北条時政 当ブログ著者の遠祖・阿野全成は北条時政の娘・阿波局と婚じたと伝えるから、伊豆・韮山の願成就院に見る北条時政の肖像は著者の遠祖の相貌を示す訳だ。

 東大名誉教授の故・石井進さんが著書で書いていたが、確かに不気味な相貌だ。

 石井さんと同姓同名である稲川会々長を務めた石井進の親分・稲川角二に較べても、伊豆の親分としてさぞかし迫力が有ったろうと想われ、"レナウン娘"を作曲した小林亜星さんがアメリカへ行った時、チャンとかいう中国人のボスに酷似してるとかでレストランの店員がブルブル震えちゃったそうで、「寺内貫太郎一家」で演じた石屋のオヤジは亜星さんの嵌まり役だった。

 伊豆・韮山に見る北江間古墳群の石製棺や今も在る採石場、鎌倉・名越の北条時政邸址と言われたことのある遺跡に見る大手門や岩盤を削った亭を想うと、北条時政が採石事業と関係した可能性を感得させ、鶴ヶ岡の社殿を完成させ、境内から由比ヶ浜に向かって延びる若宮大路の段葛を造成した際には時政自らモッコを担いだと伝える処からそう思う。

 北条時政の素姓とは日蓮正宗大石寺の伝える文書が熊谷直実と従兄弟の続柄に在ったとし、熊谷直実が私市(きさい)党と呼ばれた武士団の出自であったとする説を見る処から、熊谷直実の伯父を久下直光とする処からも、江戸幕府の代官・伊奈忠次が荒川の流路を入間川へ向けた熊谷市久下から元荒川を下った先の埼玉郡北部に私市党に属する武士を多くしたことから、埼玉郡を流れた旧利根川を遡って、児玉郡に拡がった武士団を出自とした者が北条時政であったろうと思われる。

 児玉郡真下郷を所領とした真下基直という武士が在ったことを伝え、基直の子・親弘は利根川支流の神流川に臨む加美郡勅使河原郷を所領としており、久下塚弘定なる一族の武士が在ったとするが児玉郡下の久下塚では居館址が発見されず、しかしながら弘定の子という久下弘親は埼玉郡下に居館址を発見されており、真下基直の娘を貰った基直の甥となる塩谷家遠は岳父であり叔父である基直とともに壇ノ浦から凱旋し京・堀川に止まっていた源義経らを襲撃したとする伝えは摂政・九条兼実の日記『玉葉』の記す処と符合する。

 真下基直の末裔となる真下伊豆守は鎌倉幕府が滅亡した14世紀に利根川支流の神流川に臨む群馬県側の鬼石温泉郷を見る地に城を構え、全国に庭石を供じている神流川上流となる三波石峡の川床に転がる石を愛でたとの言い伝えが在る。

 児玉党の祖となる有道惟広が家令として仕えた藤原道隆の子・隆家より6世となり、源頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼の子となる平頼盛の所領として沼津市大岡に在った牧場の管理人が牧宗親で、池禅尼の弟となる宗親もまた藤原隆家の末裔となり、時政は宗親の娘を晩年の愛妾としている。

 児玉党の遠祖となる有道惟広より5世先となる丈部(はせつかべ)氏道は桓武天皇の子・葛原親王の家令を務めたが、氏道の祖父にとって従兄弟となる者の孫こそ奈良時代に陸奥で史上初となる日本での産金を遂げた丈部大麻呂に該る人物と考えられ、多賀城遺跡から発掘された木簡に記される大麻呂の特徴として左頬に黒子が在ったとする点、北条時政の肖像と等しくし、著者の左頬にも小さな黒子が在る。




【著者の辞】
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