1467年に勃発した応仁の乱より長きに亘った戦国時代に初めて統一の曙光をもたらした織田信長や豊臣秀吉の偉業を継承して徳川家康の覇権が成ったとされるが、家康に至る三河・松平氏の系譜は少なくも織田弾正忠家に較べ古く在ったことは確かである。
応仁の乱の張本を室町幕府政所執事の伊勢貞親と指摘する向きが在り、その貞親の被官であった者が松平信光であった。
信光以往、三河・松平氏の系譜は瞭らかだが、信光ー親忠ー長親ー信忠ー清康ー広忠ー徳川家康と伝える系譜にて信光の子・孫は親の偏諱を帯びており、伝承では信光の祖父・父を親氏・泰親として信光の前後で親の偏諱を襲っている。
松平信光が仕えた伊勢貞親の母は室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏の下でやはり政所代を世襲した蜷川氏を出自とする親俊の娘と伝えるが、蜷川親俊の偏諱に看るように蜷川氏は累代親の偏諱を襲っている。
似たような様子を伝えるのは土佐の長宗我部氏で14世紀頃から親の偏諱を襲ったとし、家康の祖父である松平清康は西郷信貞の居城であった岡崎城を奪い取っている。
岡崎城主であった西郷信貞は14世紀の室町幕府で権勢を振るった仁木義長が三河守護を任じ、その守護代を務めた西郷氏の流れを汲むが、この西郷氏は仁木義長が九州に赴いた時に肥前に在地した領主として史上初の外寇である刀伊の入寇を退けた藤原隆家の後裔を唱えていた。
三河全域を制圧した松平清康は信長の父である織田信秀の付城を攻めたが、この清康は上野・新田郡得川郷領主の後裔を唱えた。
詰まり、三河・松平氏の始祖と伝える親氏の父を源義国の子として新田氏祖となる義重の子・義季より8世となる得川有親とした。
『尾張諸家系図』は得川有親の子を平手義英とし、その後裔が織田信長の傅役・平手政秀という。
『鑁阿寺新田足利両家系図』は足利尊氏の曾孫となる鎌倉公方・満兼から得川有親の父・親季は領地を安堵されたとし、為に得川有親は永享の乱にて足利満兼の子・持氏に与したとするから、得川有親は1438年に存命していたこととなる。
一方『鎌倉大草紙』は足利義満が南北朝の合体を斡旋する7年前の1385年に信濃・伊那郡浪合郷にて得川有親が戦没したとし、『鑁阿寺新田足利両家系図』とかなりの開きを示している。
さらに『称名寺略記』は得川有親が子の親氏とともに石川孫三郎なる者に導かれて三河・賀茂郡松平郷に到ったとする。
東海道を渡す矢作川を遡った三河・賀茂郡下のほぼ全域を蔽ったと思われる高橋荘の領主であった中条常隆が織田信長に逐われるまで、剣術の名家として識られた中条氏は承久の乱の後より4百年近く賀茂郡に在って、学校教科書に頻見される織田信長の肖像を伝えた長興寺もまた賀茂郡下に在るが、尾張守護に補任され三河・賀茂郡下の高橋荘地頭職を得た中条家長は武蔵・幡羅郡中条保の地頭であったという。
利根川に臨む幡羅郡下に領地を得ていた中条家長は小野姓を称え武蔵・多摩郡下の船木田新荘を支配していた領主を惣領とした横山党に属する領主と伝えるが、和田義盛との姻戚関係からともに北条義時によって滅ぼされた横山時兼の弟と伝える平子広長は富士の巻狩りで曽我祐成の太刀を浴び、広長の居館址とされるのが横浜市磯子区内の市立磯子小学校前に在る寺院だが、平子を"たいらく"と訓じたことから麓に中村川が流れる丘上の中区平楽が平子広長の邸が在った地と思われ、広長の子として石川二郎の通称を伝える者が在る点、JR根岸線が中村川と交差する石川町駅近辺を治めた者が在ったと思われ、徳川家康の祖父・松平清康が遠祖と唱えた有親の領地であったという上野・新田郡得川郷が臨む利根川を少し遡った武蔵・幡羅郡中条保の領主と同族とする平子広長の流れとなる者が『称名寺略記』にて得川有親・松平親氏父子を中条家長の後裔が治めた高橋荘の在った三河・賀茂郡に導いた石川孫三郎であったかも知れない。
武蔵・幡羅郡下にて利根川畔に在った長井荘を治めた斉藤実盛は芥川龍之介の『芋粥』に顕れる藤原利仁流を唱え、実盛は頼朝の異母兄である源義平に男衾郡下の大蔵邸を襲撃された源義賢の遺児・義仲を信濃・筑摩郡下に在った中原兼遠の許に送り届けたとされ、徳川家光の乳母を務めた春日局の父・斉藤利三はこの実盛の後裔と唱えていた。
春日局の父である斉藤利三の妹は蜷川親長に嫁ぎ、また利三の母は遠江・佐野郡石谷郷の領主に再稼しており、利三の母が石谷氏との間に生した娘は蜷川氏と同じく14世紀頃から親の偏諱を襲った土佐の武家である長宗我部元親に嫁いでいる。
遠江・佐野郡石谷郷に隣接する地は利三が遠祖と唱えた実盛がさらに遠祖とした藤原利仁と同じく藤原魚名の後裔となる実教を祖とした山科家を領家とし、その地を治めた西郷氏は利三の母が再稼した石谷氏と姻戚関係に在った。
