宮城・山形両県境を成す東北山脈の一角に標高1,500mを示す船形山が在り、別号を御所山ともする。
 親潮と黒潮がぶつかり恰好の漁場を沖合とする金華山に臨んだ牡鹿半島と日本三景の一である松島との間に位置する石巻に注いだ旧の北上川を遡ると、東北山脈の麓に湧く日本屈指の名湯・鳴子温泉郷から発する江合川が分岐するが、『続日本紀』は江合川畔の小田郡涌谷郷から上総の丈部(はせつかべ)大麻呂が産金を遂げ749年に昇叙されたと記す。
 この丈部大麻呂について宮城県多賀城跡調査研究所が発掘した木簡は「年齢29歳、左頬にほくろ」とし、伊豆・韮山盆地の北条時政邸址となる願成就院の伝える時政肖像と似せるが、左頬にほくろができる遺伝学的原理は理科方面の先端的研究家に尋ねるしかない。
 宮城県多賀城跡調査研究所の発掘した木簡はまた、丈部大麻呂の出身地であるか在所であるか「陽日郷川合里」と記し、朝廷が郷の下に里を設けた期間が715年から740年であり、『倭名類聚抄』が陸奥・安積郡に陽日駅を記すことから、『続日本紀』における記述と考え併せ、東北地方に赴任した後に上総へ転任したものと思われる。
 『万葉集』巻20には下総・印旛郡の丈部大麻呂が防人として筑紫に赴く折に詠んだ歌が載せられている。
 4389 潮舟しほふねの舳越へこそ白波にはしくも負おふせたまほか思はへなくに
 『万葉集』は詠歌した大麻呂の姓(かばね)を直(古代の家格)としているが、陸奥・小田郡下での産金を朝廷に献納した百済王敬福が上総守から陸奥守へ転任したのは746年であるから、両総に関わる丈部大麻呂が百済王敬福に随って東北に赴いたとも考えられ、大麻呂による749年の産金に係り『万葉集』巻18は
    海行ば水漬く屍
      山行ば草生す(くさむす)屍
    大君の辺にこそ死なめ
      顧みは為じ
とする大伴家持の詠歌を載せており、大伴家持はまた783年下総・印旛郡台方郷に麻賀多神社を建立していることからも、丈部大麻呂が金の採掘に関わった人間であったことを推測させ、平安期の下総・香取郡下に在った千田荘は九条家の所領であったが鎌倉幕府創業の功臣・千葉常胤により接収され、近世には多胡藩が立てられている点、丈部大麻呂が陸奥で産金を遂げた翌年となる750年に駿河湾奥の多胡浦から紀姓を伝える楢原造東人がまた産金を遂げ、また大麻呂の産金に先んじ748年に下野・那須郡にて産金が有ったとする伝承を見せ、平安初期の那須大領を丈部と伝えることからも、『続日本後紀』が833年に有道姓を与えたと記す葛原親王の家令を務めた丈部氏道は常陸・筑波郡の出身とするが、『醫道系図』は丈部氏道より14世先とする船瀬スクネを常陸・久慈郡の国造とし、氏道より10世先の名を稲敷として太平洋岸の久慈郡より内陸の稲敷郡への進出を示唆し、稲敷の子を真髪部の祖とする点は鬼怒川に沿って北上し真壁郡に進出したことを推測させ、有道姓を与えられた丈部氏道の祖父にとって従弟となる者の名を羊とする点は708年に武蔵・秩父郡下で銅が採掘され往時の台閣にて次席であった多治比三宅麻呂が711年上野に新設された多胡郡に遺る碑に揮毫した新郡の領知者を羊と記しており、武蔵一宮の神職として藤原仲麻呂の叛乱を鎮圧して武蔵国造に補された丈部不破麻呂や那須大領の丈部、常陸の丈部らは両総・陸奥に関わりをもった丈部大麻呂と同じく貴金属の採掘と関わりが有ったのではないかと思われる。
 東北に赴任し筑紫にも赴任した関東の防人とはプロレタリアートであったか?
