沖縄を襲おうとしている台風の影響か関東もまた急に涼しい風が吹き始めましたが、残暑を見込んで箱根・強羅での静養を図ろうと思った自分も少々予想に反して苦笑しています。
此処強羅から見上げる早雲山は峨々たる山嶺に囲まれた箱根の中央で天に向かって盛り上がるように聳えた山岳の北東に位置する早雲地獄と呼ばれ今も硫化水素を含んだ噴煙を吐き出す爆裂火口を馬蹄型に挟み込んだ山嶺ですが、強羅へ通ずる箱根登山鉄道の始点となる小田原を本拠とした戦国大名の始祖が今川氏の将であった処を伊豆に在った足利将軍家の肉親を襲撃し実力で伊豆を切り取った頃から称え始めた早雲庵宗瑞の雅号と法名の由縁をふと考えたくなりました。
芦ノ湖を水源として小田原市街の外れで相模湾に注ぐ早川に沿って御殿場市に脱ける乙女峠方面への途上で、早雲山と早川を挿んだ向かい側となる古道が越えた碓氷峠のことを考えると、北条早雲が子の氏綱に遺言して建てさせた早雲寺が江戸時代に箱根の関所と小田原城下との間であった東海道に沿って流れる須雲川と早川の合流地点となる箱根湯本に在ることなどから、伊豆を切り取った北条早雲が相模・足柄郡を制圧したならば駿河との国境となる山塊が天然の防御壁を成して野望を遂げる礎となることを思ったことでしょう。
北条早雲によって小田原城を奪い取られた大森藤頼との因縁を伝える神社が箱根から乙女峠を下った山麓となる御殿場市ニノ岡に見られ、大森藤頼が支配した足柄郡を奪い取ることは北条早雲の覇業にとって必至だったのです。
北条早雲によって小田原城を逐われた大森藤頼は藤原伊周の後裔と伝えますが、叔父である藤原道長が左大臣に就いた996年に大宰府に左遷された伊周の家令であった有道惟能(これよし)という吏僚は主家が九州へ左遷される2ヶ月前に職を辞し、武蔵・児玉郡の山間に在った官営牧場の監督官として関東に下っています。
この吏僚の後裔と伝える者が『平家物語』にて一ノ谷合戦で平重衡を捕縛したとする庄家長という武士で、家長は鎌倉幕府より備中に在った草壁荘の地頭職を与えられ、その後裔は室町時代に管領・細川氏を守護とした備中の守護代を任じています。
面白いことに北条早雲は管領・細川氏の配下であった庄元資の家中侍・渡辺帯刀丞から1481年に借りた金を返さないということで翌年に訴えられたことを伝えています。
北条早雲の母方祖父が足利義政の時代に室町幕府政所執事を任じた伊勢貞親の父・貞国であったことを伝え、学界で早雲の父と言われている伊勢新左衛門尉盛定が早雲を生んだ母と同じ伊勢氏を出自としたものか甚だ疑問に思うのです。
学界で早雲の父とされる者が新左衛門尉と称えたことは何を意味するのでしょうか、北条早雲の出自とは早雲に小田原城を逐われた大森藤頼の遠祖と伝える藤原伊周の家令を務めた吏僚の後裔ではなかったでしょうか。
藤原伊周の家令を務めた有道惟能の後裔との説を見る武将として織田信長の宿将・丹羽長秀が在り、丹羽氏は江戸時代に陸奥・二本松藩主として存続しましたが、徳川家康の確かな遠祖として史料に遺る松平信光は北条早雲の母方伯父となる伊勢貞親の被官であったことが識られており、家康の遠祖が本拠とした三河・賀茂郡と隣接する設楽郡に拠点を構えた奥平氏もまた有道惟能の後裔とされ、奥平氏は徳川氏の姻戚となって福沢諭吉の主家となっており、奥平信昌の子・忠明は家康の長女と婚じて後裔を松平姓とし、後裔を伊勢・四日市藩主としています。