斉藤利三の娘であった春日局が乳母を務めた徳川家光の父・秀忠は生母を西郷局と伝え、それが室町幕府で三河・守護代を務めた西郷氏と関係するか明らかにし得ないが、西郷氏が遠祖とした藤原隆家より6世となる池禅尼が頼朝の助命を平清盛に嘆願し、池禅尼の子・平頼盛の領地であった駿河郡下の大岡牧を治めた牧宗親は池禅尼の弟と思われ、北条時政晩年の愛妾であった牧の方は牧宗親の親族であった筈である。
藤原隆家の後裔となる池禅尼の子・平頼盛は源実朝の右大臣任官拝賀式が鎌倉・鶴ヶ岡で挙行されると、朝廷の名代として子・光盛とともに下向しており、この光盛は三浦義明の子・佐原義連の孫とされる芦名光盛と同一人と思われ、相模・三浦郡芦名郷を領地とした光盛の後裔とする芦名氏が在地した陸奥・会津郡から向かった関東と多賀城国府とを結ぶ陸路の途上を安達郡とし、中条家長の伯父・成綱は安達盛長とともに頼朝が伊豆で挙兵した時の側近であったと伝える。
安達盛長こと佐原盛連は芦名光盛の父とされ、源義経の郎党・伊勢義盛の父であった佐原義連の子であるが、佐原義連の孫・景義を陸奥・会津郡に隣接する河沼郡下に在った蜷川荘の地頭と伝える文書は『吾妻鏡』が安達盛長の孫とする義景に照応され、室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏や政所代を世襲した蜷川氏の素姓を示唆し、徳川家康の祖父・松平清康が西郷信貞から奪った岡崎城の在る三河・額田郡下の古刹が伝えた『滝山寺縁起』に顕れる藤原俊経は伊勢義盛の子と推測され、俊経の子が平俊継であり、俊継の孫が初めて室町幕府政所執事に就く伊勢貞継である。
安達盛長とともに頼朝が伊豆で挙兵した時の側近であった中条成綱の甥となる家長は伊豆に在った頼朝に仕送りを続けた寒河尼の兄である八田知家の猶子となっており、知家の父・宗綱は常陸・新治郡八田郷を拠点とし、宇都宮朝綱の父でもあった。
宇都宮朝綱・八田知家・寒河尼らの父・宗綱は本姓を中原と伝え、徳川家光の乳母を務めた春日局の父が遠祖とした斉藤実盛が源義仲を預けた中原兼遠と姓を等しくする。
常陸・新治郡の西涯となる鬼怒川畔に在った伊佐荘を拠点とした領主が伊達氏の源流を成し、伊佐朝政は寒河尼の前身となる近衛局の婿となり下野・都賀郡下の小山荘を治めた太田政光の子・小山朝政と諱を等しくして、北条義時の子・有時は母方祖父を伊佐朝政と伝え、有時は陸奥・伊達郡に隣接する伊具郡を領地とした。
一方、新治郡の東涯となる小貝川を下って筑波郡下で同川と岐れる糸繰川との間に堀籠神社と号する祠を看るが、『続日本後紀』が桓武天皇の子である葛原親王の家令を務め833年に有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道の出身地を筑波郡と記し、丈部氏道の玄孫となる有道惟広は藤原道長の長兄となる中関白・道隆の家令を務め、中関白・道隆の子が頼朝の助命を計った池禅尼より6世先となる藤原隆家であった。
藤原隆家が花山法皇に狼藉を働き、隆家の兄として中関白・道隆の嫡子であった藤原伊周が大宰府へ左遷された996年に伊周の叔父・道長は左大臣に就き、有道惟広が仕えた中関白・道隆の娘・定子を皇后とした一条天皇の生母として中関白の妹であり道長の姉であった東三条院こと詮子が一条帝に迫って道長を内覧に任じさせたと『愚管抄』は叙べ、『抄』が往時の朝廷は史上初となる女院号を与えられた詮子の指示の儘に動かされていたと叙べる時代に、この女院の判官所雑色であったと『続群書類従』北条系図に記される平直方は源義家の母方祖父と伝え、直方の玄孫を北条時政とし、平直方の偏諱と藤原道長に仕えた源頼光の郎党・碓井貞光の偏諱を併せると中関白・道隆に仕えた有道惟広の甥・定直の訓音を与え、有道定直の従弟となる惟能は藤原伊周が大宰府へ左遷される2ヶ月前に伊周の家令を辞して武蔵・児玉郡に下ったという。
藤原伊周の家令を辞した有道惟能が武蔵・児玉郡に下った996年の2年後、藤原行成の『権記』に初めて藤原道長に仕えた平維衡が現れ、平維衡の曾孫となる正盛が清盛の祖父となるが、武蔵・児玉郡に下った有道惟能の子・惟行は同郡下の祠に祀られるものの、摂関政治の時代を生きた筈の有道惟行の行跡を記した文献は絶無であり、にも拘わらず有道惟行の子・経行は源義経の孫として平正盛の娘を母とした経国が児玉郡下に河内荘を開くと娘を稼しており、新田・足利の祖となる源義国を養父とした経国の正室は後白河法皇の子・二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘であった。
