栃木県真岡市の中村八幡宮に行って参りました。〔著者投宿先〕

 那須烏山市を水源として利根川に合流する一級河川の小貝川と鬼怒川との間に挟まれた平野に鎮座する八幡宮周辺を治めた領主が近世・仙台藩主の遠祖とされ、伊達朝宗は栃木県真岡市から鬼怒川を下った畔となる茨城県下館市伊佐山に在った荘園を治めた一族であり、源義経の郎党であった佐藤継信・忠信兄弟らの父・基治が陸奥・信夫郡を治めていた処を1189年の源頼朝による奥州征伐で攻め、伊達郡を貰って家名を成したものです。

 伊達朝宗の諱から連想させるのは1159年に起きた平治の乱の直後から1180年に以仁王の令旨を受けて決起するまで伊豆に在った頼朝に比企郡を治めた比企掃部允の妻として仕送りを続けた尼の子とされる比企朝宗で、この朝宗の娘・姫の前が北条義時との間に生した子・重時は武家の家訓を成した人物として江戸時代に有名でしたが、重時の妹・竹殿は初め大江広元の長男に稼し、その後に村上源氏・通親の子に再稼して生んだ子が土御門家の祖となっており、北条義時の室としては比企朝宗の娘の他に伊賀の方や阿波局、伊佐朝政の娘などを伝えています。

 伊達朝宗を派する一族が蟠踞した常陸・新治郡下の伊佐荘から鬼怒川を渡ると茨城県結城市に到り、さらに西へ進むと栃木県小山市となって、武蔵の国衙に関係していたと伝える太田政光が宇都宮氏祖の子として下野・八田郡を治めた宗綱の娘に婿入して下野・都賀郡下の小山荘を本拠としたことが小山氏の興りとされ、太田=小山政光の子・朝政の諱は北条義時との間に有時を生した女の父・伊佐朝政の諱と等しく、小山朝政の弟・結城朝光の諱はまた北条義時の継室・伊賀の方の兄・伊賀朝光の諱と等しくなっています。

 北条義時に娘を稼した比企朝宗と諱を等しくする伊達朝宗が貰った陸奥・伊達郡と隣接する伊具郡を治めた者が北条義時の子として伊達朝宗を派した一族で小山朝政と諱を等しくする伊佐朝政の娘を母とする有時で、小山朝政が治めた下野・都賀郡下の小山荘と伊達朝宗を派した伊佐氏が治めた常陸・新治郡下の荘園との間に位置する下総・結城郡を治めた結城朝光と諱を等しくする伊賀朝光の妹を北条義時は継室に迎え、『尊卑分脈』は小山朝政の父・太田政光のさらに父を二階堂行政と諱を等しく行政と伝え、さらに政光の祖父を行尊としています。

 比企郡を治めた掃部允の妻とともに小山政光を婿とした八田宗綱の娘もまた伊豆に在った頼朝に仕送りを続けたとされ、武蔵の国衙に関係していたと伝える小山政光の旧称・太田を想起させる武蔵・幡羅郡太田郷の領主は小野姓を称えた猪俣党に属する者とされ、利根川畔となる幡羅郡太田郷はまた源義仲の父が頼朝の庶兄・義平に襲撃された折に畠山重能から幼い義仲を託された斉藤実盛が治めた長井荘の在った地ですが、幡羅郡太田郷から利根川を遡り、利根川支流の小山川を遡ってさらに岐れる志戸川流域の那珂郡猪俣郷を拠点とした領主を惣領とする族が猪俣党で、小山川を遡った児玉郡下に河内荘を開いた者が源義家の孫として新田・足利の祖となる義国に扶育された経国でしたが、後白河法皇の子・二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘を正室とした源経国は河内荘に隣接する地を本拠とした有道経行なる者の娘を継室に迎え、有道経行は幼い源義仲を救った畠山重能の祖父・秩父重綱の妹から生した行高を上野・甘楽郡小幡郷に派しており、行高の訓音は『尊卑分脈』が小山政光の祖父とする行尊の訓音と等しくしています。