1千年前を生きた有道惟能はまた当ブログ著者の遠祖でもあります。
此処強羅から見上げる早雲山は峨々たる山嶺に囲まれた箱根の中央で天に向かって盛り上がるように聳えた山岳の北東に位置する早雲地獄と呼ばれ今も硫化水素を含んだ噴煙を吐き出す爆裂火口を馬蹄型に挟み込んだ山嶺ですが、強羅へ通ずる箱根登山鉄道の始点となる小田原を本拠とした戦国大名の始祖が今川氏の将であった処を伊豆に在った足利将軍家の肉親を襲撃し実力で伊豆を切り取った頃から称え始めた早雲庵宗瑞の雅号と法名の由縁をふと考えたくなりました。
芦ノ湖を水源として小田原市街の外れで相模湾に注ぐ早川に沿って御殿場市に脱ける乙女峠方面への途上で、早雲山と早川を挿んだ向かい側となる古道が越えた碓氷峠のことを考えると、北条早雲が子の氏綱に遺言して建てさせた早雲寺が江戸時代に箱根の関所と小田原城下との間であった東海道に沿って流れる須雲川と早川の合流地点となる箱根湯本に在ることなどから、伊豆を切り取った北条早雲が相模・足柄郡を制圧したならば駿河との国境となる山塊が天然の防御壁を成して野望を遂げる礎となることを思ったことでしょう。
北条早雲によって小田原城を奪い取られた大森藤頼との因縁を伝える神社が箱根から乙女峠を下った山麓となる御殿場市ニノ岡に見られ、大森藤頼が支配した足柄郡を奪い取ることは北条早雲の覇業にとって必至だったのです。
北条早雲によって小田原城を逐われた大森藤頼は藤原伊周の後裔と伝えますが、叔父である藤原道長が左大臣に就いた996年に大宰府に左遷された伊周の家令であった有道惟能(これよし)という吏僚は主家が九州へ左遷される2ヶ月前に職を辞し、武蔵・児玉郡の山間に在った官営牧場の監督官として関東に下っています。
この吏僚の後裔と伝える者が『平家物語』にて一ノ谷合戦で平重衡を捕縛したとする庄家長という武士で、家長は鎌倉幕府より備中に在った草壁荘の地頭職を与えられ、その後裔は室町時代に管領・細川氏を守護とした備中の守護代を任じています。
面白いことに北条早雲は管領・細川氏の配下であった庄元資の家中侍・渡辺帯刀丞から1481年に借りた金を返さないということで翌年に訴えられたことを伝えています。
北条早雲の母方祖父が足利義政の時代に室町幕府政所執事を任じた伊勢貞親の父・貞国であったことを伝え、学界で早雲の父と言われている伊勢新左衛門尉盛定が早雲を生んだ母と同じ伊勢氏を出自としたものか甚だ疑問に思うのです。
学界で早雲の父とされる者が新左衛門尉と称えたことは何を意味するのでしょうか、北条早雲の出自とは早雲に小田原城を逐われた大森藤頼の遠祖と伝える藤原伊周の家令を務めた吏僚の後裔ではなかったでしょうか。
藤原伊周の家令を務めた有道惟能の後裔との説を見る武将として織田信長の宿将・丹羽長秀が在り、丹羽氏は江戸時代に陸奥・二本松藩主として存続しましたが、徳川家康の確かな遠祖として史料に遺る松平信光は北条早雲の母方伯父となる伊勢貞親の被官であったことが識られており、家康の遠祖が本拠とした三河・賀茂郡と隣接する設楽郡に拠点を構えた奥平氏もまた有道惟能の後裔とされ、奥平氏は徳川氏の姻戚となって福沢諭吉の主家となっており、奥平信昌の子・忠明は家康の長女と婚じて後裔を松平姓とし、後裔を伊勢・四日市藩主としています。
1千年前を生きた有道惟能はまた当ブログ著者の遠祖でもあります。