昨日は鬼怒川と小貝川に挟まれた栃木県真岡市に在る伊達氏の始祖が築城した中村城傍の中村八幡宮を参拝したのですが、今日は一転木漏れ日を満喫できる杜の宿を求め、関東から信濃へ脱ける東山道途上で碓氷峠の手前となる群馬県安中市松井田町を訪れています。

 木漏れ日を満喫する杜の宿を求めたのも実は碓氷峠麓の横川で有名な峠の釜飯を食べたくなったからで、信越本線横川駅が開業した同じ明治の年に荻野屋は創業し、荻野屋の作る峠の釜飯は益子焼の釜に容れた往時には唯一のほか弁でした。

 峠の釜飯が急に食べたくなりましたのも、伊達氏の遠祖が崇敬した真岡市の中村八幡宮近くを流れる小貝川を遡った地にて益子焼が作られているからで、因みに下野・芳賀郡益子郷を本拠とした武家は阿倍氏と等しく皇統譜第8代・孝元天皇を祖とする紀氏の流れを汲むと唱え、伊達氏の遠祖が拠点を構えた芳賀郡の南部に蟠踞した清原氏とともに『太平記』にて宇都宮氏の配下として紀清両党と謳われています。

 常陸・下総両国界を成した小貝川を下野から下り、常陸・筑波郡下で関東屈指の霊峰を仰ぎながら糸繰川と岐れる地に堀籠(ほりごめ)の地名を見出し、『続日本後紀』が833年に有道姓を与えられたと記す筑波郡出身の丈部(はせつかべ)氏道は桓武天皇が『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する男子のモデルとなった多治比嶋の玄孫に該る真宗に生ませた葛原親王の家令を務め、『尊卑分脈』が葛原親王の孫とする平高望の孫である将門は筑波郡に隣接する下総の豊田・猿島両郡を地盤としていました。

 関東屈指の霊峰を仰ぐ常陸・筑波郡下にて小貝川と糸繰川が岐れる地に看る堀籠神社の号から想起させることは、平将門を討った藤原秀郷が本拠とした唐沢山城の在った下野・安蘇郡下に朱雀城を構えた堀籠有元という武将で、朱雀城から間近く望む両崖山麓となる足利荘を秀郷の後裔から奪い獲った源義国とその子・義重は父子二代に亘って足利郡から渡良瀬川を渡った先となる上野・新田郡の支配を進めました。

 常陸・筑波郡出身で葛原親王の家令を務め有道姓を与えられた丈部氏道の玄孫となる有道惟広は一条天皇皇后・定子の父である藤原道隆の家令を務め、皇后・定子に仕えた清少納言の出自が筑波郡を流れる小貝川を遡って下野・芳賀郡に蟠踞した武家の唱えた出自と等しく、未だに国文学者が何故『枕草子』の著者を少納言と号するかを解明できない処は有道氏の系譜を伝えた『醫道系図』に拠ると有道氏と平安期から江戸期に亘って朝廷の少納言局を差配した中原氏が源流を等しくすると示す点と関係が有るものと思われ、北条時政が有道氏を出自としたならば中原広季に扶育されたと思われる中原親能や大江広元らが鎌倉幕府の創業時に活躍した所以もまた氷解させる処が在ります。

 下野・安蘇郡下に朱雀城を構えた堀籠有元は新田義重の後裔となる義貞とともに鎌倉を攻めた後にもともに越前・敦賀の金ヶ崎城に籠城しており、堀籠有元の遠祖とする隆元が『尊卑分脈』に記される阿野全成の子を指すならば、北条時政の娘・阿波局の生んだ隆元の後裔が有元だったことになり、『吾妻鏡』が北条泰時の母を単に阿波局とのみ記す処が北条義時の家督を継いだ泰時が実に時政の外孫となる者であったこととなって、堀籠有元が新田義貞とともに攻めた北条高時は有元と祖を等しくし、後醍醐天皇の寵妃として後村上天皇の母である阿野廉子ともまた有元は祖を等しくし、新田義貞とともに越前・敦賀の金ヶ崎城に堀籠有元らが奉じて籠城した恒良親王の母は有元と同祖であったこととなります。

