治めていたものと思われる。

 北条早雲は庄元資の配下であった渡辺なる武士から借りた金を返さず訴えられており、愈々北条早雲の真実の出自を示唆するものと思われる。

 有道氏が仕えた中関白・藤原道隆の子・隆家の後裔が頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼であり、尼の子である平頼盛は源実朝の右大臣拝賀式が鎌倉・鶴ヶ岡で挙行された折に子・光盛を伴って関東へ下向しており、この平光盛を相模・三浦郡芦名郷に迎えた者が伊勢義盛と兄弟の続柄に在った筈の佐原盛連と推測され、佐原盛連の子・新宮時連を史料に依っては横須賀時連とも記す処は時連が現在の米横須賀海軍基地の在る一帯を拠点としたものと推測させ、紀伊半島に本拠を構えた三浦氏の庶流たる新宮時連は三浦半島の相模湾側となる芦名郷に拠点を構える平光盛の眷族らとともに三浦氏惣領家の本領を挟み込む態勢を整え、宝治合戦にて遂に三浦泰村を滅ぼしており、『吾妻鏡』に見える安達義景とは実に三浦氏の庶流となる新宮時連であり、時連の父・盛連こそ伊豆に在った頃の頼朝の小姓を務めたという安達盛長であって、安達盛長こと佐原盛連は義経の郎党・伊勢義盛と兄弟の続柄に在った。

 有道氏が仕えた中関白家の血脈を女系から引いた平光盛の後裔が陸奥・会津郡に拠点を移した芦名氏であり、芦名氏の伝えた史料が新宮時連の子とする泰盛こそ『吾妻鏡』に見える安達泰盛である。

 五味文彦さんが『吾妻鏡』の編纂において中心的役割を果たしたと指摘する信濃守系・二階堂氏の祖となる行光の弟・行村の後裔となるのが建武政府に迎えられた旧幕臣となる二階堂貞藤であり、貞藤の出自となる隠岐守系・二階堂氏の祖となる行村は和田義盛と戦った北条義時の軍奉行を務め、義時が母方の従兄となる三浦義村の偏諱である義の字を帯びているように、二階堂行村の偏諱である村の字もまた三浦義村の偏諱を承けたものと思われ、鎌倉幕府の滅亡とは三浦氏の庶流であった佐原三浦氏の流れを汲む伊勢氏や二階堂氏の庶流が企画したものであったと推測され、そも北条氏や三浦氏を派した有道定直の後裔に対して定直の従弟であった有道惟能の後裔である小田原北条氏や徳川氏の遠祖らが企画したものが戦国時代の幕開けであった。

 北条早雲が生前自ら号した宗瑞の意味とは有道惟能の嫡流である自負を示している。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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