 有道行高かも知れぬ小山政光の祖父・行尊と政光との間に位置する行政と諱を等しくする二階堂行政の子・行光の偏諱は小山政光の偏諱に通じ、二階堂行光の弟・行村はまた三浦義村と偏諱を通じながら和田義盛の乱にて軍奉行を務め、五味文彦さんに拠ると二階堂行光の後裔が『吾妻鏡』の編纂に与った主力とのことですので、『鏡』の理解はその辺を念頭に置く必要が有ろうと思われます。

 武蔵・児玉郡下の小山川上流域に河内荘を開いた源経国の子・盛経が治めた稲沢郷に看る稲聚神社の号から連想させる伊豆半島東岸の稲取岬を戦国期に拠点とした水軍の将・江梨鈴木氏を派した紀伊・海草郡藤白郷を本拠とした藤白鈴木氏を出自とした鈴木重家は源義経とともに平泉で玉砕しており、紀伊・日高郡下の野長瀬荘を治めた族は源経国の子・盛経の後裔を唱え、武蔵坊弁慶は日高郡の生まれとする伝承を見せ、源経国に娘を稼した有道経行なる者の曾祖父とする惟広は藤原道長の長兄である一条天皇皇后・定子の父・道隆の家令を務め、中関白・道隆の子・隆家は大宰府に在った時に刀伊の入寇を退け武名を後世に止めており、史家は一般に近世・仙台藩主の家祖・朝宗の父を『尊卑分脈』に顕れる藤原公実の娘である後白河法皇生母に仕えた光隆としますが、光隆と訓音を等しくする光高は『平家物語』にて都に上った源義仲を訪れています。

 侍臣の「殿!猫間殿がお見えになりました」の辞に義仲は「がはっはっはぁ、猫が人に会いに来たのか」と応え、「それは猫間中納言光高卿と仰せらる公卿にて渡らせられます」との付言に納得し、光高と会見した義仲は自身が精進の時に使う食器を饗応に差し出し、その汚らしさに光高は言いたいことも満足に言えず帰ったといいます。

 後白河法皇の生母の父・藤原公実は藤原道長の祖父が醍醐天皇の皇女に夜這いをかけて生ませた公季の流れで完全な藤原氏の傍流であったにも拘わらず、公実の後裔となる三条実美や西園寺公望らは明治新政府や帝国政府の要職に就いており、伊達氏祖の父とされる光隆を『尊卑分脈』は幼い源義仲を木曽に連れ立った斉藤実盛を派する藤原魚名の流れとし、北条義時が伊達氏祖・朝宗と諱を等しくする比企朝宗の娘から生した竹殿の後夫・源通親の子に先んずる前夫・大江広元の子は多田仁綱(のりつな)の娘を母とし、竹殿・前夫は竹殿・後夫の父・源通親の猶子となっていますが、仁綱の出生地を摂津・川辺郡多田郷と伝える処は桓武天皇の父・光仁天皇の即位に努め左大臣に昇った藤原魚名が川辺大臣との渾名を伝え、魚名の後裔となる藤原在衡が右大臣に昇る因を成した安和の変に暗躍した源満仲が多田荘を開いて清和源氏発展の経済的基礎を成した地であったことを想起させます。

 伊達氏祖・朝宗が陸奥・伊達郡を獲得する因を成した合戦で逐われた佐藤基治もまた藤原魚名の流れを唱えていましたが、佐藤基治は『尊卑分脈』が小山氏祖・政光の祖父とする行尊と諱の訓音を等しくする有道行高やその兄・行重らが進出した上野に在地した大窪太郎なる者の娘を正室としたと伝えます。

 上野に進出した行高・行重らの父・有道経行が本拠とした地に在った官営牧場の牧監を藤原魚名の流れを汲むとする秀郷が平将門を鎮定する直前に務めていた吏僚の名を時の台閣の長であった藤原忠平は私記に藤原惟条であったと止め、この惟条の名もまた藤原魚名の後裔として『尊卑分脈』に看られます。

