上野・邑楽郡下には長良神社・長柄神社と号する社が夥しく見られる。

 大和・葛城郡長柄郷は二上山麓の竹内峠を越えて難波に至るたけのうち街道のターミナルであり、武内宿禰の子・葛城襲津彦の本貫である。

 現皇室の始祖となる継体天皇を尾張草香が擁立してより170年を経て、尾張大隅は再び天武天皇を支援し、天武帝の血脈が百年続いた後、天智天皇の孫となる光仁天皇の即位に功績を成した者らを『愚管抄』は藤原式家の百川と北家の永手と記すものの、藤原魚名の名は著さない。

 百川の父・宇合は常陸の長官を任じているが、藤原不比等が編纂した大宝律令の発布された年に創建されたとする大宝八幡宮は那須烏山に源を発する一級河川の小貝川から分岐する糸繰川を遡った地に鎮座し、両川の分岐する近傍にして見遙かす平坦な大地の一角の筑波山を望見させる地には堀籠神社と号した祠を見る。

 常陸・筑波郡出身の丈部(はせつかべ)氏道が桓武天皇と多治比真宗の間に生まれた葛原親王の家令を務め有道姓を与えられたのは仁明天皇の即位する833年であったが、なるほど百年の星霜を隔て天智の王統を復興させることに功を成した藤原百川の兄・良継は仁明帝の父・嵯峨天皇の母方祖父となっているものの、藤原式家は後裔を識らせず、百川とともに光仁即位に功を成した北家・永手もまた後裔を識らせない。

 藤原百川の兄・良継は嵯峨帝の外祖父となったものの、百川の甥・種継は丈部氏道が仕えた葛原親王の母にとって一族となる多治比濱人によって暗殺され、種継の子らは嵯峨帝の兄・平城上皇の乱で死んでいる。

 平城上皇の野望を挫いたのは永手の兄にとって孫となる冬嗣で、尚侍を任ずる種継の娘・薬子に対抗すべく設置された蔵人所の長を任じた冬嗣の母は桓武帝の後宮で良岑安世を生んだ百済永継であり、冬嗣に次いで蔵人頭を任じた者が良岑安世であった。

 大和乙継の娘であった百済永継らの"つぐ"の偏諱は藤原良継・種継ら式家から北家へシフトした。

 嵯峨帝の子となる仁明天皇の即位した年に有道姓を与えられた丈部氏道の子から曾孫に亘って、雄継ー氏継ー継材とやはり"つぐ"の偏諱を襲い、継材の甥となる有道惟広は一条天皇皇后・定子の父である藤原道隆の家令を務め、有道惟広の子・惟能の室は菅原道真の曾孫となる薫宣の娘であったが、菅原道真文子天満宮の乳母であった多治比文子が道真の霊を祀った祠を起源と成すものが京都市下京区に鎮座する文子天満宮であり、その後身と目される上京区の北野天満宮に納められた日本刀の髭切丸は源満仲が作らせたものと伝え、鎌倉期に北条貞時が入手した処、新田義貞が収めた伝来の経緯を説かれるが、常盤御前が生んだ源義経の兄・阿野全成は北条時政の娘・阿波局と婚じ、その娘の婿となって駿河郡下の阿野荘を相続した藤原公佐の後裔となる阿野廉子が生んだ後醍醐天皇の子・恒良親王を奉じて新田義貞が籠城した越前・敦賀の金ヶ崎城にはまた阿野全成の息・時元(『尊卑分脈』では隆元)の後裔となる堀籠有元が籠城した。

 藤原北家祖の曾孫となる冬嗣は百済永継を母とし、丈部氏道が仕えた葛原親王は多治比真宗を母とし、丈部氏道が有道姓を与えられた時代を生きた冬嗣の子・長良は弟・良房に較べ生涯に亘って官途を不遇にしたが、長良が親昵にした文徳天皇は仁明帝の子として史上初の幼主の史上初の人臣摂政を務めた良房の主・清和の父であり、長良が藤原魚名の血脈を引く女より生した娘の生んだ陽成の祖父であって、学界では陽成の後胤が源満仲らであるとする説を見る。

