巌流島で宮本武蔵と闘った佐々木小次郎が師から承け継いだ剣術は中条流に念流を併せたものだったそうで、中条流の祖と目される中条出羽守頼平は鎌倉幕府の評定衆を務めた人物であり、『尊卑分脈』は頼平の曾祖父を中条家長としています。
 中条家長は承久の乱後に三河・賀茂郡下の高橋荘地頭職を得て尾張守護に補された人物ですが、承久の乱より4年後となる1225年に設けられた評定衆11名中の一人に列し、御成敗式目の制定に連署しています。
 しかし、家長の父は僧籍に在った者とし武蔵・埼玉郡下の中条保を所職としたと伝え、中条保には家長の父にとって兄の子となる盛綱もまた在ったとします。
 家長の祖父・成任が初めて埼玉郡成田郷に所職を得たとされますが、家長の祖父よりさらに遡って家長より5世先とする小野義孝が武蔵・多摩郡下の横山荘に所職を得たとし、義孝の弟・時資の後裔は武蔵・那珂郡猪俣郷に所職を得たとされます。
 小野義孝が所職を得た横山荘とは14世紀以降に斯地を領した京都の東福寺に遺る文書から多摩丘陵を指す枕詞に由来した号と思われ、現在の八王子市と日野市の一部を併せた船木田荘における新荘に該るものと考えられています。
 源氏の旗揚げの在った1180年、九条兼実の姉として崇徳天皇中宮であった藤原聖子から九条兼実の長子・良通に船木田荘を譲渡した文書に同荘が本荘と新荘に分けられて記されています。
 因みに、九条兼実の曾孫となる人物が鎌倉幕府第4代将軍となる頼経ですが、頼経の祖父となる良経とともに頼経は源頼朝が逐った義経の偏諱である経の字を帯びている点は歴史の真相を探る上で極めて示唆深いものが在るのです。
 と申しますのも、義経がまこと頼朝の実弟であったか疑わしく、それを傍証する手がかりとなるからです。
 話を元に戻しまして、中条家長の祖父・成任の兄・経兼は祖父となる小野義孝以来の横山荘を継承した一族の惣領であったとし、経兼もまた経の偏諱を帯びていますが、経兼の次子・盛経は相模・大住郡下の糟屋荘に所職を得たとし、この盛経という名の訓は何となく中条家長ととともに武蔵・埼玉郡下の中条保に在地したと伝える家長の従兄・盛綱の訓と似ており、盛経という名自体にもまた義経が頼朝の実弟でなかったことを証す手がかりの一つを与えるのです。
 相模・愛甲郡下の糟屋荘に所職を得た盛経の後裔と考えられる者として、学界が九条兼実の弟の著と考証する『愚管抄』巻第六に顕れる糟屋有末(有季)が在り、比企能員の謀殺に成功した北条時政が時を移さず討手を差し向けた源頼家の嫡子・一幡の御所を警衛していた糟屋有季に係り、『抄』は寄手の中から「殺しては意味がない。出してやれ、逃がしてやれ」(『日本の名著9』中央公論社刊 昭和46年 p.284)といった怒号が聴かれたと記しています。
 江戸時代の旗本であった糟屋氏の系図は藤原冬嗣の子・良方の流れを訴えており、後に摂関政治を謳歌する後裔を派した藤原冬嗣の子らで良方と良門は何れも冬嗣の子らしからぬ不遇な境涯を過ごしていますが、良方の母方祖父は百済王仁貞であり、良方の娘は平高望に嫁している点は示唆深いものが在り、江戸旗本・糟屋氏の系図は家祖として源義家の嫡子であった義忠と同じ名や、糟屋義忠の子として『吾妻鏡』に顕れる鎌倉末期の内管領・長崎円喜の父・光綱と同じ名や、糟屋光綱の子とする盛久・盛綱らの名を記し、JR鎌倉駅から長谷の大仏に向かう県道沿いに平家の盛久に纏わる碑が見られますが、中条家長の従兄となる盛綱や最初期の北条氏被官である平盛綱らの名は平家末期の大番頭であった平盛綱の名と等しく、江戸旗本・糟屋氏の系図ではさらに盛久の子として『吾妻鏡』にて頼朝の祐筆として顕れる平盛時の諱と等しくする名が看られ、播磨・糟屋氏の系図に拠ると盛久の曾孫となる者が『愚管抄』に顕れる有季としています。