源経国の子・盛経は児玉郡稲沢郷を領地とし、稲沢盛経の後裔を唱えた族が紀伊・日高郡下に隣接する西牟婁郡下の近露荘を治めた武家で、武蔵坊弁慶は日高郡に出生したとの伝承を見せ、ウルトラマン・ウルトラセブンの演出を務めた野長瀬三摩地を派した盛経こそ源義経の実父と思われ、晩年を洛北・鞍馬に隠棲した源経国の孫となる義経は頼朝の実弟ではなくして頼朝の曾祖父・義親の弟となる義忠の曾孫に該る者であった。
義経の郎党であった伊勢義盛の邸址は児玉郡が臨む神流川を越えた上野・碓氷郡板鼻郷に看られ、伊勢義盛の父である佐原義連のさらに父となる三浦義明は鎌倉幕府創業の功臣と謳われたが、三浦氏の真の祖となる平直方こと有道定直はまた源頼光に仕えた碓井貞光であって、しかも頼光の弟・頼信の孫となる源義家の母方祖父であった。
中関白家・嫡子に仕えた有道惟能の後裔が近畿に勢力を伸張させた伊勢平氏>平家に連なり、清和源氏に仕えた有道定直の後裔が南関東に勢力を伸張させた三浦氏や北条氏に連なった。
しかし、有道惟能の流れは北関東にも伸張し、惟能の孫となる経行が娘を稼した源経国が開いた河内荘を流れる小山川を下った平野部に展がった経行の兄・弘行の後裔らの惣領的立場に在った庄家長は『平家物語』にて伊勢義盛の父・佐原義連が源義経に鵯越えを進言した一ノ谷合戦で平重衡を捕縛し、小山川が合流する利根川を下った幡羅郡中条保の領主・家長を小野姓を称えた横山党に属する者としながら、同じ中条保にはまた有道惟能の後裔である児玉党に属する領主が在ったことを伝え、庄家長こそ中条家長であったことを示唆し、小山川が利根川と合流する手前で岐れた女堀川を遡る児玉郡四方田郷の領主と伝えた弘長の居館址を識らせず、しかしながら横山時兼の弟として頼朝に近侍した平子広長をまた弘長と記す古文献を看ることからも、『武蔵七党系図』児玉党条に看る庄家長が中条家長でもあるように、家長の弟とする四方田弘長もまた初めに現在の東京都八王子市太楽寺に拠点を構えた平子広長であったと思われ、八王子市街にはまた石川という地名を看ることから、後に平子広長が拠点とした武蔵・久良岐郡平楽郷の在る丘下を流れた川と交差する鉄道駅を石川駅とし、広長の子に石川二郎の通称を伝える者を看ることからも、四方田弘長の変身であった平子広長の子・石川二郎の後裔かも知れぬ石川孫三郎が『称名寺略記』に記されるように平子広長と同族であったと伝える中条家長こと四方田弘長の兄であった庄家長の後裔が治めた高橋荘の在った三河・賀茂郡に得川有親・松平親氏父子を連れだったのかも知れない。
有道経行が娘を稼した源経国が開いた河内荘を流れる小山川が利根川と合流する手前で児玉郡四方田郷へ遡る女堀川を分けた牧西郷を領地とした弘季の子を義季と伝え、源経国の叔父であり養父であった義国の子・義重が治めた上野・新田郡下の得川郷は児玉郡を流れる小山川が合流した利根川を少し下った畔に位置し、新田氏祖・義重の子と伝える得川郷の領主・義季は実に有道惟能の後裔となる義季であったかも知れない。
上に常陸・新治郡の東涯となる小貝川を下った筑波郡下で糸繰川と岐れる地に堀籠神社と号した祠を看ることを述べたが、上野・新田郡と隣接する下野・安蘇郡下に朱雀城を構えたと伝える堀籠有元は同郡天明郷に居住した卜部助光が制作した国・重文指定の梵鐘に名を遺し、有元は新田義貞の鎌倉攻めに加わり、義貞とともに後醍醐天皇の子・恒良親王を奉じて越前・敦賀の金ヶ崎城に籠城し足利一門・斯波高経の大軍に囲まれ戦没したとされるが、堀籠有元の遠祖を『尊卑分脈』に見える阿野全成の子・隆元とする説が在る。
『吾妻鏡』では時元となる阿野全成の子は北条時政の娘である阿波局を母とし、その妹は『愚管抄』が鳥羽法皇の寵臣であったと叙べる藤原家成の孫に該る公佐を婿とし、岳父である阿野全成が『吾妻鏡』曰く全成の甥となる源頼家の下命で八田知家によって斬殺された後、公佐は全成が領有していた駿河郡下の阿野荘を相続して公家の阿野家祖となり、この門流から堀籠有元らが奉じた後醍醐天皇の子・恒良親王を生んだ阿野廉子を派しており、上に述べた春日局と胤違いの妹となる長宗我部元親正室を生した斉藤利三・母の再稼先領主の遠江・佐野郡石谷郷と隣接する地を領有した山科家の祖となる実教の兄・成親が阿野家祖となる公佐の父であったが、成親や実教らの母方祖父となる藤原経忠は有道惟広が仕えた中関白・道隆の子であり、有道惟能が仕えた伊周の弟となる藤原隆家の曾孫となる者であった。
堀籠有元が殉じた恒良親王の母・阿野廉子は有元と祖を等しくし、有元の遠祖となる阿野全成はまた源義経と母を等しくするとされ、上に述べたように母を等しくする阿野全成・源義経らの実父は頼朝の父・義朝ではなく、頼朝の曾祖父・義親にとって弟となる義忠の孫・盛経であったと思われる。