 承久の乱を闘って治天の君である後鳥羽上皇を隠岐に追却した北条義時の家督を継いだ者は伊達氏祖と諱を等しくする比企朝宗の娘を母とした重時でなく、小山朝政と諱を等しくし伊達朝宗とは同族であった筈の伊佐朝政の娘を母とした有時でもなく、また小山朝政の弟である結城朝光と諱を等しくする伊賀朝光の妹を母とする者でなく、源義経と母と等しくするという阿野全成が婚じた北条時政の娘・阿波局と名を等しくする女を母とした泰時でした。

 『吾妻鏡』が北条義時とは胎違いとなる妹と同じ名のみを記す名執権・泰時の母と名を等しくする阿波局と婚じた阿野全成は駿河郡下の阿野荘を治め、全成の子・時元を『尊卑分脈』は隆元とし、故・太田亮の顕した『姓氏家系大辞典』は新田義貞とともに鎌倉を攻め、越前・敦賀の金ヶ崎城に後醍醐天皇の子・恒良親王とともに籠城し散華した堀籠(ほりごめ)有元の祖を源姓・隆元とし、藤原魚名の後裔を唱えた秀郷が本拠とした唐沢山の在る下野・安蘇郡下の佐野荘内に朱雀城を構えた堀籠有元の祖を阿野全成とするならば、全成の娘と婚じて駿河郡下の阿野荘を相続し、近世に羽林家の家格となる阿野家の祖となった藤原公佐もまた魚名の後裔となり、堀籠有元が奉じて金ヶ崎城に籠城した恒良親王や伊達行朝が奉じて伊達・相馬両郡の境界に聳える霊山に立て籠もった義良親王=後村上天皇らの母である阿野廉子の生家を成しています。

 堀籠有元の名を刻んだ梵鐘は栃木県佐野市天明町に集住した鋳物職人らによって作られ、佐野市堀米町の天応寺に奉納された処を千葉県下となる鋸山の尾根が東京湾に突き出た岬の近傍で発見され、為に岬を天明町で作られた梵鐘が発見されたことを因に明鐘岬と呼ばれ、鋸山南麓で天台から曹洞へ宗旨更えした日本寺境内にて頼朝が手ずから植え繁茂した蘇鉄を前に今も遺り、堀籠有元が朱雀城を構えた佐野荘を治めた族は有元が籠城した金ヶ崎城を攻囲した斯波高経の主席家老・甲斐氏となっています。

 伊達氏祖を派した族が蟠踞した茨城県下館市伊佐山の地が臨む鬼怒川を遡り、伊達氏祖が本拠とした栃木県真岡市の中村城址との間となる鬼怒川畔の下野・芳賀郡長沼郷は小山朝政の後裔が支配した地であり、同地に在る宗光寺は円仁が創建した天台の古刹で、斉藤実盛の後裔を唱えた春日局の父・斉藤利三を股肱の臣とした明智光秀の後身と疑われる天海が住持を務めており、天海はまた有道経行が本拠とした地を間近くする金鑚神社の別当寺であった大光普照寺の住持をも務め、下野・芳賀郡長沼郷の宗光寺と武蔵・児玉郡の普照寺は上野・邑楽郡の茂林寺と並び、天台における関東三檀林に数えられています。

