アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたアレクサンドロス3世率いるギリシア軍は中央アジアのタジク族が棲む地にまで到り、アレクサンドロスの妃・ロクサネはタジク族の生まれであった。

 騎馬に必須の鐙は頑丈な鋼鉄で作らねばならず、鉄資源を豊富とする火山列島がユーラシア大陸の際涯に在ることを聞き及んだギリシア人はタジク族と混血を重ねながら遂に列島に上陸し、製鉄の民・出雲族として『古事記』に伝えられた。

 全国の主だった古社が祭神を出雲族とする所以であり、現代日本語で理解できぬ六十六州の旧名の多くは実にヨーロッパを起源とする部族の呼称であり、出雲の号とはエーゲ海を挿んでアカイア人が築いたアテネの街と反対側となる小アジア半島に在ってモナコやマルセイユの街を築くほど航海に長けたポカイア人が築いたイズミルの街に由来する。

 河内・丹比(たじひ)郡を本拠としたタジク族は多治比氏として日本史に現れ、711年上野にて東山道の通う一角に多胡郡が新設されると銅貨鋳造の任に在った多治比三宅麻呂の名を刻んだ石碑がまた建立され、新郡の経営を委ねたと碑文に記された羊は708年に武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅を発見し、『醫道系図』にて丈部羊の孫となる者が多賀城国府遺構から出土した木簡にも名を遺して陸奥・小田郡涌谷郷で金を採掘した丈部大麻呂に該り、丈部羊にとって従兄となる者の孫となる氏道は多治比三宅麻呂の兄にとって玄孫となる多治比真宗が生んだ葛原親王の家令を務め、833年に有道姓を与えられている。

 丈部羊によって自然銅の発見を見た秩父郡を支配した多治比三宅麻呂の後裔は有道姓を与えられた丈部氏道より6世となる有道惟能が秩父郡に隣接する児玉郡阿久原郷に下った後に児玉郡・加美郡の平野部へ進出し始め、有道惟能の孫・経行は秩父重綱の妹を室とし源義家の孫として平正盛の娘を母とした源経国へ娘を稼し、経国の子・盛経を父とする者こそ源義経であって、平家の祖となる正盛の曾祖父・平維衡は将門の従兄となる平公雅の娘を母とした有道惟能の後身であり、平公雅の曾祖父となる高見王を『尊卑分脈』は有道姓を与えられた丈部氏道が仕えた葛原親王の子とするが、多治比三宅麻呂の後裔として加美郡安保郷を所領とした一族が戦国期に児玉郡下の御嶽山に居城を構えており、御嶽山を高見山とも呼び、多治比真宗の生んだ葛原親王の子・高棟王に朝廷が平姓を与えられたことから秩父郡を支配した多治比三宅麻呂の後裔もまた平姓を称え、板東平氏が少なくも多治比氏を出自とすることには変わりない。

 源経国に娘を稼した有道経行の一族が児玉郡に繁衍する一方、秩父郡から児玉郡新里郷に進出した多治比恒房の父を基房と伝え、恒房の兄・直時は加美郡勅使河原郷を領地としていることから、有道経行の甥とされ児玉郡真下郷を領地とした基直の子がまた加美郡勅使河原郷を領地としたと重ねて伝えるころからも、真下基直は児玉郡新里郷を領地とした多治比恒房の父・基房が有道氏の猶子となったことを憶測させ、真下基直=基房の子として勅使河原直時の弟となる新里恒房の子・実光は加美郡安保郷を領地とし、承久の乱に臨んで北条政子から泰時を将として東海道を上ることを命じられていることから、『尊卑分脈』の写本に依って北条時政を平直方の玄孫に位置付け、時直の孫とすることからも、北条氏は児玉郡に繁衍した有道氏と眷属関係を深くした多治比基房の子・勅使河原直時の卑属であったと思われる。

児玉党 有道氏の流れからは『平家物語』が一ノ谷合戦で平重衡を捕縛したと叙べる庄家長が現れ、家長の弟として児玉郡四方田郷を領地とした弘長の子に定綱を、家長と同じく庄姓を称えた弘綱の子・盛綱を、家長の末弟として四方田郷を領地とした高綱を派したと『武蔵七党系図』児玉党条に見えるが、埼玉県教委の努力にも拘わらず四方田弘長の居館址は発見されておらず、しかしながら庄家長の弟や甥らの名は『平家物語』に現れる佐々木定綱・盛綱・高綱らの名を連想させ、実に北条義時の被官として侍所所司を務めた平盛綱は佐々木盛綱こと四方田盛綱であり、佐々木高綱こと四方田高綱は秩父郡を支配した多治比氏を出自とする基家が領地とした鶴見川畔の武蔵・橘樹郡小机郷に隣接する烏山郷に邸址を伝え、四方田高綱の子・景綱こそ北条泰時の被官として泰時が安保実光の弟・実員の娘より生した時実の乳母を務めた女の夫であった。

 かように有道氏の流れとなる四方田氏は多治比氏を出自とした北条氏を宗主とした鎌倉幕府の中枢を担い、幕府滅亡後も豊臣秀吉による奥州仕置に至るまで丈部大麻呂が金を採掘した北上川支流となる江合川流域に蟠踞し続け、この四方田氏を出自とした光秀は織田信長の母方祖父として明智長山城主の配下に在った土田秀久と関わりを持ったと推測され、土田秀久が遠祖と唱えた信濃・筑摩郡下で源義仲を扶育した中原兼遠を『醫道系図』は有道氏とヤマト王権の時代まで遡って同祖とし、本能寺への寄手の中に四方田氏が在ったことは明智光秀の真の素姓を十分示唆するものが有る。

 有道氏の流れを汲む庄家長と弟として児玉郡牧西郷を領地とした弘季の名を伝え、弘季の子・義季は牧西郷を流れる小山川を下ってすぐ合流する利根川をさらに下った上野・新田郡得川郷を領地としたが、新田郡一円の私領化を遂げた義重の父・源義国は有道経行の娘を迎えた源経国の叔父であり経済を扶育した者であった。

 この得川義季の後裔は有道経行の子・行重の後裔となる上野・多胡郡奥平郷を領地とした武家とともに14世紀勤皇党に与し、足利勢に圧されて信濃・伊那谷の西方山間となる浪合村に潜み、後にそれぞれ三河・賀茂郡や設楽郡へと移っていった。

 徳川家康と明智光秀は本能寺の変で通謀しており、備中・高松城を囲んだ羽柴秀吉が山陽路を京へ向かってとって返すに及び、備中・高松城への後詰に赴いた毛利勢が追撃しなかったのも、毛利家中の二大家老として桂と児玉が知られるが、それぞれの後裔は日露戦争時の桂総理と桂の後継最有力とされ帝国陸軍史上きっての俊英と謳われた児玉源太郎であるが、毛利家中の児玉は有道氏の流れとして武蔵・入間郡正代郷を領地とした小代氏が安芸・山県郡下の壬生荘の地頭職を得て西遷した後裔であり、児玉を家中の筆頭とした毛利勢は家康と光秀の謀略に与している。

 本能寺の変が勃発した時、家康は和泉・堺の街を僅かな供回りのみを引き連れ遊興に耽じていたが、変の勃発で何故か和泉・堺よりずっと京を近くする大阪府交野市星田の平井清貞という素封家の邸に立ち寄り、明智光秀は山崎合戦で敗死したとされるが、川越の喜多院の住持であった天海は100歳を越える長寿を得たとされるも、家康の側近として現れた天海は明智光秀の転生した姿であり、光秀に率いられ本能寺に寄せた四方田氏は川越藩士に取り立てられている。




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