堀籠有元が朱雀城を構えたと伝える下野・安蘇郡と隣接した上野・新田郡得川郷の領主・有親を徳川家康の祖父・松平清康は遠祖としたが、堀籠有元の遠祖となる隆元を生んだ阿波局を北条時政が生した女の父は虞らく北条義時とは胎違いの弟となる時房を生んだ女と等しく足立遠元の娘であったと思われ、平家に与した伊東祐親の外孫となる義時と異にして足立遠元の外孫となる時房は時の偏諱の位置を父・時政と等しくする点から時房こそ北条時政の家嫡であったと憶測され、為に北条義時は義の偏諱を通有する三浦義村の後援を得て父・時政を伊豆に追却し、既に八田知家が斬殺していた阿野全成の子・隆元をも被官・金窪行親に命じて抹殺したものと推測される。
そうした人物の後裔とする堀籠有元が鎌倉攻めに加わった動機も優に推測され、『吾妻鏡』が北条泰時の母を唯単に阿波局と名のみ記す点は非常に気にかかるが、足立遠元の子とする説を見る天野遠景は北条時政の配下であったと伝え、遠景の後裔を唱えた尾張藩士・天野信景が編纂した『浪合記』は上野に在った得川有親が14世紀に有道経行の後裔となる上野・多胡郡奥平郷の領主とともに四方を1,000m級の峨々たる山嶺に囲まれた信濃・伊那郡浪合郷に逃避したとし、そこから松平氏や奥平氏は三河山間部に転じたとして、斯地には遠江・引佐郡井伊ノ谷郷の領主が庇護した後醍醐帝の孫とする尹良親王の墓所を宮内庁が管理している。
北畠親房が陸奥に導いたという後醍醐帝の子・義良親王は阿野廉子を母とし、義良親王を迎えた伊達行朝は伊達郡と相馬郡の境となる霊山に立て籠ったが、義良親王は後に後村上天皇として即位している。
伊達行朝の遠祖は常陸・新治郡の西涯となる鬼怒川畔で伊佐荘を治めていたが、北条義時に娘を稼した伊佐朝政の諱は近接する下野・都賀郡下で小山荘を治めた小山朝政の諱と等しく、八田宗綱の娘として晩年を寒河尼とした近衛局の婿となって武蔵から下野・都賀郡に入った太田政光の子が小山朝政とされ、斉藤実盛が治めた幡羅郡下の長井荘と隣接して利根川畔となる太田郷の領主は小野姓を称えた猪俣党に属すると伝えながら、利根川の支流・小山川が北へ女堀川と岐れる地を極間近くして南へ岐れる志戸川を遡った那珂郡猪俣郷の領主を惣領とした猪俣党は多摩郡下の船木田新荘の領主を惣領とした横山党から岐れた一族とされ、小山朝政の父・太田政光を『尊卑分脈』は行政の子・行高の孫とし、小山朝政の弟・結城朝光と諱を等しくする伊賀朝光を二階堂行政の子とする説を見せ、『分脈』が太田政光の祖父とする行高の名は有道経行の子・行高が武蔵・児玉郡と隣接する上野・甘楽郡小幡郷を領地としたことを想起させる。
有道経行の娘を迎えた源経国が武蔵・児玉郡に開いた河内荘を小山川が流れ、小山川は利根川と合流し、幡羅郡や新田郡の境界を下り、小山荘が在った下野・都賀郡を間近くする現在の中川を往時の流路とした。
伊達氏の遠祖と同じく常陸・新治郡下の八田郷を領地とした宗綱が中原姓を伝えるように、斉藤実盛が源義仲を預けた先もまた中原兼遠であって、中原兼遠の子として義仲の郎党であった樋口兼光の後裔を唱えた者が長尾景虎の配下として愛の兜で有名になった直江兼続であり、義仲の郎党であった根井行親の諱は北条義時が堀籠有元の遠祖を抹殺した金窪行親の諱と等しく、有道惟能の後裔が展がった武蔵・児玉郡に隣接する加美郡下には堀込郷に隣接して金窪郷を見て、有道経行の後裔が展がった上野南西部に隣接する信濃・佐久郡を流れる千曲川に沿って下った隣となる小県郡海野郷を本拠とした幸親の子・幸長を『徒然草』226段が『平家物語』の作者とする信濃前司行長に比定する学者が在り、また海野幸親の本拠を間近くした依田実信の居城で義仲が平家打倒に挙兵したことから、義仲の郎党・根井行親を海野幸親と同一視する史家が在り、この根井行親の後裔を唱えた土田秀久は美濃・可児郡下の明智長山城主の配下であったが、秀久の娘が織田信長の生母であり、本能寺を囲んだ明智光秀の陣中に四方田姓の士を見る点、上に述べた庄家長や四方田弘長らの弟とする弘綱の子を盛綱と伝え、この盛綱が北条義時被官の頭を任じた平三郎兵衛尉盛綱であったならば、豊臣秀吉の時代まで陸奥を流れる北上川支流の江合川流域一帯で威勢を振るった四方田氏を出自とする者こそ斉藤利三との姻戚関係を伝える明智光秀であったかも知れず、家康帷幕の僧侶であった天海が百歳を越える寿命を伝えた怪もまた氷解し、川越・喜多院の住持に成り済ました明智光秀は天海として武蔵・児玉郡下に展がった有道惟能の後裔らが崇敬した金鑚神社別当寺である普照寺の住持に補された経緯も得心し、四方田氏は川越藩士となっており、7代将軍の夭折で紀伊藩主を江戸城に迎えた際、6代将軍正室であった近衛煕子の主張が効いたとする伝承を見せ、近衛煕子の陪臣に児玉姓を称えた川越藩士が在った。
