丹治 愛 法政大学で英文学を講じているという丹治愛なる学者さんが居られるそうで、丹治という名前は注意していると日本人社会で決して少ない名前とは思えない。

 現代にて丹治と称えている人々は虞らく往古に多治比と称えた氏族の末裔かも知れない。

 平安時代、上野・武蔵国界を成す利根川支流の神流川に臨んだ武蔵・加美郡下にて丹荘を営んでいた多治比氏は製鉄に従った氏族であったという。

 708年に武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅が発見されると、その3年後に碓氷峠から関東に抜ける東山道の途上となる上野の一角に多胡郡なる小さく境界を結んだ郡が新設され、その折斯地に建立された石碑に書家が褒める見事な篆書で碑文を揮毫したと推測される人物が当時の朝廷で催鋳銭司の長官を任じていた多治比三宅麻呂であって、石碑には当人の名が刻まれている。

 711年に新設された多胡郡の号は多治比氏が胡族であったことを示唆し、三宅麻呂の末裔が上野・多胡郡や武蔵・秩父郡を間近くする上武国界に臨んだ加美郡に荘園を営んで拠点としたのであろうか。

 三宅麻呂の兄となる多治比嶋は『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴族のモデルと言われ、嶋の玄孫に該る多治比真宗が桓武天皇との間に生した子が葛原親王であり、板東平氏の太祖となる平高望は葛原親王の孫とされるから、平姓とは多治比の血が流れるという意と思われる。

 上野・多胡郡下に多比良という字名が今日に遺され、良の字は良血を指し、ラと読ませるのは羅列の羅の音を藉りたものと思われ、後醍醐天皇の子らである護良親王や恒良親王・義良親王らを"もりなが""つねなが""のりなが"と読み習わした例は、天皇の良血が流れるからであろう。

 河内・丹比(たじひ)郡は丹比瑞籬宮のような皇居が置かれた所で、郡の東西に応神天皇陵や仁徳天皇陵といった大規模な古墳を見せ、丹比郡に隣接し奈良盆地を流れる大和川が生駒山地と金剛山地を縊って河内へ抜けた地となる安宿(あすかべ)郡に在地した飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継が生んだ藤原冬嗣の後裔が摂関家となることを想うと、多治比氏は中央アジアを原郷とするタジク族であったと思われ、多治比真宗が生んだ葛原親王の玄孫となる平将門の配下に在った多治経明とは武蔵・加美郡に蟠踞した多治比氏を出自としたと思われ、秩父平氏や千葉氏の祖とされる将恒の父という平忠頼には経明という別諱を伝える処から、秩父平氏や鎌倉幕府創業の功臣と謳われる千葉常胤を出した族とは多治比氏を出自としたものであったろうと思われる。

 平とは古代王朝を営んだ外来の氏族の流れを汲むことを意味し、源とは日本人の王より派した血脈であることを意味するものと思われる。


【著者の辞】
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