 しかし、異同を甚だしくする写本を夥しくした『武蔵七党系図』横山党条は江戸旗本・糟屋氏や播磨・糟屋氏の系図と異にして、押し並べて糟屋氏の祖を盛経と記しています。
 横山氏の祖となる小野義孝の弟・時資の後裔は武蔵・那珂郡猪俣郷に所職を得たとしますが、猪俣郷近くに発する志戸川を下って行きますと古戦場で名高い五十子郷で小山川に合流し、利根川に合流する小山川は五十子郷にて南側へ分岐する志戸川と反対になる北側で女堀川が分岐しますが、小山川の源流を近くする稲沢郷には稲聚神社が看られ、さらに小山川の源流には今も採石場が看られ、稲沢郷に隣接する河内の字名は12世紀に河内荘が立券されたことに由来する地名です。
 武蔵・児玉郡下に在った河内荘と隣接する稲沢郷は河内経国と子・盛経父子のそれぞれが領知した地であり、経の偏諱を通す父子は源義忠の子と孫となり、河内経国は新田・足利の祖となる源義国を養父とし、白河院政期の摂関家であった師実の子・経実の娘を正室としていましたが、経国は側室としてさらに有道経行という者の娘を迎えており、有道経行が拠点とした勅旨営牧は経国の子・盛経が所職とした稲沢郷と尾根を挿んだ反対側に在ったのです。
 有道経行の曾祖父となる惟広は一条天皇皇后の父である藤原道隆の家司を務めていましたが、『武蔵七党系図』横山党条は概ね横山氏祖となる小野義孝の曾孫・成綱にとって弟とする者が中条家長の父であったとし、家長は叔母が生んだ八田知家の猶子となっており、知家の父・宗綱は下野・八田郡を領知していましたが、宗綱の父・宗円は摂関政治末期となる1063年に下野・一宮の二荒山神社別当職に補されたとし、桓武天皇の征夷事業で名高い紀古佐美の後裔を唱え芳賀郡下に蟠踞した益子氏の娘を室とし、芳賀郡と隣接する常陸北部の鬼怒川畔で伊佐荘を営んだ伊達氏の遠祖が蟠踞した地にまで勢力を揮ったことを伝え、宇都宮氏の祖とされる宗円は藤原道兼の曾孫であるとし、有道惟広が仕えた藤原道隆の次弟となる人物が藤原道兼でした。
 八田宗綱の娘が伊豆に配流された頼朝に仕送りを続けた寒河尼であり、寒河尼の婿となって下野・都賀郡下の小山荘を領知した太田政光が小山氏の祖となる訳ですが、『尊卑分脈』が政光に至る3世代を行高ー行政ー政光とする点は非常に興味深く、政光の父とする行政の名は二階堂行政の諱を想起させ、政光の祖父とする行高の名は武蔵・児玉郡下の河内荘と隣接する地に拠点を構えた有道経行の子・行高の諱を想起させて、朝廷の吏僚であった有道氏が摂関政治の隆盛を見た11世紀に上野から武蔵に亘る広範な領域に在地領主として発展した理由とは、国衙に入り込んで太田文(土地台帳)を掌握したことに因るものであったことを憶測させ、有道経行の娘を側室とした河内経国が荘園を営んだ地から発する小山川を下って真実は有道氏の血脈である二階堂行政や小山氏祖となる政光らが下野・都賀郡へ拠点を展げたのではないかと思わせるのです。
