明智光秀と羽柴秀吉は秀の字を通じてますが、織田信長の父は信秀でした。

 信長の老臣であった丹羽長秀もまた秀の字を帯びて、信長に攻められた松永久秀も秀の字を帯びています。

 織田信長の母は土田(どた)御前と伝えますが、明智長山(おさやま)城主の配下として美濃・可児郡土田郷を本貫とした土田秀久の娘であったと言います。

 徳川秀忠の時代に権勢を揮った本多正純の父・正信や柳生宗厳らは松永久秀の配下に在ったと伝え、久秀はまた三好長慶の祐筆を務めていたと言います。

 丹羽長秀は尾張・春日井郡児玉郷に出生したと伝え、児玉党の武士であったとする説を看ます。

 江戸と仙台を結ぶ途次に在って、今の郡山市と福島市の間に在った二本松藩主の丹羽氏は良峯安世の後裔を唱えていました。

 良峯安世の名を識っている人はどれほど在りましょうか、摂関家の高祖と言える藤原冬嗣の母・百済永継は往古に難波へ注いだ大和川が生駒山地と金剛山地を縊る山門たる亀の瀬渓谷を前にした河内・安宿(あすかべ)郡に在地した飛鳥部奈止麻呂の娘と伝え、奈止麻呂は百済からの亡命遺民とされ、朝鮮語で安宿(あんすく)とする語は中国人の記録に見える安息、即ち紀元前3世紀にパルニ氏族を出自としたアルサケスが興したパルティア王朝を指すものと思われ、これが飛鳥の語源であると考えられます。

 河内には大和の語源となったと思われる山門を成す亀の瀬渓谷を前にした安宿郡の号や応神天皇陵と仁徳天皇陵との間に位置した丹比(たじひ)郡といった号が看られ、丹比郡の号もまた今のイラン・イラクを版図に収めたパルティア王朝に隣接して同じく紀元前3世紀にギリシア人のディオドトス1世が興したグレコ・バクトリア王朝の都が在ったタジキスタンに棲む部族を連想させます。

 そうした河内に在地した百済遺民の娘であった百済永継が藤原内麻呂との間に冬嗣を生す以前に桓武天皇の後宮で生した子が良峯安世であり、藤原冬嗣が初めて蔵人頭を任じた後、蔵人頭となった者が良峯安世でした。

 しかし、近世大名となった丹羽氏がそんな人物の後裔を唱えたのは何故でしょうか?

 桓武天皇は百済永継に生ませた良峯安世の他に多治比真宗という女に生ませた葛原親王という子が在りました。

 真宗の高祖父に該る多治比嶋は『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴族のモデルになった人物とされますが、嶋の弟であった多治比三宅麻呂は朝廷で銅貨を鋳造する責任者を務めており、三宅麻呂の名を刻んだ古碑が711年上野に新設された多胡郡に遺されています。

 三宅麻呂の名を刻んだ碑を遺す郡の号から多治比氏が胡族、胡椒を産する地の族であったことを推測させ、三宅麻呂の後裔は上野と武蔵の国界を成す利根川支流の神流川に臨む武蔵・加美郡下で丹荘を治め、製鉄を生業としていました。

 平将門の配下に在った多治経明はこの多治比氏の生まれと思われ、経明の後裔が秩父盆地を支配した秩父平氏であり、平姓を称えた所以も得心させます。

 多治比氏が治めた丹荘の在った加美郡と秩父郡との間となる児玉郡に下った有道惟能(これよし)という人物は藤原道長が左大臣に就いた996年大宰府へ左遷された道長の甥・伊周の家令を務めた吏僚であって、将門の従兄であった平公雅の娘を母とし、菅原道真の曾孫となる薫宣の娘を室としていました。

 有道惟能が武蔵・児玉郡に下った2年後となる998年、藤原行成の『権記』に初めて平公雅の子・致頼と伊勢国内の覇権を巡って熾烈な抗争を繰り展げた平維衡が現れています。

