14世紀に洞院公定が編纂した『尊卑分脈』は将門の従兄となる平貞盛より派して貞盛ー惟将ー惟時と下って、惟時の子として平直方の玄孫に該る者を北条時政とする。

 この平直方は藤原道長の子である頼通が執政した摂関政治の全盛期となる1028年に起こり、房総半島全域を亡国と言わしめるほど荒廃させた平忠常の叛乱を鎮圧する為に中原成道を副将として随兵200余人を率いて関東へ差遣されている。

 平忠常の後裔とする者が三浦義明と並び鎌倉幕府創業の功臣と謳われた千葉常胤であって、忠常は将門の娘を母とすると伝え、自身は将門の従兄となり『尊卑分脈』が平直方の高祖父とする貞盛の従弟となる公雅の娘を室としていたとされる。

 房総全域を亡国と言わしめるほど荒廃させた平忠常の兄・将恒の後裔が畠山重忠や河越重頼らを派する秩父平氏とされ、兄弟の一方は秩父郡を拠点とし、他方は房総の一角を拠点としたと言える。

 しかし、平将恒・忠常らの父とする忠頼なる名は実在する人物の名とは思われず、なぜならば忠頼の弟とする忠光はまた三浦義明の遠祖となるとし、忠頼と忠光それぞれの偏諱を併せるならば頼光となり、三浦氏祖とする平忠光、忠光の子・三浦忠通、また藤原道長に仕え朝家に武名を揚げた源頼光の郎党・碓井貞光、『今昔物語集』に見える源頼光の郎党・平貞道らの諱の訓音が「ただみつ」「ただみち」「さだみつ」「さだみち」と何か似通ったものを感じさせて後世の虚構のような印象を与え、秩父平氏や千葉氏の祖となる平忠常らの父・忠頼にはまた経明の別諱を伝える処から、『将門記』にて将門の配下として顕れる多治経明こそ秩父平氏祖・将恒や千葉氏祖・忠常らの真の父となる人物と思われ、『尊卑分脈』が将門の祖父・平高望のさらに祖父とする葛原親王を生んだ女が多治比真宗であり、真宗の高祖父となる多治比嶋は『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴族のモデルとなり、嶋の弟・多治比三宅麻呂の名を刻んだ石碑が711年に新設された上野・多胡郡に見られ、多胡郡や秩父郡を近くする武蔵・加美郡下にて多治比氏は丹荘を拠点に製鉄に従っていたと伝える処から、『将門記』にて将門の配下であった多治経明は武蔵・加美郡を本拠とした多治比氏を出自とすると思われ、従って秩父平氏や千葉氏とは多治比氏の流れであったということができる。

 多治比三宅麻呂の名を遺す古碑の建てられた上野・多胡郡の号から多治比氏が中国人の言う安禄山のような胡族の血統であったことを示唆し、房総全域を亡国と言わせるほど荒廃させた平忠常がまた平公雅の娘を室としていた点は特に重要で、なぜならば平公雅の娘を母とした有道惟能なる吏僚が家令を務めた藤原伊周に対し、伊周の叔父となる道長がもと内覧の宣旨を受けたことの有る甥の内大臣・伊周を飛び越え暫くは大納言のまま内覧を務め俄かに右大臣に昇った経緯を、『愚管抄』巻第五は一条天皇の生母である道長の姉・東三條院が一条帝に迫り、蔵人頭・源俊賢に女院自ら弟・道長への内覧任命を発するように命じたことを叙べ、藤原道長の甥・伊周の家令を務めた有道惟能の母方祖父・平公雅の娘を室とした平忠常への征討を命ぜられた平直方を東三條院判官所雑色であったする文書を見るからである。