 下野・都賀郡に出生した円仁が宗勢を確立した天台の平安期における関東の檀徒らには丈部(はせつかべ)と称した者を多く伝え、地方における世襲の郡司を大領と呼び、那須大領・丈部の流れとして江戸期の大名となるまで存続した那須氏は有道経行とともに武蔵・児玉郡下に河内荘を開いた源経国に娘を稼しており、749年に東大寺大仏への鍍金素材を供出した宮城県遠田郡涌谷町から関東への陸路の途次にて並行して太平洋へ脱け出る水運を与えた鬼怒川畔の下野・芳賀郡長沼郷に隣接し堀込郷の字名が看られ、鬼怒川と並行して南下する一級河川・小貝川を下るならば『続日本後紀』が833年に有道姓を与えられたと記す丈部氏道の出身地たる常陸・筑波郡に到り、同郡下で小貝川と糸繰川が岐れる地にもまた堀籠(ほりごめ)の字名が看られ、糸繰川を遡った大宝沼畔に関城を構えた領主を後醍醐天皇の股肱の臣であった北畠親房は頼みとし、後醍醐帝の子・恒良親王とともに散華した堀籠有元の遠祖とする隆元の本貫は駿河郡下の阿野荘北方にて富士の派する裾野上に在った金窪城を構え、北条義時の被官として侍所所司を務めた金窪行親が隆元を殺したとする『吾妻鏡』の記述から、梶原景時の一族郎党を殺戮した駿河・有渡郡吉川郷に隣接して清水港に注ぐ巴川畔となる堀込郷ではなく、有道経行が本拠とした地が臨む利根川支流の神流川を下った武蔵・加美郡堀込郷であった筈であり、同堀込郷に隣接して金窪郷が看られ、北条義時の被官であった金窪行親は児玉郡真下郷を本貫とした有道姓・基直が有道経行の孫となる片山行時に入婿したことを示唆する叙述が『愚管抄』巻第六に看られ、真下基直を『武蔵七党系図』児玉党条の写本に依って基行とも記すことから、真下基直or基行の子・親弘が加美郡勅使河原郷を所職とし、勅使河原郷に隣接して堀込郷と金窪郷を看る点からも、金窪行親の出自は有道氏であって、本貫もまた駿河郡ではなくして武蔵・加美郡であったものと思料され、このことはまた北条氏の出自を示唆する重要な点と思われます。

 平安期に丈部を称える檀徒を多くした天台にて関東三檀林の一と呼号される古刹を擁した下野・芳賀郡長沼郷から鬼怒川を下って、現在の利根川より岐れる大須賀川畔にもまた堀籠郷の字名を見出し、近傍には関東では稀有な金の鋳物を出土させた関城址を示し、同地はまた有道経行・室の兄・秩父重綱と同祖とした千葉常胤の子が治め、大須賀氏の後裔は陸奥・岩城郡下の好島荘に拠点を保ち、同荘には結城朝光と諱を等しくした伊賀朝光の後裔もまた仲良く分け合って存続しており、陸奥・信夫郡を本拠とした源義経の郎党・佐藤兄弟らの父・基治の正室を上野に在地した大窪太郎なる者の娘と伝え、大久保忠教の『三河物語』や尾張藩士・天野信景の編纂した『浪合記』が挙って14世紀に徳川氏の遠祖が上野より信濃を経て三河へ転じたとすることと相俟って、徳川家康の先手旗本四将の一人に挙げられる大久保忠世とともに、大須賀康高は家康の時代になって初めて徳川氏の配下に加わり先手旗本四将と呼号され、残る四将のうち榊原康政は遠祖の本貫を伊勢・一志郡榊原郷としながら佐藤基治の後裔を唱え、最後に本多忠勝が在地した三河・額田郡洞郷に大須賀康高が転がり込んでいる点は秩父平氏と祖を等しくするという千葉氏の源流を成す平忠頼なる者には経明との別諱を伝え、『将門記』にて平将門の配下に在った多治経明こそが秩父平氏や千葉氏の祖となる筈で、武蔵・加美郡下の丹荘を拠点に製鉄に従った多治比氏から桓武天皇の子として『尊卑分脈』が平高望の祖父とする葛原親王を生んだ真宗を派しており、833年に有道姓を与えられた常陸・筑波郡出身の丈部氏道は葛原親王の家令を務めていることなど、千葉常胤の後裔となる大須賀康高が転がり込んだ三河・額田郡洞郷に先から在地した本多忠勝の姓が多治比氏において本宗であることを主張したものと思料される。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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