 堀籠有元が朱雀城を構えた下野・安蘇郡にはまた『武蔵七党系図』児玉党条に拠ると藤原道隆に仕えた有道惟広の後裔となる武家が在ったとし、惟広の曾孫とする有道経行は上野・武蔵両国界を成す利根川支流の神流川上流に本拠を構え、その隣地に源義家の孫となる経国が河内荘を開いて経行の娘を迎えており、源義家の孫であり平正盛の娘を母とした経国の子・盛経は平清盛の祐筆を務めたとする伝承を見せ、盛経の後裔を唱える武家が治めた近露荘の在った紀伊・西牟婁郡と隣接する日高郡下に武蔵坊弁慶が生まれたとする伝承を見せるなどのことから、頼朝の弟とされる源義経は実に頼朝の曾祖父・義親の弟となる義忠の曾孫となる者であった可能性を感得し、義経と母を等しくした阿野全成が北条時政の娘・阿波局から生した隆元の後裔となる堀籠有元は新田義貞や足利尊氏らに較べて瞭らかに河内源氏の嫡流に近かったと言えます。

 有道経行の本拠地と隣接する地に河内荘を開いた源経国の父・義忠は頼信ー頼義ー義家と三代続いた河内守を最期に任じており、義忠の岳父となる平正盛は殺人の罪科に問われた義忠の兄であり頼朝の曾祖父となる義親を成敗した人物で、河内源氏の家督を継いだ義忠の子として平家始祖の外孫ともなる源経国が正室とした女は後白河法皇の子である二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘であって、経国の父・義忠は佐竹・武田の祖として経国の大叔父に該る源義光に謀殺され、経国は新田・足利の祖となる源義国に扶育されたのです。

 そうした経国の孫が義経であったならば、壇ノ浦から凱旋した処を後白河法皇が官途を授けた理由も推し量られ、頼朝を始め鎌倉に在った面々が狼狽した理由も理解されるのです。

 その義経と父母を等しくする阿野全成の後裔が堀籠有元であったならば、有元が新田義貞とともに鎌倉を攻めた理由もまた同様です。

 さて著者が今晩逗留を図る杜の宿の所在する旧上野・碓氷郡下の中宿郷には栄西の法弟を開基とする古刹・蓮華寺が在り、北条義時が後鳥羽上皇の発した征討軍と闘った年に蓮華寺の開基は新田荘の惣領であったとする得川義季の招きで新田郡世良田郷に長楽寺を開いています。

 三河・松平氏の故地に看る徳川氏遠祖の墓碑銘に確かに世良田という姓が刻まれているのを認めますが、江戸幕府の日光例幣使が立ち寄った上野・新田郡下の長楽寺の在る地と隣接した利根川畔の得川郷は『倭名類聚抄』に拠ると"えがわ"と訓ずるのが正しいようで、しかし、北条時政の邸址とする寺院を西端に見せる韮山盆地の反対側・東端にやはり江戸幕府代官として佐久間象山に西洋流砲術を授けた江川英龍の邸址を見せ、江川氏が江戸期以前からの素封家であるとされ、北条氏が有道氏を出自とし且つ徳川氏の源流もまた等しくするとしたならば総てが氷解する妙を覚えます。

 『武蔵七党系図』児玉党条は源経国に娘を稼した有道経行の甥となる者の曾孫として源経国が河内荘を開いた地を流れる小山川が利根川と合流する前に貫く武蔵・児玉郡牧西郷を所職とした弘季なる名を伝えますが、牧西弘季の子はまた義季とし、有道経行の子らが拡がった上野・多胡郡や甘楽郡に隣接する碓氷郡下に蓮華寺を開いた僧侶を新田郡に招いて長楽寺を開かせた新田荘の惣領・得川義季の諱と等しくします。

 著者が投宿を図る群馬県安中市と言えばドイツ人内科医のベルツがカルルスバート(フランク王国・カール大帝の湯;英Carl's bath)と同質の鉱泉であると褒賞し地図の温泉記号の発祥地となった磯部温泉郷が在り、温泉郷を近くする松岸寺には阿野全成と同じく相模・高座郡に在地した渋谷重国に庇護された佐々木盛綱の墓碑と伝える遺址を見せ、盛綱の諱は平家末期の大番頭の諱と等しくも、北条義時の被官であった平盛綱の諱としても『吾妻鏡』に顕れます。