 996年武蔵・児玉郡に下った有道惟能の後裔を児玉党と呼びますが、丹羽長秀はこの児玉党の流れを汲む武将であったという説を看るのです。

 近江・蒲生郡に所領をもった佐々木秀義という武将は頼朝の父・源義朝に与し、秩父平氏の流れを汲むとして相模・高座郡に所領をもった渋谷重国の娘を室としていますが、秀義の子とする定綱・盛綱・高綱らは実に有道惟能の後裔となる者らであって、佐々木盛綱は北条義時の被官として『吾妻鏡』に現れる平盛綱と同じ人物です。

四方田氏系図 有道惟能の後裔ながら佐々木秀義の猶子となった定綱の所領であった武蔵・児玉郡四方田郷から女堀川を下って小山川と合流する牧西郷を所領とした定綱の従弟・義季は小山川を下って合流する利根川を進んだ先となる上野・新田郡得川郷を所領とし、新田義貞の遠祖となる源義重の猶子となったのですが、小山川を遡った児玉郡下の地に河内荘を開いた源経国は義重の父・義国の甥として義国を養父とし、有道惟能の孫となる経行の娘を側室に迎えていました。

 佐々木秀義の猶子となった定綱や盛綱らの伯父となる家長は『平家物語』にて一ノ谷合戦で平重衡を捕縛していますが、児玉郡から利根川を下った武蔵・幡羅郡中条保を所領とした中条家長と同一人物であり、家長の後裔は備中の草壁荘を拠点に展がっていった流れとともに、三河・賀茂郡下の高橋荘を拠点として織田信長に中条常隆が逐われるまで存続した流れが在り、得川義季の後裔となる有親が子・親氏とともに入った松平郷は中条氏が支配した地でした。

 有道惟能の後裔となる家長が領した中条保の在った同じ幡羅郡下で長井荘を治めた斉藤実盛は頼朝の庶兄である源義平に襲撃された源義賢の遺児・義仲を木曽谷に在った中原兼遠の許に送り届けていますが、『醫道系図』という有道氏の系譜を伝えた古書は有道氏と中原氏はヤマト王権の時代に岐れた門地としています。

 この斉藤実盛の後裔と唱えた者が春日局の父として明智光秀にとって股肱の臣であった斉藤利三であり、源義仲が頼朝と同じく以仁王の令旨に応えて決起した地である信濃・小県郡下の依田城を間近くした千曲川畔の海野郷を所領とした幸親は有道惟能の孫として源経国に娘を稼した経行の後裔で、海野幸親の子・幸長が『徒然草』226段にて『平家物語』の作者とされる信濃前司行長であり、源義仲の郎党・根井行親は海野幸親と同じ人物であって、木曽川を下った美濃・可児郡下の明智長山城主の配下に在った織田信長の母方祖父となる土田秀久は根井行親の後裔を唱えていました。

 中原兼遠の子として義仲の郎党であった樋口兼光の後裔が愛の兜で有名な直江兼続であり、斉藤利三を股肱の臣とした明智光秀は有道惟能の後裔として武蔵・児玉郡四方田郷を所領とした武家が749年に金が発見された陸奥・遠田郡に蟠踞した一族の生まれであり、光秀が信長に弑逆を果たした時、四方田氏は本能寺を囲んでいます。

 松永久秀の配下に在った柳生宗厳は播磨・佐用郡に本拠を構えた赤松氏の流れであり、北条義時の子・重時の被官であった赤松盛忠は相生の松で有名な高砂神社を間近くして播磨・印南郡下に小松原城を構えており、盛忠はまた有道経行の子・行重の後裔として上野・多胡郡奥平郷を所領とした武家から派した者でした。

