藤原道長に多大な進物を尽くし蓄財を遂げた源頼光は"朝家の守護"と呼ばれ、頼光の父として鎮守府将軍を務めた源満仲が清和源氏発展の経済的基礎を確立した摂津・川辺郡下の多田荘という資産と満仲が組織した武士団を継承して威名を後世に止めた。

 その頼光の配下として父・満仲から継承した多田荘に隣接する川辺郡平井郷を地盤とした藤原保昌の名を伝え、保昌は藤原南家祖・四子となる巨勢麻呂の流れを汲むとし、平安朝4百年のうち初め270年間ほどは巨勢麻呂の後裔にさしたる人物は出なかった処を、史上画期的な後三条天皇の親政が始まり、季綱を衛門府の佐官に補任する人事の閣議に立腹した関白・教通が退席して閣議をえらく停頓させ、後三条帝が頻りに教通へ閣議に戻るよう促したと『愚管抄』巻第四に叙べられている。

 藤原巨勢麻呂流・季綱は白河法皇の近臣として鳥羽離宮を寄贈し後の院政の拠点を成しており、この季綱の甥となる季範が熱田神宮司の許に入婿して生した娘である由良御前が源頼光の弟・頼信より7世となる頼朝の母となる。

 源頼光の生きた時代より後世に成った物語などが伝える頼光の配下として、渡辺綱は摂津・西成郡渡辺郷を本拠としたが、綱の父・宛は『今昔物語集』にて板東八平氏の開祖とされる村岡良文と闘ったと叙べられ、綱自身は父・宛の本拠であった武蔵・足立郡箕田郷に生まれている。

 渡辺綱の父・源宛の曾祖父・融は嵯峨天皇の十二子とされ、史上初の関白となる藤原基経が台閣に顕れるやその勢いに圧され左大臣を退いている。

 渡辺綱の遠祖となる源融は『源氏物語』光源氏のモデルと言われ、綱もまた武士団の頭目とはいえ結構な男ぶりであったとする巷伝を見せ、源融の兄として嵯峨帝・六子という定の孫に該る女が源頼光の母であった。

 物語が伝える源頼光の配下としてさらに碓井貞光が在り、貞光の姓・碓井は芦ノ湖を水源として仙石原へ向かって北流した後に反転して相模湾に注ぐ神奈川県下随一の急流として識られる早川畔の箱根町宮城野から仙石原方面へ抜ける碓井峠に由来すると多く説かれる一方、越後から上野へ抜けた碓井貞光が吾妻郡下で野営した折、読経する貞光に四万の病悩を治する霊泉を授けるとの神霊の託宣を蒙ったことが四万温泉開湯の縁起とする伝承から、貞光と上野・碓氷郡との関係を憶測させ、貞光の父を平忠光、また貞光の子を三浦忠通と伝える処は『今昔物語集』にて源頼光の郎党として顕れる平貞道の諱をも考え併せ、何れも諱の訓音を酷似させることから、到底、唯一の人物から派した虚構の偶像と思われ、茲に史上全く識られない有道定直の名を指摘したい。

 有道定直の叔父・惟広は源頼光が密接な関係をもった藤原道長の兄として一条天皇皇后・定子の父となる藤原道隆の家司を務め、有道惟広の子・惟能はまた中関白・道隆の嫡子・伊周の家司を務めたが、伊周の弟・隆家が花山法皇に狼藉を働き、伊周が大宰府へ左遷され伊周の叔父・道長が左大臣に就く996年に有道惟能は武蔵・児玉郡に下ったとする伝を見せ、その2年後に藤原行成の『権記』にて史上初めて道長四天王の一人となる平維衡が現れており、833年に有道姓を与えられた丈部(はせつかべ)氏道は『尊卑分脈』が平高望の祖父とする葛原親王の家司を務め、氏道の玄孫となる者が中関白に仕えた有道惟広であった。

 有道惟広の甥となり有道惟能の従兄となる定直が源頼光の郎党・碓井貞光であったならば、『続群書類従』が東三條院判官所雑色であったと記す平直方もまた有道定直の変身であったと憶測したくなり、有道惟広が仕えた中関白・道隆の妹であり道長の姉であった詮子を『愚管抄』巻第三は史上初めて女院号を与えられた女とし、往時の朝廷が詮子の指図する儘に動かされていたと叙べ、『抄』はさらに詮子が生んだ一条天皇に迫って道長を内覧に任じさせたとする。

 その詮子の事務所の臨時雇員であった者が平直方であったとする文献を見せ、直方は鎌倉の邸と娘を源頼義に与え、義家の母方祖父と伝える。

 道長執政の全盛期に有道氏が仕えた中関白・道隆は藤原北家・庶流の済時とともに毎日酒盛りに明け暮れしていたと『愚管抄』は痛罵し、その済時の孫に該る女を領家としたのが相模・三浦郡下の三崎荘であったと朧気に記憶する。

 源頼光の郎党・碓井貞光と源義家の母方祖父・平直方とはともに有道定直であったかも知れない。

 鎌倉幕府創業の功臣・三浦義明は碓井貞光の後裔であり、『尊卑分脈』は平直方の玄孫を北条時政とする。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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