応仁の乱の張本を室町幕府政所執事の伊勢貞親と指摘する向きが在り、その貞親の被官であった者が松平信光であった。
信光以往、三河・松平氏の系譜は瞭らかだが、信光ー親忠ー長親ー信忠ー清康ー広忠ー徳川家康と伝える系譜にて信光の子・孫は親の偏諱を帯びており、伝承では信光の祖父・父を親氏・泰親として信光の前後で親の偏諱を襲っている。
松平信光が仕えた伊勢貞親の母は室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏の下でやはり政所代を世襲した蜷川氏を出自とする親俊の娘と伝えるが、蜷川親俊の偏諱に看るように蜷川氏は累代親の偏諱を襲っている。
似たような様子を伝えるのは土佐の長宗我部氏で14世紀頃から親の偏諱を襲ったとし、家康の祖父である松平清康は西郷信貞の居城であった岡崎城を奪い取っている。
岡崎城主であった西郷信貞は14世紀の室町幕府で権勢を振るった仁木義長が三河守護を任じ、その守護代を務めた西郷氏の流れを汲むが、この西郷氏は仁木義長が九州に赴いた時に肥前に在地した領主として史上初の外寇である刀伊の入寇を退けた藤原隆家の後裔を唱えていた。
三河全域を制圧した松平清康は信長の父である織田信秀の付城を攻めたが、この清康は上野・新田郡得川郷領主の後裔を唱えた。
詰まり、三河・松平氏の始祖と伝える親氏の父を源義国の子として新田氏祖となる義重の子・義季より8世となる得川有親とした。
『尾張諸家系図』は得川有親の子を平手義英とし、その後裔が織田信長の傅役・平手政秀という。
『鑁阿寺新田足利両家系図』は足利尊氏の曾孫となる鎌倉公方・満兼から得川有親の父・親季は領地を安堵されたとし、為に得川有親は永享の乱にて足利満兼の子・持氏に与したとするから、得川有親は1438年に存命していたこととなる。
一方『鎌倉大草紙』は足利義満が南北朝の合体を斡旋する7年前の1385年に信濃・伊那郡浪合郷にて得川有親が戦没したとし、『鑁阿寺新田足利両家系図』とかなりの開きを示している。
さらに『称名寺略記』は得川有親が子の親氏とともに石川孫三郎なる者に導かれて三河・賀茂郡松平郷に到ったとする。
東海道を渡す矢作川を遡った三河・賀茂郡下のほぼ全域を蔽ったと思われる高橋荘の領主であった中条常隆が織田信長に逐われるまで、剣術の名家として識られた中条氏は承久の乱の後より4百年近く賀茂郡に在って、学校教科書に頻見される織田信長の肖像を伝えた長興寺もまた賀茂郡下に在るが、尾張守護に補任され三河・賀茂郡下の高橋荘地頭職を得た中条家長は武蔵・幡羅郡中条保の地頭であったという。
利根川に臨む幡羅郡下に領地を得ていた中条家長は小野姓を称え武蔵・多摩郡下の船木田新荘を支配していた領主を惣領とした横山党に属する領主と伝えるが、和田義盛との姻戚関係からともに北条義時によって滅ぼされた横山時兼の弟と伝える平子広長は富士の巻狩りで曽我祐成の太刀を浴び、広長の居館址とされるのが横浜市磯子区内の市立磯子小学校前に在る寺院だが、平子を"たいらく"と訓じたことから麓に中村川が流れる丘上の中区平楽が平子広長の邸が在った地と思われ、広長の子として石川二郎の通称を伝える者が在る点、JR根岸線が中村川と交差する石川町駅近辺を治めた者が在ったと思われ、徳川家康の祖父・松平清康が遠祖と唱えた有親の領地であったという上野・新田郡得川郷が臨む利根川を少し遡った武蔵・幡羅郡中条保の領主と同族とする平子広長の流れとなる者が『称名寺略記』にて得川有親・松平親氏父子を中条家長の後裔が治めた高橋荘の在った三河・賀茂郡に導いた石川孫三郎であったかも知れない。
武蔵・幡羅郡下にて利根川畔に在った長井荘を治めた斉藤実盛は芥川龍之介の『芋粥』に顕れる藤原利仁流を唱え、実盛は頼朝の異母兄である源義平に男衾郡下の大蔵邸を襲撃された源義賢の遺児・義仲を信濃・筑摩郡下に在った中原兼遠の許に送り届けたとされ、徳川家光の乳母を務めた春日局の父・斉藤利三はこの実盛の後裔と唱えていた。
春日局の父である斉藤利三の妹は蜷川親長に嫁ぎ、また利三の母は遠江・佐野郡石谷郷の領主に再稼しており、利三の母が石谷氏との間に生した娘は蜷川氏と同じく14世紀頃から親の偏諱を襲った土佐の武家である長宗我部元親に嫁いでいる。
遠江・佐野郡石谷郷に隣接する地は利三が遠祖と唱えた実盛がさらに遠祖とした藤原利仁と同じく藤原魚名の後裔となる実教を祖とした山科家を領家とし、その地を治めた西郷氏は利三の母が再稼した石谷氏と姻戚関係に在った。