 Wikipediaに以下の記述が在る。

 715年5月 関東地方で大規模な大地震があり、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の富民千戸(約二~三万人)を陸奥国北部に移し黒川以北十郡(牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻、賀美、黒川)を設ける。これは、いわゆる柵戸で、キヘ・キベ・キノヘなどと読み、古代、東北辺境開拓のために、城柵周辺に配置されて、城柵の設けに守られながら開拓に従事するとともに、非常のことがあれば、自らも兵に協力して防衛にも当たった武装開拓移民であった。(続日本紀元明紀)

 『万葉集』巻20に防人として顕れる丈部大麻呂は直姓であり、715年に関東から今の宮城県域に移された者らは富民であったとし、そうした者らが防人を任じ、東北の開拓に努め、貴金属の採掘に関わっていたとすると、どうも防人は集団を統率し土地を支配する長が任じたもので、そうした長が東北の開拓と貴金属の採掘に努めていたように思われる。
 桓武天皇の征夷事業と奠都事業が那辺に目的が在ったかを論ずるのは避け、丈部大麻呂は隠岐守に補され、長岡京建設の任に就いている。
 『愚管抄』巻第一は皇統譜第6代・孝安天皇の母方伯母を"オキツヨソタラシ媛"とし、媛は尾張連の祖であるとする。"オキツヨソタラシ媛"は"隠岐の余所をたらす媛"と解釈し得るが、尾張連の祖は一般に天火明命とされ、若狭湾に臨む丹後一宮の神職を世襲した海部氏は尾張氏と祖を等しくすると言われ、若狭湾に注ぐ由良川は利根川や鬼怒川、北上川とともに内陸深く船の遡航を許す流域面積の大きい河川であり、京都府・兵庫県境を成す本州島にて最低標高の分水嶺を山陰側から抜けた播磨・飾磨郡の号は奈良時代に朝廷が関東から富民を移した今の宮城県下で北上川の支流である江合川を遡った先に見る加美郡色麻町の称と音を等しくし、また武蔵・加美郡は上武国境を成す利根川支流の神流川に臨む点から日本列島に鉄器文化をもたらした部族を神としたならば、奈良時代に関東に在地した丈部とは斯地の原住民として朝廷の現業に従った土民の類ではなく、寧ろヤマト王権が関東を制圧した遺民であった可能性を感得し、ヤマト王権を担った主勢力とは天火明命の号から、アレクサンドロス3世の妃ロクサネの名や父をサマルカンド出身とする安禄山の禄山がタジキスタン共和国ソグド州地方の古い語で"明るい"を意味することからも、火を拝む宗教の発祥した地から天山山脈を越えて東アジアに進入した胡族であった可能性を憶測させ、天照大神の孫とする天火明命の弟・ニニギ命は兄が山陰道から近畿に向かったのに対して筑紫・山門郡から阿蘇山麓を経て高千穂峡を抜け日向から黒潮に載って紀伊半島に上陸し、紀伊・有田郡下に在った阿弖河荘の号が有田川の転訛に由来すると思われ、朝廷に屈服した蝦夷の長を阿弖流為と記すのは紀伊・有田郡に上陸した天孫族の後裔であることを意味し、出雲族の祖・須佐男之命は山口県萩市の須佐湾に上陸した筈で、皇統譜第6代・孝安天皇の母方伯母が隠岐と関係有りそうな名を伝え、島根県松江市八雲に熊野大社が在り、若狭湾に注ぐ由良川を遡航して京都府福知山市大江町に元伊勢神宮内宮・外宮が在るのに、熊野権現も伊勢神宮も紀伊半島の東岸に在って、皇統譜第10代・崇神天皇の母を伊香色謎命と伝え、若狭湾に臨む敦賀から野坂山地を越えて直ぐとなる琵琶湖畔の近江・伊香郡に属した滋賀県下にて織田信長の妹が嫁いだ浅井長政の居城・小谷城下を八島とし、鳥取市は旧八頭郡であったことなど、タジキスタン共和国に至ったギリシア人を派したイオニア人がエーゲ海域に進出する少し前に史上初の鉄器文化を営んだヒッタイト帝国の王都はハットゥシャであり、ヒッタイト人らは自らをハッティと呼び、三角比を知っていたギリシア人は極東の列島の地形を把握して房総半島が房の形を成すことを疾うに覚知していて、琵琶湖から瀬田川→宇治川→淀川→大阪湾→和泉・堺→大和川→亀の瀬=生駒・金剛両山地を縊る山門→纏向遺跡が証す巻向宮の実在性と大和・磯城郡下に鎮座する日本最古の社として三輪山を神体とする大神(おおみわ)神社の天孫族の行路を推して、新潟美人だとか秋田美人など東北に白人的な容貌を頻見するのは『古事記』が吉林省から朝鮮半島北部に棲息したエヴェンキ族を指す粛慎の語と分けて蝦夷と記した東北の俘囚とは実にヤマト王権を担った天孫族=ギリシア人であったことを現代に教えることではなかろうか。