藤原不比等の娘・宮子が生んだ聖武天皇による東大寺大仏の造立にて鍍金の原料が時宜を得たように陸奥から送り届けられたが、史上初となる列島での金の産出を見た陸奥・小田郡涌谷郷は仙台藩奉行の原田宗輔が大老・酒井忠清邸にて斬殺した伊達宗重の居館の在った地である。

 陸奥にて史上初の産金を見た地に鎮座する黄金山神社は『延喜式神明帳』に記されるが、江戸時代には天平の産金を見た地を牡鹿郡下の金華山黄金山神社と思われていたことには寛文事件における幕府と仙台藩との関係を示唆するものを感得させる。

 史上初の産金を遂げた丈部(はせつかべ)大麻呂と等しい名が奈良時代に幾つか見かけられ、多賀城で発掘された木簡に記される陸奥国安積郡陽日郷川合里に在った29歳の男子は左頬に黒子を見せたとし、北北条時政肖像条時政邸址と伝えた伊豆・韮山盆地の一角に在る願成就院の時政肖像にも左頬に黒子を見せ、郷の下に里を設けたのは715年から740年であり、一方『万葉集』巻第二十は下総・印旛郡の丈部大麻呂が755年に防人として筑紫へ赴く際に詠んだ歌を載せており、749年に東大寺へ届けられた金を発見した丈部大麻呂は上総に在った者とされ、この大麻呂は後に多治比濱人によって殺された藤原種継を長官とした造長岡宮使を務めたと伝え、多治比真宗が生んだ桓武帝の子である葛原親王の家令を務めた丈部氏道は常陸・筑波郡の出身であったと『続日本後紀』は記す。

 『醫道系図』は丈部氏道の祖父にとって従弟に該る者の名を羊と記し、708年に武蔵・秩父郡黒谷郷で自然銅が発見された時に催鋳銭司(ーじゅせんし)の官に就いていた多治比三宅麻呂が揮毫したと考証される日本最古の石碑である多胡碑が711年上野に新設された多胡郡に建立され、碑文は羊なる者に新郡の経営を委ねたという趣旨を伝え、往時に銅貨の鋳造が行われていた山口市内の地名に"じゅせんし"を見る如く、多治比三宅麻呂が晩年に配流された伊豆にも"しゅぜんじ"の地名を見せ、『醫道系図』が丈部氏道の親縁となる羊の子を山人、山人の子・継主を大部の祖とする点、陸奥で産金を遂げた丈部大麻呂の素姓を憶測させるものが有る。


【著者より】
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