 赤松氏が本拠とした播磨・佐用郡は千種鉄の産出で識られ、千種忠顕が仕えた後醍醐天皇が立て籠もった笠置山の麓に大和・添上郡柳生郷が在ります。

 柳生氏が遠祖とする菅原薫宣は有道惟能の岳父であり、柳生宗厳を配下とした松永久秀の出自を憶測させます。

 明智光秀が本能寺を囲んだ時、丹羽長秀は四国征討軍を大坂・住吉に駐留させたまま岸和田の地で遊興に耽じていたといい、徳川家康もまた堺で遊んでいたとされ、家康は本能寺の変の勃発後に態々京と近くなる大阪府交野市星田に在った平井清貞なる素封家の邸に立ち寄ったとされ、淀川畔での山崎合戦で死んだとされる明智光秀は交野市内で家康と合流したと思われ、百歳を越える長寿を誇った天海に転身し藤堂高虎とともに江戸城の設計に関わっていますが、信長の後継を決める清洲会議で柴田勝家に謀殺されそうになった羽柴秀吉を救ったという巷伝の在る丹羽長秀の子は藤堂高虎の猶子となり、伊賀盆地から奈良盆地に脱ける途上の伊賀・名張に陣屋を構えて幕末を迎えています。

 信長に仕える前の若き秀吉は遠江・引佐郡下の頭蛇寺城主であった松下之綱に仕えたという伝を看て、松下之綱の娘は斉藤利三の娘である春日局とともに徳川家光に仕えた柳生宗矩の室となっています。

 有道惟能の後裔となる得川義季のさらに後裔となる徳川氏祖は上野・多胡郡奥平郷の領主とともに信濃を経て三河へ転じたとする伝を看ますが、奥平信昌の子・忠明は家康の長女と婚じ、忠明の後裔は伊勢・四日市藩主として幕末を迎えていますが、幕末の大老・井伊直弼はこの四日市藩主の子が彦根藩主の嗣子となった人物でした。

 福沢諭吉の主家であった豊前・中津藩主奥平氏の遠祖となる有道経行の娘を側室とした源経国は平正盛の娘を母としましたが、武蔵・児玉郡下に河内荘を開いた後、晩年を洛北の鞍馬に隠棲しており、この経国の孫となる者こそ源義経であって、『義経記』にて鞍馬から義経を連れ出し藤原秀衡の許に送った四条の金売吉次とは有道経行の孫として上野・多胡郡片山郷を所領とした行時をモデルとし、『愚管抄』巻第六にて北条時政について叙べられた段落の末尾に"ミセヤノ大夫行時"として顕れ、片山行時は源頼家の嫡子・一幡を生んだ室の父である比企能員と児玉党の武士に娘を稼したと叙べられています。

 本能寺の変の後、山崎合戦で死んだ筈の明智光秀と徳川家康が合流した大阪府交野市は平将門を討った藤原秀郷の高祖父となる魚名の母・片野朝臣の出生地と思われ、交野市内に看る私鉄・私市駅の名称は江戸幕府の代官・伊奈忠次が流路の付け替えを遂げる前の利根川であった現在の中川が流れる武蔵・埼玉郡下に蟠踞した私市党と伝える領主らの一団を連想させ、同じく埼玉郡を流れる元荒川を遡った大里郡熊谷郷を所領とした熊谷直実を北条得宗被官であった南条時光が日蓮の門弟に建てさせた大石寺の伝える文書は北条時政と従兄弟の続柄に在ったとし、源義経の生母・常盤御前が晩年を過ごしたとする伝承を見せる多摩郡成木郷の領主もまた私市党に属する武家であったと伝えます。

 入間川の源流を近くし、秩父郡との境界をも間近くする多摩郡成木郷は多治経明の後裔となる秩父平氏や入間川の下る高麗郡に拡がった多治比氏、多摩川の上流域を支配した横山党などが蟠踞していましたが、入間川を境に高麗郡と隣接する入間郡には有道惟能の後裔が院政の時代に拡がっていました。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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