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  •  梅雨明けのような今日の快晴に著者が投宿するのは北条義時と和田義盛の軍勢が激突した古戦場であり、由比ヶ浜海水浴場を間近くした閑静な住宅街に在る「かいひん荘鎌倉」です。

     江ノ島電鉄・由比ヶ浜駅の改札を出たら、東西に延びる市道を僅か許り東へ向かうと由比ヶ浜海岸に向かう路と交差し、交差点からも僅かな距離のかいひん荘鎌倉は真夏を過ごすには大戦前のブルジョワ家庭の雰囲気を醸し快適な宿となりましょう。

    かいひん荘鎌倉 地図 江ノ電・由比ヶ浜駅前を東西に延びる市道を踏切を渡り西へ向かうと、長谷方面へ向かう県道311号と交差する直前の路傍に「染屋時忠邸址」と標す石碑が立ち、奈良時代を鎌倉の地に生きた時忠の素姓は興味深く、『古事記』に顕れる日本最古の社となる大和・磯城郡の三輪山を神体とした大神(おおみわ)神社を前に纏向遺跡を発掘させた地を治めた樫石スクネ(少ない→臣下の意)の弟と『醫道系図』に記される船瀬スクネは常陸・久慈郡を治め、その子孫が江戸時代に設けられた霞ヶ浦と利根川との間に位置する稲敷郡から常陸・下総国界を成した小貝川を遡って筑波山北麓に位置する真壁郡へと進出したことを伝え、真壁郡に南接する筑波郡下で小貝川から岐れた糸繰川の源流を成す大宝沼の畔に鎮座する大宝八幡宮は藤原不比等を総裁として編纂された大宝律令の発布された時代に藤原時忠なる者が創建したとし、無論、日本最大の名族・藤原氏の高祖となる不比等の生きた時代に藤原姓にして時忠なる者は存し得なかった訳で、そんな藤原時忠と同じ諱を伝える奈良時代を鎌倉で生きた富貴人の染屋時忠なる者は筑波郡下の大宝沼から発する糸繰川が小貝川と合流する辺りに在った筈の船瀬スクネの後裔となる丈部(はせつかべ;馳せ遣う部民の意)氏道が平安京を建設した桓武天皇の子・葛原親王の家司を務めたことを考えると、常陸・丈部との眷属関係を憶測させ、江ノ電・由比ヶ浜駅前を東西に延びる市道が長谷方面へ延びる県道311号と交差した地点より北に葛原ヶ岡とする地名を見る処からも、『醫道系図』にて丈部氏道の祖父にとって従弟となる羊なる者を上野に711年新設された多胡郡に建立された古碑に新郡の経営を委ねられたと記される羊とするならば、708年に武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅を発見した者を丈部氏道と眷属関係に在った羊であったと憶測し、『醫道系図』が羊の子を山人、孫を継主として、継主を大部の祖と伝えることから、749年に完成した東大寺大仏の鍍金に素材を供した陸奥・小田郡涌谷郷での金の発見を成した丈部大麻呂とは葛原親王の家司を務めた丈部氏道と眷属関係に在った者かも知れず、奈良時代に鎌倉の地で生きた富貴人もまた常陸・丈部と関係が有ったかも知れない。

     『尊卑分脈』が平高望の祖父とする葛原親王の家司を務めた丈部氏道の玄孫となる有道惟広は藤原道長の長兄として一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の家司を務め、惟広の子・有道惟能もまた中関白・道隆の嫡子・伊周の家司を務め、この惟能の従兄に該る有道定直こそ源頼光の郎党であった碓井貞光であったかも知れず、また有道定直は『続群書類従』が中関白・道隆の妹であり藤原道長の姉として一条天皇の母である藤原詮子の判官所雑色であったと記す平直方であったかも知れず、平直方は在京する摂関家の家人と伝えながら鎌倉の邸を源頼義に寄贈し、『尊卑分脈』は源義家の母方祖父となる平直方の玄孫を北条時政としている。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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