 平公雅の娘を母とした有道惟能なる吏僚は藤原伊周の家令を務め、平公雅の娘を室とした平忠常は藤原道長の姉・東三條院に仕えた平直方の討伐を蒙っているが、忠常が公雅の娘から生した常将は初めて千葉介を号して千葉氏の実質的な祖となり、秩父国造の娘ともされる娘を室に迎えたとされる一方、天女を妻としたという奇天烈な伝承をも示し、信濃川を遡って千曲川となる大河の源流を成す関東山地の一角の高天原山の東側から発する神流川に臨んだ武蔵・加美郡下に平忠常の真の父である多治経明を派した筈の多治比氏が丹荘を営んでおり、茲に気にかかることは平公雅の外孫となる者には平忠常の子・常将の他に藤原伊周の家令を務めた有道惟能が在り、有道惟能は藤原道長が左大臣に就いた年の主家・伊周が大宰府へ左遷される直前に家令職を辞して、秩父郡と加美郡との間で児玉郡下の神流川に臨む勅旨営牧の別当として赴いており、この勅旨営牧の号を平将門が討たれる直前に時の台閣の長であった藤原忠平が私記に止め、しかも忠平は関東僻遠の地に在る下級官吏の名に過ぎない勅旨営牧別当を務めた者の名を藤原惟条であったと記し、初めて千葉介と号した平常将が平公雅の外孫となるのと等しくして公雅の外孫となるという有道惟能が平将門の討たれる直前の藤原忠平が脳裡に止めた者の在った地に下った32年後に常将の父・平忠常は房総を亡国と言わせるほどに荒廃させる叛乱を果たした。

 平公雅の外孫として平忠常の子である常将の偏諱を連想させるように、藤原伊周の家令を務め武蔵・児玉郡下の勅旨営牧別当として赴いた有道惟能の孫とする者を経行とし、『尊卑分脈』や江戸末期に成った『系図簒要』が源頼義に娘を稼したとし、『続群書類従』北条系図では源義家・義光らの母方祖父とする平直方と似て、有道経行は祖父とする惟能が赴任した武蔵・児玉郡下の勅旨営牧を本拠とし、その経行の本拠と隣接した地に河内荘を開いた源義家の孫・経国に娘を稼している。

 さらに気にかかる点は平公雅の娘を母とすると伝える平常将にはまた別に平正度の娘を母としたとする文書が在り、平公雅の子・致頼や源義家の祖父となる頼信らとともに藤原道長に仕え伊勢平氏の祖とされる平惟衡の子である正度は陸奥に在地した長介の娘を母としたと伝え、749年開眼供養された東大寺大仏への鍍金素材を陸奥・小田郡涌谷郷で発見した者を丈部(はせつかべ)大麻呂と伝えるが、藤原伊周の家令を務めた有道惟能より6世先として葛原親王の家令を務め有道姓を与えられた者は常陸・筑波郡出身の丈部氏道であり、しかし、藤原道長に仕えた平惟衡が将門の従兄となる平貞盛の子とされながら、藤原道長の子・頼通が執政した時代に叛乱を果たした平常忠の鎮圧を命ぜられた平直方は貞盛の曾孫に位置付けられている点には少々の齟齬を感得させる。

 一条天皇の生母として弟・藤原道長を内覧に任命するよう一条帝に迫ったと『愚管抄』に叙べられる東三條院の判官所雑色を務めた平直方は1028年房総で叛乱を起こした平忠常を鎮圧する為に中原成道を副将として関東へ差遣されたが、藤原道長の長兄・道隆に家令として仕えた有道惟広、一条天皇皇后・定子の父・道隆の子である伊周に家令として仕えた有道惟広の子・惟能らの祖として833年に有道姓を与えられた丈部氏道の眷属関係を伝えた『醫道系図』は有道姓を与えられた常陸・丈部の源流を平安期から江戸期に亘って朝廷の少納言局を差配した中原氏の源流と等しくするとし、平直方が判官所雑色として仕えた東三條院は991年に史上初の女院号を宣下され1001年に死没しているから、叔父・道長が左大臣に就く996年に大宰府へ左遷される藤原伊周の家令を務めた有道惟能の従兄として『醫道系図』は定直なる者を伝え、有道惟能の主家となる伊周が弟・隆家による花山法皇への狼藉を因として伊周は大宰府へ左遷される背景に在った陰謀を憶測させ、平忠常の鎮圧を遂げなかった平直方から源頼信に任が更迭されるや否や忠常が闘わずして頼信に帰服した不思議は日本史における代表的な謎とされる。

