豊臣秀吉に仕えた尾藤知宣の父・重吉は北条泰時に仕えた尾藤景綱の後裔とし、『吾妻鏡』では専ら尾藤左近将監と記される人物は歌人・西行として識られる佐藤義清と等しく藤原秀郷の流れを汲む武家であったとされるが、高祖父・曽祖父が尾張守に補され、高祖父より父・伯父・従兄に至るまで知の偏諱を継承しながら本人のみは偏諱を通有しなかった。

 鎌倉末期に内管領と呼ばれた北条得宗被官らを統括する職掌たる家令職が1224年に設けられ、初めて同職に就いた尾藤景綱は北条泰時の邸内に居住して仕えていたと云う。

 北条泰時の時代を生きた得宗被官の長となった者らとして尾藤景綱の他に『吾妻鏡』は平盛綱と諏訪盛重を記しているが、諏訪盛重もまた尾藤景綱を『鏡』が専ら左近将監と記すように殆んど諏訪蓮仏と法名で記されており、実名のみを記されたのは平盛綱だけである。

 先の記事で著者は北条得宗被官・平盛綱を中関白・道隆とその嫡子・伊周の家令職を務めた有道惟広・惟能父子の後裔として平安後期に武蔵から上野に繁衍した武士団である児玉党に属した庄家長の甥として児玉党の惣領と目された高綱と同一人物と推察した。

 同様に北条得宗被官であった尾藤景綱もまた平盛綱こと児玉党有道氏に属した高綱の従弟に該る景綱であったと推察する。

 この尾藤景綱の後裔を唱えた重吉は織田信長の家臣であった森長可に仕え、その子に至って遠祖とする景綱の伯父の諱であった知宣の諱を復活させ、官途名を西行法師と等しく左兵衛尉とさせている。

 少しく気になるのは尾藤重吉の弟として主膳の官途名のみを伝え、諱を伝えない人物を看ることだ。

 兄・重吉が織田家中の森長可に仕えた後も遠江・引佐郡に残ったと伝える尾藤主膳は浜名湖東畔の堀江城主・大沢基胤に与し、徳川家康が図る遠江の併呑に備えて1568年奥浜名湖北東畔の堀川城に籠城した。

 一方、信長の家臣・秀吉は1564年尾張・葉栗郡(美濃・羽栗郡)下の松倉城主・坪内利定と同郡下の鵜沼城主・大沢次郎左衛門らを斉藤龍興から離反させることに成功したと『坪内文書』が記しており、これが確かな史料上に初めて現れる秀吉の事績だ。

 尾藤主膳が徳川家康の遠江侵攻に備え大沢基胤に与し堀川城に籠城した1568年には、秀吉は近江の六角承禎の本拠である観音寺山城の付城・箕作城を攻めたと『信長公記』が記している。

 同年中の秀吉は六角承禎が甲賀郡へ逃げた後在京していたとする。

 翌1569年8月、秀吉は信長の下命で但馬への出兵を統率したとする。

 一方、尾藤主膳は同じ1569年の3月徳川勢が堀川城を陥落させると堀江城主・大沢基胤の許へ奔るが自刃させられたと云う。

 秀吉に仕えた尾藤知宣、秀吉の実弟・秀長に仕えた尾藤知宣の弟・頼忠らの叔父と伝える尾藤主膳を秀吉と同一人物とするには無理が有ろうか・・・