斉藤利三の娘であった春日局が乳母を務めた徳川家光の父・秀忠は生母を西郷局と伝え、それが室町幕府で三河・守護代を務めた西郷氏と関係するか明らかにし得ないが、西郷氏が遠祖とした藤原隆家より6世となる池禅尼が頼朝の助命を平清盛に嘆願し、池禅尼の子・平頼盛の領地であった駿河郡下の大岡牧を治めた牧宗親は池禅尼の弟と思われ、北条時政晩年の愛妾であった牧の方は牧宗親の親族であった筈である。
藤原隆家の後裔となる池禅尼の子・平頼盛は源実朝の右大臣任官拝賀式が鎌倉・鶴ヶ岡で挙行されると、朝廷の名代として子・光盛とともに下向しており、この光盛は三浦義明の子・佐原義連の孫とされる芦名光盛と同一人と思われ、相模・三浦郡芦名郷を領地とした光盛の後裔とする芦名氏が在地した陸奥・会津郡から向かった関東と多賀城国府とを結ぶ陸路の途上を安達郡とし、中条家長の伯父・成綱は安達盛長とともに頼朝が伊豆で挙兵した時の側近であったと伝える。
安達盛長こと佐原盛連は芦名光盛の父とされ、源義経の郎党・伊勢義盛の父であった佐原義連の子であるが、佐原義連の孫・景義を陸奥・会津郡に隣接する河沼郡下に在った蜷川荘の地頭と伝える文書は『吾妻鏡』が安達盛長の孫とする義景に照応され、室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏や政所代を世襲した蜷川氏の素姓を示唆し、徳川家康の祖父・松平清康が西郷信貞から奪った岡崎城の在る三河・額田郡下の古刹が伝えた『滝山寺縁起』に顕れる藤原俊経は伊勢義盛の子と推測され、俊経の子が平俊継であり、俊継の孫が初めて室町幕府政所執事に就く伊勢貞継である。
安達盛長とともに頼朝が伊豆で挙兵した時の側近であった中条成綱の甥となる家長は伊豆に在った頼朝に仕送りを続けた寒河尼の兄である八田知家の猶子となっており、知家の父・宗綱は常陸・新治郡八田郷を拠点とし、宇都宮朝綱の父でもあった。
宇都宮朝綱・八田知家・寒河尼らの父・宗綱は本姓を中原と伝え、徳川家光の乳母を務めた春日局の父が遠祖とした斉藤実盛が源義仲を預けた中原兼遠と姓を等しくする。
常陸・新治郡の西涯となる鬼怒川畔に在った伊佐荘を拠点とした領主が伊達氏の源流を成し、伊佐朝政は寒河尼の前身となる近衛局の婿となり下野・都賀郡下の小山荘を治めた太田政光の子・小山朝政と諱を等しくして、北条義時の子・有時は母方祖父を伊佐朝政と伝え、有時は陸奥・伊達郡に隣接する伊具郡を領地とした。
一方、新治郡の東涯となる小貝川を下って筑波郡下で同川と岐れる糸繰川との間に堀籠神社と号する祠を看るが、『続日本後紀』が桓武天皇の子である葛原親王の家令を務め833年に有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道の出身地を筑波郡と記し、丈部氏道の玄孫となる有道惟広は藤原道長の長兄となる中関白・道隆の家令を務め、中関白・道隆の子が頼朝の助命を計った池禅尼より6世先となる藤原隆家であった。
藤原隆家が花山法皇に狼藉を働き、隆家の兄として中関白・道隆の嫡子であった藤原伊周が大宰府へ左遷された996年に伊周の叔父・道長は左大臣に就き、有道惟広が仕えた中関白・道隆の娘・定子を皇后とした一条天皇の生母として中関白の妹であり道長の姉であった東三条院こと詮子が一条帝に迫って道長を内覧に任じさせたと『愚管抄』は叙べ、『抄』が往時の朝廷は史上初となる女院号を与えられた詮子の指示の儘に動かされていたと叙べる時代に、この女院の判官所雑色であったと『続群書類従』北条系図に記される平直方は源義家の母方祖父と伝え、直方の玄孫を北条時政とし、平直方の偏諱と藤原道長に仕えた源頼光の郎党・碓井貞光の偏諱を併せると中関白・道隆に仕えた有道惟広の甥・定直の訓音を与え、有道定直の従弟となる惟能は藤原伊周が大宰府へ左遷される2ヶ月前に伊周の家令を辞して武蔵・児玉郡に下ったという。
藤原伊周の家令を辞した有道惟能が武蔵・児玉郡に下った996年の2年後、藤原行成の『権記』に初めて藤原道長に仕えた平維衡が現れ、平維衡の曾孫となる正盛が清盛の祖父となるが、武蔵・児玉郡に下った有道惟能の子・惟行は同郡下の祠に祀られるものの、摂関政治の時代を生きた筈の有道惟行の行跡を記した文献は絶無であり、にも拘わらず有道惟行の子・経行は源義経の孫として平正盛の娘を母とした経国が児玉郡下に河内荘を開くと娘を稼しており、新田・足利の祖となる源義国を養父とした経国の正室は後白河法皇の子・二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘であった。
