臣籍降下した賜姓皇族にて葛原親王の子・高棟王に授けられた平姓と等しく、14世紀に成った『尊卑分脈』にて初めて顕れる高見王の子・平高望の後裔とする者らを桓武天皇の子孫とする説は『愚管抄』などを見るならば『尊卑分脈』以前の公家社会で流布されていたようで、しかし、平高望の父・高見王の事績を伝える文書は見出せない。
金田一京助は北上川の称とは日高見国の号を模したものだとする説を示したが、『将門記』に顕れる平真樹なる者の名もまた『尊卑分脈』には見出せない。
常陸・真壁郡下の大国玉神社周辺を治めたとされる平真樹は源護と姻戚関係に在った平国香に圧されて平将門に援助を求めたというが、将門を襲撃した源扶の父とする護なる者は『今昔物語集』に平良文との一騎打ちの逸話を知らせる源宛と同じ嵯峨天皇の子・源融の後裔と思われ、融が陸奥の塩釜の光景を模して成した六条河原院の遺址が現在真宗大谷派本願寺の所有する京都・下京の渉成園で、源宛は安和の変に暗躍した源満仲の娘を室とし、また満仲の子・頼光の配下であった摂津・西成郡を本拠とした党の領袖・渡辺綱もまた源融の後裔と伝える。
出雲族の祖とする天穂日命の後裔が武蔵国造として奉仕した武蔵国総社である大國魂神社と同じ号を示す常陸・真壁郡下の社を中心とした地域を治めた平真樹が『将門記』にて何故平姓で記されるかはまた平高望が平安期の公家社会にて既に桓武帝の後裔とされてきた疑問をも解く問題を提起し、八溝山地西麓の那須烏山に発する小貝川を下った常陸・真壁郡と隣接する筑波郡の出身であると『続日本後紀』に記される丈部(はせつかべ)氏道は桓武帝の子・葛原親王の家令を務め、嵯峨帝の子・仁明天皇が即位する833年に有道姓を与えられていることから、『将門記』に見える源護は仁明帝の流れとなる源氏かも知れず、そうした護の支援を受けた平国香に常陸・真壁郡で圧された平真樹、そして当の平国香やその父・高望らは有道姓を与えられたと六国史に記される丈部と密接な関係に在った素姓の者らであったかも知れない。
『将門記』が将門と争ったとする国香の子・平貞盛のさらに子とする者が平維衡であって、しかし、やはり貞盛の子・維将の孫とされる直方を『続群書類従』の載せる北条系図が東三条院判官所雑色であったとする処から、東三条院こと藤原詮子は道長の姉であり、往時の朝廷がこの史上初となる女院の指図で動かされていたと『愚管抄』に記される処からも、平貞盛の子・維衡と曾孫・直方が藤原道長の時代をともに生きたとする少々の疑問を抱かせる。
平維衡が藤原行成の『権記』にて最も古く顕れる998年の2年前、『愚管抄』にて藤原詮子が生んだ一条天皇に迫って弟を内覧に任命させたと記される藤原道長が左大臣に就いた年に大宰府へ左遷された藤原伊周の家令を務めていた者が葛原親王の家令を務め833年に有道姓を与えられたという丈部氏道より6世となる有道惟能なる吏僚であって、996年に道長の甥となる藤原伊周の家令を辞した有道惟能は関東へ下ったという。
有道惟能が藤原伊周の家令を辞した2年後に藤原行成の『権記』にて平維衡が現れ、藤原伊周の妹・定子が一条天皇皇后として生んだ皇子は定子の母・高階貴子が天武天皇の血脈であることを指摘して即位に反対した者が藤原行成であったと言われる。
平維衡の子・正度は陸奥に在地した長介なる者の娘を母としたと伝え、平家の祖となる正盛の祖父・正度が生きた同じ11世紀を生きたとされる有道惟行は藤原伊周の家令を辞して関東へ下った有道惟能の子であるとされる。
しかし、有道惟行なる者の事歴を伝える文献は皆無であり、上野・武蔵の国界を成す利根川支流の神流川を近くして有道惟行を祀るとする祠のみを見せ、武蔵・児玉郡を中心に上武に展がった児玉党の祖とされる有道惟行なる人物はひょっとして伊勢・神郡において平致頼と争った平維衡の子・正度であったかも知れない。
藤原伊周の家令を務めた有道惟能は将門の従兄となる平公雅の娘を母としたと伝え、『尊卑分脈』が平維衡の父とする貞盛はまた平公雅の従兄であり、公雅の子・平致頼と伊勢・神郡で争った平維衡は致頼と又従兄弟の続柄を示すが、実に藤原伊周の家令を辞した有道惟能が2年後に藤原行成の『権記』に現れる平維衡の前身であったとするならば、平維衡こと有道惟能は母方伯父となる平致頼と伊勢・神郡にて争ったこととなる。
平致頼の後裔は結局伊勢から退き伊勢湾を挿んだ対岸の尾張・知多郡へ移るが、平致頼の後裔らを退け伊勢に勢力を伸張させた平維衡の曾孫・正盛より始まる平家とは実に常陸・筑波郡の出身と朝廷の正史が伝える丈部氏道の後裔であったかも知れない。
『醫道系図』なる古書は833年に有道姓を与えられた丈部氏道の祖父にとって従弟に該る者を羊なる奇妙な名で伝え、これが711年上野に新設された多胡郡に建立された日本最古の石碑の一つに記されて新郡の経営を委ねられた羊なる者であるかも知れず、東山道の通う地に多胡郡が新設された年の3年前となる708年、多胡郡を間近くする武蔵・秩父郡黒谷郷にて自然銅が採掘されている。