 長良の子・基経は平安4百年間で最長寿を見せた陽成を退位させ、丈部氏道が有道姓を与えられた年に即位した仁明帝の子・光孝を50歳を優に越えた年齢で即位させている。

 藤原北家祖の五子とする魚名の母は片野朝臣との名のみ伝え、後世に全く素姓を識らせない謎の女性であるが、大阪府交野市には私市駅の称を見出し、丈部氏道の出身地である常陸・筑波郡と江戸川の前身である太日川を挿んで隣接した武蔵・埼玉郡には私市党と呼ばれた在地領主の一団が在ったが、魚名の父親との続柄と等しくした魚名の五子・藤成は藤原姓にして諱に藤の字を重ねる奇妙な印象を与え、藤成の曾孫となる秀郷は武蔵・埼玉郡から太日川を遡った下野・安蘇郡下を本拠とし、武蔵・埼玉郡と下野・安蘇郡との間に位置する上野・邑楽郡下には藤原長良を祀った社を夥しく見せ、藤原秀郷が討った平将門は丈部氏道が仕えた葛原親王の後裔とされ、平将門より百年早く門の字を偏諱に止めた藤原良門は冬嗣の子とされながら拙い官途で夭折したとし、しかしながら良門の後裔として藤原道長の時代を生きた紫式部や武家が台頭する12世紀から朝廷に顕れ、中世には武家との姻戚関係を見せる勧修寺流藤原氏などを輩出して、勧修寺流の祖とする高藤もまた藤原姓にも拘わらず諱に藤の字を重ねる奇妙な印象を与える。

 私市党が蟠踞した武蔵・埼玉郡にて旧利根川=現中川に最接近する元荒川を遡った大里郡久下郷を所職とした直光と甥の熊谷直実は私市党に属した領主であったとの説を見せ、北条得宗の被官であった南条時光を施主とする日蓮正宗大石寺の伝えた文書は熊谷直実と北条時政を従兄弟の続柄に在ったとし、埼玉郡久下郷に居館址を確認される親弘の父・久下塚弘定は有道氏の後裔とする児玉郡に拡がった一団の出自とされ、利根川より分岐して児玉郡を流れる小山川を遡った山中に河内荘を立券した源経国は後白河法皇の子・二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘を正室としながら有道経行の娘をも迎え、経行が本拠とした官営牧場と隣接する地に河内荘を立券した訳で、有道経行の本拠であった官営牧場と源経国の開いた荘園とを結ぶ山道の途上となる児玉郡稲沢郷は源経国の子・盛経の所職であったが、同郷に見る稲聚神社の号から想起させることは源義経の最期に至るまで主に付き随った鈴木重家が紀伊・名草郡藤白郷を本拠とした武家を出自とし、藤白鈴木氏の分流とする江梨鈴木氏が伊豆半島東岸の稲取岬一帯を拠点としていたことである。

 頼朝の曾祖父となる義親を罪科に因り処断した平正盛の娘を母とし、義親の弟ながら源頼信ー頼義ー義家と3代続いた河内守を最期に任じて河内源氏の惣領となった義忠を父とした経国の子となる稲沢盛経は平清盛の祐筆を務めたとする伝承を見せ、『義経記』や『吾妻鏡』の叙述に拘わらず、実に常盤御前を母とする源義経とその兄・阿野全成らの父は稲沢盛経であったかも知れず、稲沢盛経の後裔と唱えた武家が紀伊・日高郡下の野長瀬荘に在地し、武蔵坊弁慶は日高郡下に生まれたとする伝承を見せる。

 阿野全成・源義経らの母・常盤御前が晩年に隠棲したとの伝承を見せる地が武蔵・多摩郡成木郷であり、入間川の支流を遡った山間の地に在地した領主はまた周囲に蟠踞した領主らの一団と帰属を異にして私市党に属する武家であったと伝え、同族が蝟集した地から懸隔の地に在った私市党の領主が治めた地に常盤御前は余生を過ごしたことになる。

【著者】堀籠 亮一 旧『日本史疑』はこちら

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