源経国の子・盛経は児玉郡稲沢郷を領地とし、稲沢盛経の後裔を唱えた族が紀伊・日高郡下に隣接する西牟婁郡下の近露荘を治めた武家で、武蔵坊弁慶は日高郡に出生したとの伝承を見せ、ウルトラマン・ウルトラセブンの演出を務めた野長瀬三摩地を派した盛経こそ源義経の実父と思われ、晩年を洛北・鞍馬に隠棲した源経国の孫となる義経は頼朝の実弟ではなくして頼朝の曾祖父・義親の弟となる義忠の曾孫に該る者であった。
義経の郎党であった伊勢義盛の邸址は児玉郡が臨む神流川を越えた上野・碓氷郡板鼻郷に看られ、伊勢義盛の父である佐原義連のさらに父となる三浦義明は鎌倉幕府創業の功臣と謳われたが、三浦氏の真の祖となる平直方こと有道定直はまた源頼光に仕えた碓井貞光であって、しかも頼光の弟・頼信の孫となる源義家の母方祖父であった。
中関白家・嫡子に仕えた有道惟能の後裔が近畿に勢力を伸張させた伊勢平氏>平家に連なり、清和源氏に仕えた有道定直の後裔が南関東に勢力を伸張させた三浦氏や北条氏に連なった。
しかし、有道惟能の流れは北関東にも伸張し、惟能の孫となる経行が娘を稼した源経国が開いた河内荘を流れる小山川を下った平野部に展がった経行の兄・弘行の後裔らの惣領的立場に在った庄家長は『平家物語』にて伊勢義盛の父・佐原義連が源義経に鵯越えを進言した一ノ谷合戦で平重衡を捕縛し、小山川が合流する利根川を下った幡羅郡中条保の領主・家長を小野姓を称えた横山党に属する者としながら、同じ中条保にはまた有道惟能の後裔である児玉党に属する領主が在ったことを伝え、庄家長こそ中条家長であったことを示唆し、小山川が利根川と合流する手前で岐れた女堀川を遡る児玉郡四方田郷の領主と伝えた弘長の居館址を識らせず、しかしながら横山時兼の弟として頼朝に近侍した平子広長をまた弘長と記す古文献を看ることからも、『武蔵七党系図』児玉党条に看る庄家長が中条家長でもあるように、家長の弟とする四方田弘長もまた初めに現在の東京都八王子市太楽寺に拠点を構えた平子広長であったと思われ、八王子市街にはまた石川という地名を看ることから、後に平子広長が拠点とした武蔵・久良岐郡平楽郷の在る丘下を流れた川と交差する鉄道駅を石川駅とし、広長の子に石川二郎の通称を伝える者を看ることからも、四方田弘長の変身であった平子広長の子・石川二郎の後裔かも知れぬ石川孫三郎が『称名寺略記』に記されるように平子広長と同族であったと伝える中条家長こと四方田弘長の兄であった庄家長の後裔が治めた高橋荘の在った三河・賀茂郡に得川有親・松平親氏父子を連れだったのかも知れない。
有道経行が娘を稼した源経国が開いた河内荘を流れる小山川が利根川と合流する手前で児玉郡四方田郷へ遡る女堀川を分けた牧西郷を領地とした弘季の子を義季と伝え、源経国の叔父であり養父であった義国の子・義重が治めた上野・新田郡下の得川郷は児玉郡を流れる小山川が合流した利根川を少し下った畔に位置し、新田氏祖・義重の子と伝える得川郷の領主・義季は実に有道惟能の後裔となる義季であったかも知れない。
上に常陸・新治郡の東涯となる小貝川を下った筑波郡下で糸繰川と岐れる地に堀籠神社と号した祠を看ることを述べたが、上野・新田郡と隣接する下野・安蘇郡下に朱雀城を構えたと伝える堀籠有元は同郡天明郷に居住した卜部助光が制作した国・重文指定の梵鐘に名を遺し、有元は新田義貞の鎌倉攻めに加わり、義貞とともに後醍醐天皇の子・恒良親王を奉じて越前・敦賀の金ヶ崎城に籠城し足利一門・斯波高経の大軍に囲まれ戦没したとされるが、堀籠有元の遠祖を『尊卑分脈』に見える阿野全成の子・隆元とする説が在る。
『吾妻鏡』では時元となる阿野全成の子は北条時政の娘である阿波局を母とし、その妹は『愚管抄』が鳥羽法皇の寵臣であったと叙べる藤原家成の孫に該る公佐を婿とし、岳父である阿野全成が『吾妻鏡』曰く全成の甥となる源頼家の下命で八田知家によって斬殺された後、公佐は全成が領有していた駿河郡下の阿野荘を相続して公家の阿野家祖となり、この門流から堀籠有元らが奉じた後醍醐天皇の子・恒良親王を生んだ阿野廉子を派しており、上に述べた春日局と胤違いの妹となる長宗我部元親正室を生した斉藤利三・母の再稼先領主の遠江・佐野郡石谷郷と隣接する地を領有した山科家の祖となる実教の兄・成親が阿野家祖となる公佐の父であったが、成親や実教らの母方祖父となる藤原経忠は有道惟広が仕えた中関白・道隆の子であり、有道惟能が仕えた伊周の弟となる藤原隆家の曾孫となる者であった。
堀籠有元が殉じた恒良親王の母・阿野廉子は有元と祖を等しくし、有元の遠祖となる阿野全成はまた源義経と母を等しくするとされ、上に述べたように母を等しくする阿野全成・源義経らの実父は頼朝の父・義朝ではなく、頼朝の曾祖父・義親にとって弟となる義忠の孫・盛経であったと思われる。