 源経国に娘を稼した有道経行の子として上野の多胡郡や甘楽郡に拡がっていった者らの母は秩父重綱の妹で、この重綱の弟とする基家は秩父郡を遠く離れた武蔵・橘樹郡小机郷を所職とし、小机基家の孫となる者が相模・高座郡下に在地した渋谷重国とされ、橘樹郡小机郷を流れる鶴見川の源流となる多摩郡小山田保を所職とした有重はまた秩父重綱の孫とし、渋谷重国が治めた地の東涯を流れる境川を遡ると多摩郡小山田保を間近くする地に到り、小山田有重の子・重成は小机基家の子であり渋谷重国の父である重家の居館址と伝える現在の川崎・堀之内が臨む多摩川を遡った地に稲毛荘を治めており、渋谷重国の卑属として高座郡福田郷を本貫とした武家は1189年の頼朝による奥州征伐後に陸奥・黒川郡大瓜郷に居館を構え、豊臣秀吉による奥州仕置に至るまで斯地に在ったことを伝え、因みに福田氏は奥州仕置発令後に上野・群馬郡へ移り、その後裔となる故・福田赴夫元総理は自身の出自を群馬郡から碓氷郡に拡がった児玉党有道氏であると秋田書店の取材に応え、国道4号を挿んで福田氏が居館を構えた大瓜郷と反対側となる地に地頭職を得た領主は児玉姓を伝え、斯地に在る延喜式内社の社殿改替を伝える棟札には頼朝が将軍に補任される前年となる建久二年の元号を付して児玉重成の署名が看られ、福田赴夫を派した渋谷重国や北条義時の義弟と伝える稲毛重成らが秩父平氏と姻戚関係を築いた有道氏の流れであることを強く意識していたことを知らせます。

 秩父平氏の流れを汲むとされる基家の所職であった武蔵・橘樹郡小机郷に隣接する烏山郷に佐々木盛綱の弟・高綱が居館を構えたと伝え、『武蔵七党系図』児玉党条は源経国の岳父・有道経行の甥にとって曾孫とし、源経国が開いた河内荘を流れる小山川が利根川に合流する直前となる地の児玉郡牧西郷を所職とした弘季の子・義季は利根川畔となる新田郡得川郷を所職とした新田荘の惣領と伝える義季と諱を等しくし、得川義季と等しい諱を伝える児玉党有道氏の義季にとって従弟とする者らを盛綱・高綱と伝え、高綱の子を景綱とする処は北条泰時が児玉郡に隣接する加美郡阿保郷を本貫とした安保実員の娘に生ませた時実の乳母の夫として北条義時の被官であった尾藤景綱を連想させます。

 信越本線・磯部駅の北西10kmほどの所に在る満行寺は源経国を扶育した源義国が開いた寺院と伝え、安中駅の北東を少し進んだ所には源義経の郎党であった伊勢義盛の邸址とする遺碑を示す処などは源義国に扶育された経国の孫が義経であったかも知れないと考える如上の卑見を補強してくれるような気がします。

 『平治物語』に松井田と顕れる碓氷峠麓の地に北条時頼の下命で築城の設計を果たしたと伝える青砥藤綱は幕府の判事として鎌倉を流れる滑川に夜半落とした小銭を拾うべく家人を駆り立て大金を叩いて衆庶の嘲笑を買いながら失費の因に基づき損失の回復を計ることの美徳を強弁しつ、家人へ支払う費用が労働力への所得分配を成す社会的意義を説き、日本におけるケインズ派の魁として自民党代議士らを越える面目を伝えるが、横浜市磯子区にて金沢区との境界を成す丘陵へ向かって昇る坂道の地名を青砥とし、東京湾奥にも青砥の地名を示しますが、東京の青砥近くに看る高砂の地名から連想させることが播磨・印南郡下にて相生の松で識られた高砂神社で、その近傍に小松原城を構えた赤松盛忠は北条義時の子・重時の被官であったと伝えます。

 北条義時の被官であった尾藤景綱の妻を乳母とした北条泰時の子・時実は北条泰時の被官であったと思われる高橋次郎によって1227年6月18日鎌倉で殺害され、3年後となる時実の祥月命日にはまた時実の兄・時氏が死没したと『吾妻鏡』は記します。

 高橋次郎は事件直後に腰越で処刑され、時実の乳母の夫であった尾藤景綱も出家するという余殃が及んでいますが、高橋次郎の親族は北条重時の被官として存続したと伝えます。

 児玉党有道氏にも等しい諱を看る北条義時の被官であった平盛綱を『吾妻鏡』は三郎兵衛尉とし、平家末期の大番頭であった平盛綱の方は高橋左衛門尉と伝え、京洛の高橋を在所とした所以と思われ、北条時実を殺害した高橋次郎もまた同様と思われます。

