北条時政 同じことを何度も書いて申し訳ないんだけども、東北地方に蟠踞していた蝦夷っちゅうのは日本列島で初めて王朝を築いた部族の子孫であったかも知れず、関東から東海道に分布した丈部(はせつかべ)っちゅうのは朝廷が蝦夷と言葉の通じる古代王朝を営んだ部族の子孫で朝廷に帰順した者らであって、馳せ遣わされた先は東北地方の蝦夷の所だったんじゃないか。

 10年前に死没した古代史の研究家・佐伯有清さんは昭和43年に利根川に臨む埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文に見られる杖頭人の子孫を丈部と呼んだと説いていたけど、金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳を含む埼玉古墳群は房総半島の鋸山から切り出した石材が使われてるそうで、東京湾に注いでいた旧利根川を遡って石材を運んだ人々らは相当な文明の程度を示していたと思われ、房総を「房の国」と呼んだのは房総半島が房の形をしていることを沿岸を船で航行して判ったのだとしたら、三角比を識っていた人々らであったと考えられる。

 大阪府下に見られる巨大な墳墓の幾何学的な測地からして三角比が使われた感じがし、三角比を考案したギリシア人こそ日本列島に初めて王朝を築いた人々らでなかったかというロマンを覚える。

 古代王朝を営んだ部族は日本人に逐われて東北地方に蟠踞し、東北の地にて749年に初めて国内で金が発見されたとする伝よりもっと古く、彼らは東北で産金を計っていたかも知れず、為に桓武天皇は先王朝の遺民を平らげ東北の産金を掌中に収めるべく軍を東北へ差し向け、万が一を考え蝦夷の攻勢が近畿に及んだ時、奈良盆地よりは山城の方が山陰へ退却することが容易であると慮り奠都を成したのであって、征夷事業と奠都事業とは表裏を成す政策であったと思われる。

 日本列島で初めて王朝を築いた人々がギリシア人であったと思う訳はギリシア人が中央アジアに建国した王朝をバクトリア王朝と伝え、それはもっと古くから中央アジアに棲息していたイラン系の人間らが呼んだ地域の名称とされるが、バクテリアという語は「小さな杖」というギリシア語だそうで、朝廷が馳せ遣う部民に丈部と漢字を当てた処から故・佐伯有清さんが推測した通りと思われ、中央アジアで古くからバクトリア地方と呼ばれた名称は存外ギリシア人に征服された後に呼ばれた名称であったかも知れない。

 応神天皇陵と仁徳天皇陵との間に位置した河内・丹比(たじひ)郡の号はバクトリア地方に見るタジキスタン共和国のタジク族を指すものかも知れず、製鉄に従った多治比氏とはタジク族の子孫であったように思われ、丹比郡に隣接して生駒山地と金剛山地との間となる山門を抜け纏向遺跡近くまで遡る大和川が流れた安宿(あすかべ)郡の号はまたギリシア人が営んだバクテリア王朝と接してイラン・イラクを版図としたパルティア王朝を中国人が安息と記し、朝鮮語では安宿(あんすく)となった辞を指すものではなかろうか。

 百済遺民の娘を母とした桓武天皇が多治比真宗に生ませた子が葛原親王であって、板東平氏の太祖となる平高望は葛原親王の孫とされ、安宿郡に在地した飛鳥部奈止麻呂の娘である百済永継は桓武天皇の後宮に入内した後、藤原内麻呂との間に摂関家の祖となる冬嗣を生んでいることを思うと、日本列島で初めて王朝を築いた人々は日本人でなかったようにも思われ、アイヌが白人とする説は実に日本史上初の王朝を営んだギリシア人の子孫こそアイヌ人ではなかったか。




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