 しかし、異同を甚だしくする写本の多い『武蔵七党系図』横山党条に看られる中条家長の兄弟として義季とか家広などという名は『七党系図』児玉党条にて有道経行の甥の子とする家弘を想起させ、有道氏系家弘の孫とする家長の名は中条家長の諱を連想させて、『七党系図』児玉党条は有道氏系家長の弟らとして小山川から分岐する女堀川を遡って行くと久下塚郷を所職とした弘定、さらに女堀川を遡った四方田郷を所職とした弘長らの名を伝え、四方田弘長の諱の訓は横山氏祖となる小野義孝から7世として和田義盛との姻戚関係から横山氏族滅の憂き目に遭った時兼の弟でありながら源頼朝に近侍して横山氏の族滅から免れた平子広長の諱の訓と等しく、四方田郷からさらに女堀川を遡った真下郷を所職とした基直は異同を甚だしくする『武蔵七党系図』の写本において概ね有道家弘の叔父に位置付けられ、しかし、真下基直の子・親弘は児玉郡に隣接した加美郡下にて利根川の支流である神流川畔の勅使河原郷を所職としたとし、真下基直の諱を異同を甚だしくする『武蔵七党系図』の写本がしばしば基行とする点、『愚管抄』巻第六に顕れ比企能員が源頼家の嫡子・一幡を生した娘を儲けた室の父とする"ミセヤノ大夫行時"が有道経行の孫・行時を指すとするならば、『愚管抄』が記す通り有道行時の猶子となった者が真下基直であって、養父の偏諱を帯びて基直が基行とも伝わった可能性を感得し、真下基直の卑属が北条時政である可能性を予測させるのですが、女堀川が小山川と合流する手前の久下塚郷を所職とした弘定の子・弘親は古利根川の通う今の埼玉県加須市久下に居館址の遺構を見せ、久下塚弘定・久下弘親父子の所職の間に位置して利根川畔となる得川郷を所職としたという源義国の孫・義季の名と等しくする名が中条家長の弟として伝わっているのです。
 源義国が扶育した河内経国に娘を嫁した有道経行の拠点は河内経国が開いた荘園と尾根を挿んで隣接しますが、経国が所職とした河内荘下から発する小山川を下ると利根川畔の上野・新田郡得川郷に到り、尾張藩士の天野信景が古伝を筆写したという『浪合記』は得川有親が子・親氏とともに三河・碧海郡を経て三河・賀茂郡に入ったとし、『倭名類聚抄』は得川郷の訓を"えがわ"郷とするが、伊豆・韮山盆地の素封家として江戸時代末期を生きた幕府代官の江川英龍の名を想起させ、韮山盆地に在った者が北条時政であり、得川有親・親氏父子が入った三河・賀茂郡には中条氏が挙母城を本拠として戦国末期まで蟠踞し、戦国の世相を深くし始めた15世紀末に松平親忠と中条秀章が闘ったとする伝が在り、その時中条氏に与した者として那須惣左衛門の名を伝え、1533年にも徳川家康の祖父として三河を制圧し松平氏を戦国大名に押し上げた清康が那須氏の与する中条常隆を降しており、1558年には今川氏の配下であった徳川家康がやはり中条常隆を降し、今川義元を葬った翌年の1561年には織田信長が中条常隆を居城・挙母城から逐っています。
 此処で目を惹く名が那須氏であり、河内経国に娘を嫁した者として有道経行の他に那須氏が在ったことを伝えます。
 鎌倉時代から織田信長に滅ぼされるまで存続した中条氏の祖・家長の伯父とする成綱のさらに伯父となる横山経兼の玄孫・時兼は和田義盛との姻戚関係から族滅の憂き目に遭うが、時兼の弟とする平子広長は有道経行の兄から派したとする四方田弘長と生きた時代といい諱といいかなり近くする印象を与え、横山氏の分流とする中条家長の諱もまた四方田弘長の長兄となる家長と等しくしつつ横山氏の族滅から免れており、横山時兼の弟という平子広長は源義経とともに壇ノ浦合戦後に凱旋して後白河法皇より官職を与えられながら以往も頼朝に近侍しており、平子広長の居館が在った武蔵・久良岐郡平楽郷と中条家長の後裔として三河・賀茂郡に入った者らとは別にして関東に止まった流れが拠点とした同郡蒔田郷は極めて近い距離に在ります。