 北条重時の被官であった赤松盛忠の出自を識る手掛かりは見出せませんが、播磨・印南郡下の高砂神社近くに小松原城を構えた盛忠の後裔が播磨・佐用郡下に本拠を構えた赤松則村であったならば、往年の系図学の権威であった故・太田亮の著した『姓氏家系大辞典』が赤松則村の出自を上野・多胡郡奥平郷を本貫とした武家であるとする点は興味深く思われ、奥平氏の発祥が源経国に娘を稼した有道経行の子として母方伯父となる秩父重綱の猶子となった行重の子・行時が多胡郡片山郷を所職としたことに遡ることを思いますと、この行時の名は『愚管抄』巻第六にて北条時政について叙べられた段落の末尾に比企能員の岳父は『吾妻鏡』に記されるように渋河兼忠ではなくして"ミセヤノ大夫行時"であって、この行時はまた児玉党の武士にも娘を稼していたと記して段を閉じる下りに見出されます。

 有道経行の孫として奥平氏の祖となる片山行時が本拠とした上野・多胡郡に隣接する碓氷郡板鼻郷に邸址を伝える伊勢義盛の父を『義経記』は"伊勢のかんらいの義連"とし、伊勢・度会郡に拠点をもった佐原義連の子が伊勢義盛であったとするならば、佐原義連が『平家物語』にて一ノ谷合戦に臨み真っ先に鵯越を敢行したことに得心し、佐原十郎義連の子が九郎義経の郎党を任じた訳で、義連の父・三浦義明は有道経行を義弟とした秩父重綱と祖を等しくする千葉常胤とともに鎌倉幕府創業の功臣と謳われ、三浦氏の真の祖が有道経行の祖父として中関白・道隆の子である藤原伊周の家令を務めた惟能の従兄と伝える有道定直であって、有道定直こそ在京する摂関家の家人として源義家の父に義家の母となる娘と鎌倉の邸を与えたとする平直方の正体とするならば、平直方こと有道定直の従弟となる惟能の母方祖父である平公雅の後裔が鎌倉景政とする三浦義明の菩提寺の伝える古書が説得力をもち、為に鎌倉郡に拡がった一党と三浦郡に拡がった一党の争いを見せなかったものと思われ、三浦氏の真の祖となる有道定直の卑属が有道定直の従弟となる惟能の後裔らが拡がった武蔵・児玉郡下の真下郷を所職とした有道経行の甥に位置付けられる基直であったと推測され、三浦氏と同流となるこの真下基直こそ『愚管抄』巻第六にて"ミセヤノ大夫行時"の娘と婚じた児玉党の武士と思われ、行時の父・行重は母方伯父である秩父重綱の猶子となって後に養父の本姓である平姓を堂々と称えたことを伝え、行重の弟・行高もまた同様で、行高の通称を平四郎とし、行重の子・行時の娘と婚じた真下基直は五大夫の通称を伝え、『武蔵七党系図』児玉党条の写本に依って真下基直の諱を基行と記すものを看る点は片山行時の娘と婚じたことを因とするものと思料され、さらに真下基直の甥として児玉郡塩谷郷を所職とした家遠が平五大夫の通称を伝える処は岳父である片山行時の父・行重が母方祖父の本姓である平姓を仮冒し、行重の実弟・行高の通称であった平四郎に準じて行重の孫に該る女と婚じた真下基直は五大夫の通称とし、その基直の娘と婚じたと思われる塩谷家遠は姻族の通称を併呑した平五大夫を通称としたと推測されます。

 『吾妻鏡』にて壇ノ浦より凱旋し京洛・堀川に郎党とともに駐屯した義経らを誅戮するよう頼朝に下命された土佐坊昌俊が下野に在る老母と乳児の行く末を案じたと記される処は、下野・塩屋郡に隣接する那須郡に古くから在地し江戸期に至って大名となるまで存続した那須氏は有道経行の遠祖と等しく古称を丈部とし、有道経行と同じく那須氏もまた源経国に娘を稼しており、九条兼実の『玉葉』に児玉党50騎ほどが京洛・堀川に屯した義経らを襲撃したと記され、児玉郡の旧家が伝える古書が真下基直と塩谷家遠らが京洛・堀川に屯した義経らを襲撃したと記す処と符節を合します。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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