『吾妻鏡』は1185年源義経と以仁王の令旨を伊豆に在った頼朝の許に届けた源行家らの追討を名目に全国への守護・地頭の設置を奏請すべく上洛した北条時政が洛中警衛を名分として京に残した35人の被官の名を記し、その筆頭に平六ケン(人偏に兼;侍の字と同じ義)仗時定を挙げ、頼朝が征夷大将軍に補任された翌年に時定が死没した記事を記し、

  平六左衛門尉、京に於て卒す。

  北条殿(時政)の腹心なり。

  且つは北条殿の名代となり、且つはお使いとなり京に在って、多く勲功を施された。

  人々惜しむ処なり。

   前左衛門尉平朝臣 享年49

    北条介時兼の子

    文治2年7月18日、左兵衛尉に任じ、

    同5年7月10日、左衛門尉に任じ、賀茂臨時祭に御祈功を併せられ、

    建久元年7月18日、辞退

と精細に経歴が明かされ、利根川支流の小山川よりさらに分岐する女堀川を遡った武蔵・児玉郡四方田郷を所領とした有道姓・高綱の兄として弘長を伝えながら、弘長の居館址は発見されず、この点は弘長の兄とする四方田郷小字久下塚を所領とした弘定も同様で、しかながら久下塚弘定の子・弘親は四方田郷を流れる女堀川を下って、さらに利根川を下った旧利根川=現中川と元荒川との間に位置する埼玉郡久下郷に居館址を示し、この久下塚弘親の居館址を示した埼玉郡久下郷を軸に南東近くとなる太田荘に属した川口郷の領主は小野姓を称えた横山一族の流れと伝え、久下郷の北西には近い方から高柳郷の領主を平忠常の後裔との説を見せる野与一族の流れが、次に崎西郷の領主を私市(きさい)一族の惣領が、多賀谷郷にまた野与一族が、道智郷の領主もまた野与一族の流れとし、久下塚弘親の在った久下郷から西へ向かった元荒川畔となる栢間郷小字笠原の領主もまた野与一族と伝え、元荒川を遡って現荒川と分岐する大里郡久下郷の領主は私市一族とされながら『吾妻鏡』は久下直光と直光の甥とする熊谷直実との間に所領の紛争が在ったことを記し、北条得宗被官であった南条時光が日蓮の法弟に開かせた駿河・富士郡下の大石寺の伝えた文書は熊谷直実と北条時政は従兄弟の続柄に在ったとして、埼玉郡と西接する幡羅郡との境界を挿んで境界近くとなる幡羅郡側の中条保を所領とした中条家長は後裔を織田信長の生きた時代まで三河・賀茂郡に伝え、小野姓横山一族と伝える家長の所領はまた中条家長と諱を等しくした有道姓・庄家長の孫が所領としたと伝え、幡羅・埼玉両郡界を近くした埼玉郡側となる河原郷の領主は私市一族とし、久下塚弘親の在った久下郷の南東近くとなる川口郷には中条家長と同じく小野姓横山一族の領主が在って、久下郷の北西近くとなる崎西郷の領主は私市一族の惣領とされ、私市一族とする領主らが久下郷を西に少し進んで元荒川も少し遡った地に久下直光や熊谷直実として伝え、しかも熊谷直実は北条時政の近親であったとする文書を伝える。

 小野姓横山一族と伝える中条家長の惣領であった横山時兼は北条義時によって和田義盛と同時に滅ぼされ、横山時兼と諱を等しくする北条時兼の子・時定を『吾妻鏡』は頼朝が征夷大将軍に補任された翌年に死没したとするが、『鏡』は北条時政の近親であった時定のように時政について時定が死没する以前の官途や父の名を記さない。

 北条時定が称えたケン仗の号から想起させることは『尊卑分脈』にて時政の曾祖父とする僧侶の兄・惟方の肩書きとして"使"なる語を付し、『系図簒要』にては時政の曾祖父とする惟方の肩書きとしてやはり"使"なる語を付しており、”使”とは平安朝下の駆使丁を指すものかと思われるが、此処でさらに想起させることは古代史研究家の故・佐伯有清さんが有道氏の古称である関東に多く分布した丈部(はせつかべ)とは昭和43年に利根川畔の埼玉県行田市に在る稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文に見られる古代王朝における皇宮にて天皇に近侍した杖頭人の後裔ではないかとする説であり、『吾妻鏡』が北条時定の称えた号として記すケン(人偏に兼;侍と同義)仗とは金錯銘鉄剣に顕れる杖頭人の後裔であった丈部の流れであることを指すものではないか。