堀籠有元が朱雀城を構えたと伝える下野・安蘇郡と隣接した上野・新田郡得川郷の領主・有親を徳川家康の祖父・松平清康は遠祖としたが、堀籠有元の遠祖となる隆元を生んだ阿波局を北条時政が生した女の父は虞らく北条義時とは胎違いの弟となる時房を生んだ女と等しく足立遠元の娘であったと思われ、平家に与した伊東祐親の外孫となる義時と異にして足立遠元の外孫となる時房は時の偏諱の位置を父・時政と等しくする点から時房こそ北条時政の家嫡であったと憶測され、為に北条義時は義の偏諱を通有する三浦義村の後援を得て父・時政を伊豆に追却し、既に八田知家が斬殺していた阿野全成の子・隆元をも被官・金窪行親に命じて抹殺したものと推測される。
そうした人物の後裔とする堀籠有元が鎌倉攻めに加わった動機も優に推測され、『吾妻鏡』が北条泰時の母を唯単に阿波局と名のみ記す点は非常に気にかかるが、足立遠元の子とする説を見る天野遠景は北条時政の配下であったと伝え、遠景の後裔を唱えた尾張藩士・天野信景が編纂した『浪合記』は上野に在った得川有親が14世紀に有道経行の後裔となる上野・多胡郡奥平郷の領主とともに四方を1,000m級の峨々たる山嶺に囲まれた信濃・伊那郡浪合郷に逃避したとし、そこから松平氏や奥平氏は三河山間部に転じたとして、斯地には遠江・引佐郡井伊ノ谷郷の領主が庇護した後醍醐帝の孫とする尹良親王の墓所を宮内庁が管理している。
北畠親房が陸奥に導いたという後醍醐帝の子・義良親王は阿野廉子を母とし、義良親王を迎えた伊達行朝は伊達郡と相馬郡の境となる霊山に立て籠ったが、義良親王は後に後村上天皇として即位している。
伊達行朝の遠祖は常陸・新治郡の西涯となる鬼怒川畔で伊佐荘を治めていたが、北条義時に娘を稼した伊佐朝政の諱は近接する下野・都賀郡下で小山荘を治めた小山朝政の諱と等しく、八田宗綱の娘として晩年を寒河尼とした近衛局の婿となって武蔵から下野・都賀郡に入った太田政光の子が小山朝政とされ、斉藤実盛が治めた幡羅郡下の長井荘と隣接して利根川畔となる太田郷の領主は小野姓を称えた猪俣党に属すると伝えながら、利根川の支流・小山川が北へ女堀川と岐れる地を極間近くして南へ岐れる志戸川を遡った那珂郡猪俣郷の領主を惣領とした猪俣党は多摩郡下の船木田新荘の領主を惣領とした横山党から岐れた一族とされ、小山朝政の父・太田政光を『尊卑分脈』は行政の子・行高の孫とし、小山朝政の弟・結城朝光と諱を等しくする伊賀朝光を二階堂行政の子とする説を見せ、『分脈』が太田政光の祖父とする行高の名は有道経行の子・行高が武蔵・児玉郡と隣接する上野・甘楽郡小幡郷を領地としたことを想起させる。
有道経行の娘を迎えた源経国が武蔵・児玉郡に開いた河内荘を小山川が流れ、小山川は利根川と合流し、幡羅郡や新田郡の境界を下り、小山荘が在った下野・都賀郡を間近くする現在の中川を往時の流路とした。
伊達氏の遠祖と同じく常陸・新治郡下の八田郷を領地とした宗綱が中原姓を伝えるように、斉藤実盛が源義仲を預けた先もまた中原兼遠であって、中原兼遠の子として義仲の郎党であった樋口兼光の後裔を唱えた者が長尾景虎の配下として愛の兜で有名になった直江兼続であり、義仲の郎党であった根井行親の諱は北条義時が堀籠有元の遠祖を抹殺した金窪行親の諱と等しく、有道惟能の後裔が展がった武蔵・児玉郡に隣接する加美郡下には堀込郷に隣接して金窪郷を見て、有道経行の後裔が展がった上野南西部に隣接する信濃・佐久郡を流れる千曲川に沿って下った隣となる小県郡海野郷を本拠とした幸親の子・幸長を『徒然草』226段が『平家物語』の作者とする信濃前司行長に比定する学者が在り、また海野幸親の本拠を間近くした依田実信の居城で義仲が平家打倒に挙兵したことから、義仲の郎党・根井行親を海野幸親と同一視する史家が在り、この根井行親の後裔を唱えた土田秀久は美濃・可児郡下の明智長山城主の配下であったが、秀久の娘が織田信長の生母であり、本能寺を囲んだ明智光秀の陣中に四方田姓の士を見る点、上に述べた庄家長や四方田弘長らの弟とする弘綱の子を盛綱と伝え、この盛綱が北条義時被官の頭を任じた平三郎兵衛尉盛綱であったならば、豊臣秀吉の時代まで陸奥を流れる北上川支流の江合川流域一帯で威勢を振るった四方田氏を出自とする者こそ斉藤利三との姻戚関係を伝える明智光秀であったかも知れず、家康帷幕の僧侶であった天海が百歳を越える寿命を伝えた怪もまた氷解し、川越・喜多院の住持に成り済ました明智光秀は天海として武蔵・児玉郡下に展がった有道惟能の後裔らが崇敬した金鑚神社別当寺である普照寺の住持に補された経緯も得心し、四方田氏は川越藩士となっており、7代将軍の夭折で紀伊藩主を江戸城に迎えた際、6代将軍正室であった近衛煕子の主張が効いたとする伝承を見せ、近衛煕子の陪臣に児玉姓を称えた川越藩士が在った。