 藤原道長に仕えた平惟衡は陸奥に在地する長介の娘を室として正度を生したといい、平公雅の娘とも平正度の娘ともされる女を母とした平常将は房総全域を亡国と言わせるほど荒廃させた平忠常の子とされ、忠常の兄として秩父平氏の祖とされる将恒の訓音と逆にする諱を伝えるが、常将は秩父国造の娘を室としたと伝える処は常将と同じく偏諱の訓音を等しくする有道経行が秩父重綱の妹を室としたことを想起させ、有道経行の祖父とする惟能は常将と同じく平公雅の外孫と伝える。

 詰まり、12世紀を生きた筈の有道経行は秩父重綱の妹と婚じており、経行の祖父とする有道惟能は平公雅の外孫と伝え、惟能と経行の間に生きたと考えられる平常将もまた平公雅の外孫とし秩父国造の娘を室としたと伝えるのはまず誤伝と考えるべきで、従って平常将の父・忠常が室とした女は平公雅の娘ではなく平正度の娘であったと考えるべきであって、平忠常は陸奥に在地した長介なる者の娘が生んだ伊勢平氏・正度の娘を室に迎えたと考えられる。

 平直方から源頼信に征討使が更迭されるや闘わずして頼信に帰服した平忠常の父は『将門記』に顕れる多治経明であると思われ、忠常の子・常将は忠常の兄として秩父氏の祖となる将恒の諱を逆にした訓音を称えて平公雅の外孫となる有道惟能の孫とする有道経行が秩父重綱の妹と婚じたことと似せる伝承を示して公雅の外孫にして秩父国造の娘を室に迎えたとし、平常将の真の母方祖父となる平正度が生きた時間は有道惟能の子とされ経行の父とされる惟行が生きた筈の時間と概ね重なり、しかしながら有道惟行なる者の事歴は全く後世に伝わらず、陸奥に在地した長介なる者の娘を母とした平正度の父・惟衡は源頼信や有道惟能の母方祖父となる平公雅の子・致頼らとともに藤原道長の四天王と呼ばれた者らであり、多治経明を実父とする平忠常が闘わずして源頼信に帰服した理由は忠常の岳父となる正度の父・惟衡とともに頼信が藤原道長に仕える有力な武将であったからであったと思われる。

 奥州藤原氏の配下として陸奥・信夫郡に蟠踞した佐藤基治の子となる継信・忠信兄弟らは源義経の郎党であったが、基治の正室は義経の郎党となった兄弟らの母とは異にして上野に在地した大窪太郎なる者の娘であったと伝え、産金を見た陸奥の在地領主と上野在地の者らとの関係を示唆するが、将門の叔父とし秩父平氏祖・将恒や平忠常らの祖父とされる平良文の墓碑が神奈川県藤沢市渡内に所在する二伝寺に良文の子として将恒・忠常らの父とする忠頼と三浦氏の祖とする忠光の墓碑とともに並んで見られるが、二伝寺の在る地に延びる尾根は小田原城を本拠とした戦国大名が築いた付城である玉縄城より派しており、寺は戦国期に建立された処から到底平良文ー忠頼・忠光らの実在を担保するものとはなり得ず、平良文にもまた上野に在地した大野茂吉の娘を室としたとする伝を見せ、往年の系図学の権威であった故・太田亮は千葉氏の出自を多氏とし、房総半島の内房に飯富という地名を示し、纏向遺跡の発掘された地を間近くして大和・磯城郡飫富郷を本貫としたという多氏を出自とした太安万侶が『古事記』を編纂しており、太安万侶の出自となる多氏と関係が有るか、多治比氏を出自とする多治経明の子であった筈の平忠常の後裔となる千葉氏の出自を故・太田亮は多氏と考えたものと思われ、平良文なる者に娘を稼して上野に在地した大野茂吉とは多の茂吉であって、それはまた多治比の茂吉でもあり、上野や秩父郡を間近くする武蔵・加美郡下の丹荘を本拠とした多治比氏を出自とした者が大野茂吉であったものと推測される。(つづく)

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

© Ryohichi Horigome 2011-2030 All Rights Reserved.