金田一京助は北上川の称とは日高見国の号を模したものだとする説を示したが、『将門記』に顕れる平真樹なる者の名もまた『尊卑分脈』には見出せない。
常陸・真壁郡下の大国玉神社周辺を治めたとされる平真樹は源護と姻戚関係に在った平国香に圧されて平将門に援助を求めたというが、将門を襲撃した源扶の父とする護なる者は『今昔物語集』に平良文との一騎打ちの逸話を知らせる源宛と同じ嵯峨天皇の子・源融の後裔と思われ、融が陸奥の塩釜の光景を模して成した六条河原院の遺址が現在真宗大谷派本願寺の所有する京都・下京の渉成園で、源宛は安和の変に暗躍した源満仲の娘を室とし、また満仲の子・頼光の配下であった摂津・西成郡を本拠とした党の領袖・渡辺綱もまた源融の後裔と伝える。
出雲族の祖とする天穂日命の後裔が武蔵国造として奉仕した武蔵国総社である大國魂神社と同じ号を示す常陸・真壁郡下の社を中心とした地域を治めた平真樹が『将門記』にて何故平姓で記されるかはまた平高望が平安期の公家社会にて既に桓武帝の後裔とされてきた疑問をも解く問題を提起し、八溝山地西麓の那須烏山に発する小貝川を下った常陸・真壁郡と隣接する筑波郡の出身であると『続日本後紀』に記される丈部(はせつかべ)氏道は桓武帝の子・葛原親王の家令を務め、嵯峨帝の子・仁明天皇が即位する833年に有道姓を与えられていることから、『将門記』に見える源護は仁明帝の流れとなる源氏かも知れず、そうした護の支援を受けた平国香に常陸・真壁郡で圧された平真樹、そして当の平国香やその父・高望らは有道姓を与えられたと六国史に記される丈部と密接な関係に在った素姓の者らであったかも知れない。
『将門記』が将門と争ったとする国香の子・平貞盛のさらに子とする者が平維衡であって、しかし、やはり貞盛の子・維将の孫とされる直方を『続群書類従』の載せる北条系図が東三条院判官所雑色であったとする処から、東三条院こと藤原詮子は道長の姉であり、往時の朝廷がこの史上初となる女院の指図で動かされていたと『愚管抄』に記される処からも、平貞盛の子・維衡と曾孫・直方が藤原道長の時代をともに生きたとする少々の疑問を抱かせる。
平維衡が藤原行成の『権記』にて最も古く顕れる998年の2年前、『愚管抄』にて藤原詮子が生んだ一条天皇に迫って弟を内覧に任命させたと記される藤原道長が左大臣に就いた年に大宰府へ左遷された藤原伊周の家令を務めていた者が葛原親王の家令を務め833年に有道姓を与えられたという丈部氏道より6世となる有道惟能なる吏僚であって、996年に道長の甥となる藤原伊周の家令を辞した有道惟能は関東へ下ったという。
有道惟能が藤原伊周の家令を辞した2年後に藤原行成の『権記』にて平維衡が現れ、藤原伊周の妹・定子が一条天皇皇后として生んだ皇子は定子の母・高階貴子が天武天皇の血脈であることを指摘して即位に反対した者が藤原行成であったと言われる。
平維衡の子・正度は陸奥に在地した長介なる者の娘を母としたと伝え、平家の祖となる正盛の祖父・正度が生きた同じ11世紀を生きたとされる有道惟行は藤原伊周の家令を辞して関東へ下った有道惟能の子であるとされる。
しかし、有道惟行なる者の事歴を伝える文献は皆無であり、上野・武蔵の国界を成す利根川支流の神流川を近くして有道惟行を祀るとする祠のみを見せ、武蔵・児玉郡を中心に上武に展がった児玉党の祖とされる有道惟行なる人物はひょっとして伊勢・神郡において平致頼と争った平維衡の子・正度であったかも知れない。
藤原伊周の家令を務めた有道惟能は将門の従兄となる平公雅の娘を母としたと伝え、『尊卑分脈』が平維衡の父とする貞盛はまた平公雅の従兄であり、公雅の子・平致頼と伊勢・神郡で争った平維衡は致頼と又従兄弟の続柄を示すが、実に藤原伊周の家令を辞した有道惟能が2年後に藤原行成の『権記』に現れる平維衡の前身であったとするならば、平維衡こと有道惟能は母方伯父となる平致頼と伊勢・神郡にて争ったこととなる。
平致頼の後裔は結局伊勢から退き伊勢湾を挿んだ対岸の尾張・知多郡へ移るが、平致頼の後裔らを退け伊勢に勢力を伸張させた平維衡の曾孫・正盛より始まる平家とは実に常陸・筑波郡の出身と朝廷の正史が伝える丈部氏道の後裔であったかも知れない。
『醫道系図』なる古書は833年に有道姓を与えられた丈部氏道の祖父にとって従弟に該る者を羊なる奇妙な名で伝え、これが711年上野に新設された多胡郡に建立された日本最古の石碑の一つに記されて新郡の経営を委ねられた羊なる者であるかも知れず、東山道の通う地に多胡郡が新設された年の3年前となる708年、多胡郡を間近くする武蔵・秩父郡黒谷郷にて自然銅が採掘されている。