 北条時政の尊属らしき真下基直を『武蔵七党系図』児玉党条は有道経行の兄の子とするが、もし基直を有道経行の祖父・惟能の従兄・定直の卑属であるとするならば、有道定直こそ摂関家の家人として源義家の父に義家の母となる女と鎌倉の邸を与えたという平直方の正体であり、藤原道長に仕えた源頼光の郎党・碓井貞光とは『今昔物語集』に顕れる頼光の郎党・平貞道と同一人として相模の大身・三浦氏の祖とする平忠光・三浦忠通父子とも重なる偶像であり、虚構の人物として伝えられた三浦氏の祖とは実に源義家の母方祖父となる平直方こと有道定直であって、その定直の卑属に該る真下基直の後裔が北条・徳川の淵源に連なるものと思われます。
 鎌倉幕府創業の功臣・三浦義明の子となる佐原義連の子・盛連こそ伊豆に配流された頃から頼朝の小姓を務めた安達盛長であって、盛長の孫とする安達義景は佐原義連の孫となる横須賀時連であり、安達義景=横須賀時連の子が安達泰盛となって、安達泰盛の子・盛宗こそ内管領・長崎円喜であった。
 陸奥・安達郡は今の福島市に該るが、福島県河沼郡下に在った蜷川荘の地頭職を佐原義連の孫・景義と伝える文書を見せ、中条家長の孫として中条流剣術を成した頼平以往多くする中条出羽守が補された出羽を経て安達氏は秋田城ノ介を累代称えたとし、安達盛長の甥としながら北条時政に娘を嫁した足立遠元の父・小野田遠兼の諱から宇都宮宗円が曾祖父と唱えた藤原道兼の偏諱と有道経行の父・惟行の雅号として伝える遠峯の偏字を併せ、小野姓横山氏となる足立遠元の父は豊嶋氏の婿となって武蔵で最も豊かであった豊嶋郡に入ったが、遠元の父もまた横山氏の猶子となった中条家長・平子広長らと同じく真実は有道氏の出自であって、足立遠元の子となる天野遠景が比企能員を刺し殺したと『愚管抄』巻第六は伝え、天野遠景の子・貞景の孫となる北条実時は金沢文庫を創ったが、桶狭間合戦後の岡崎城時代に徳川家康配下の奉行人として知られる天野康景が顕れています。
 有道経行が拠点とした武蔵・児玉郡阿久原郷と隣接する地に河内荘を立券した経国の父である源義忠は頼朝の曾祖父となる義親の弟ですが、義忠の高祖父より3代続いて任じた河内守に補されており、義忠の兄・義親は対馬守在任中に犯した殺人の科で平正盛に誅殺され、河内源氏の惣領となった義忠の子・経国の母は平正盛でした。
 河内経国の子・盛経は有道経行が拠点とした武蔵・児玉郡阿久原郷と父・経国の開いた河内荘とを結ぶ山道の途次に在る稲沢郷を所職としましたが、稲沢盛経は平清盛の祐筆を務めたとする伝承を見せ、盛経の父・経国は京・鞍馬に隠棲して時に保元の乱が勃発し頼朝の父と同じ陣営に参じたとされますが、この河内経国・稲沢盛経父子の後となる者こそ源義経であって、壇ノ浦合戦から京に凱旋した義経に後白河法皇が官職を与えたことは義経こそ河内源氏の正嫡として征夷大将軍に補される一歩手前に迫ったことを意味し、為に頼朝は義経をポアしたのでした。
 三浦義村や北条義時らは有道定直の後裔であって、定直の従弟である有道惟能の孫・経行が支援した河内経国の孫・義経が将軍になっては困ったのです。