 北条時定と偏諱を通有する有道姓・久下塚弘定の子・弘親が在った埼玉郡久下郷を間近くして平忠常の流れとする説を見せる野与一族の領主を多く伝え、北条時定をリーダーとして1186年に全国への守護・地頭の設置を後白河法皇より獲ち取った北条時政が鎌倉へ帰るに当たり京に残留した35人の中には"のいよの五郎太郎"・"同三郎"・"同五郎"と顕れ、有道姓・久下塚弘定より曾祖父であるか祖父の弟として伝える児玉郡真下郷を所領とした基直は子・親弘を利根川支流の神流川畔となる加美郡勅使河原郷に収めており、真下基直の通称を五大夫と伝える。

 『吾妻鏡』は北条時政の名代を務めたとする時定を頼朝が征夷大将軍に補任された翌年に死没したとし、『鏡』が幕府御家人の死亡記事を記した後に経歴を仔細に記すのは受領国司の官途を得たクラスの者に限り、時政の生きた時代に受領国司の官途を得た者は頼朝の血縁者に限られていたことを思うならば、北条時定に係る記事は異例であり、この時定と諱を等しくした者が『鏡』に2人顕れ、一人は北条義時の異母弟となる時房の子として4代摂家将軍・頼経の近習であり、頼経を京へ送還する役を務め、5代将軍・頼嗣の近習の長をも務め弘安元年に死没した時定であり、もう一人は北条泰時の子として時頼の父であり、執権に就かずして死没した時氏の子として肥後・阿蘇神宮の社領を治めた阿蘇氏の祖となる時定である。

 『吾妻鏡』が北条時政の名代として多大な功績を遂げたとする時定をリーダーとして1186年時政が鎌倉へ帰還した後に京に残留した35名の中に大方十郎なる名を見出し、1247年に起きた宝治合戦で戦没する関政泰がその4年前に下総・豊田郡大方郷内の神社に鳥居を建てたことを伝え、『鏡』には1213年中の記事に大方五郎政直の名を記しており、これが有道姓・真下五大夫基直や野与五郎らと関わる者らかは明らかにし得ない。

 因みに、前稿で論じた藤原伊周の家令を務めた有道惟能が翻身した者が藤原道長に仕えた平惟衡とすることに係り、伊勢・鈴鹿郡関谷郷を本拠とした関氏は北条得宗被官・関氏の源流を成すとする伝を見せ、北条義時の被官であった平盛綱と諱を等しくする有道姓・庄盛綱の従兄に該る義季を上野・新田郡得川郷を所領とした四郎義季と同一視する論を計ったが、『吾妻鏡』にて得河三郎義秀を和田義盛の子でありながら生き延びた朝夷奈義秀の前身と仮定して、朝夷奈義秀が和田合戦で鎌倉府内から脱で出した横浜市栄区田谷に隣接して関谷の地名が見られ、源実朝を殺した公暁を誅した長尾定景の所領であった地の北に位置するが、足利尊氏と故・太田亮が有道経行の後裔となる奥平氏の岐れと説く赤松則村に攻められた六波羅北方探題・北条仲時を近江・犬上郡番場宿に攻めた佐々木京極高氏の後裔となる族の配下として田谷氏の名が見られる。

 著者は別稿にて後半生を天海に翻身して家康の側近となった明智光秀の出自を陸奥の北上川支流となる江合川流域に鎌倉期から戦国期に至るまで蟠踞した有道姓・四方田氏と推測したが、本能寺を囲んだ明智光秀の陣中に四方田氏が在って、本能寺に隣接する妙覚寺に止まった信長の嫡子・信忠を囲んだ伊勢貞興の後裔は江戸幕府にて朝廷からの勅使を遇する役柄の高家を務めており、貞興を派した伊勢氏はまた鎌倉幕府創業の功臣と謳われた三浦義明の子と伝える佐原十郎義連の流れとなることを論じ、但し有道惟能が仕えた藤原伊周の後裔を唱えた大森藤頼の小田原城を奪取した北条早雲こと伊勢宗瑞を室町幕府政所執事を世襲した伊勢氏を出自とする説には与し得ず、有道姓・庄家長が備中・小田郡下の草壁荘の地頭職を得たことに因る家長の後裔として室町期に備中守護を任じた管領・細川氏の守護代を任じた庄氏を出自とする者が伊勢宗瑞であり、徳川家康の遠祖となる松平信忠が応仁の乱を惹起したとされる伊勢貞親の被官であったことが識られ、遠江・引佐郡下の頭蛇寺城主・松下之綱は有道惟能の岳父であった菅原薫宣の後裔を唱えた柳生宗矩の岳父であったが、若き豊臣秀吉が松下之綱に仕えたとする伝承も強ち否定するに及ばず、江戸時代に信長の草履取りとされた豊臣秀吉の出自が信長の嫡子・信忠が泊まった妙覚寺を囲んだ伊勢貞興と眷属関係に在ったことの論証は此処では割愛するが、伊勢貞興の娘とする説を見せる阿古局は淀君や豊臣秀頼に仕えた侍女であった。




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