←画像をクリックすると"文覚荘"のページに跳びます! 相模湾に注ぐ酒匂川は関東では屈指の急流として知られますが、酒匂川の支流に落ちる名瀑・洒水(しゃすい)の滝は京都・高雄山神護寺の僧であった文覚が荒行を積んだとの伝承を遺し、滝を近くして文覚荘が在ります。
1404910747kuQfgY82SEeaHGB1404910740.gif 文覚は俗名を遠藤盛遠とし、藤原道長に仕え朝家に武門の令名を馳せた源頼光の配下であった渡辺綱を領袖として摂津・西成郡に蟠踞した渡辺党の武士でしたが、白河院の北面の武士として鳥羽天皇の皇女に近侍してから19歳にして出家し、『愚管抄』巻第五は文覚が「神護寺の再興のために力をいれすぎて伊豆に流された」(『日本の名著9』中央公論社刊 昭和46年 p.243)とし、伊豆に配流された文覚の身柄を受け取った者を近藤国高と伝え、韮山盆地の東端となる奈古谷に止め置かれたとします。
 韮山盆地の中央に位置する蛭ヶ島に配流された頼朝と文覚は「四年の間同じ伊豆国で朝夕」「馴れ親しんでいた」(同上掲書 p.243)とし、『愚管抄』は藤原光能が後白河院の意向を察し文覚を通じて頼朝に平家打倒を促したとする巷説を否定した後に、文覚が「さしでがましいことを」頼朝に「いった」(同上掲書 p.243)ことが正しいと叙べています。
 伊豆に配流された文覚の身柄を受け取った近藤国高の名から想起することは、頼朝の寵臣であった大友能直の実父を近藤能成と伝えることで、近藤能成が所職とした相模・愛甲郡古庄郷の北に位置する相模川・支流の中津川畔となる荻野郷と南に位置する毛利郷が鎌倉時代の初期には毛利荘に含まれた所職であったとされながら、近藤能成の古庄郷は鎌倉時代の初期には毛利荘に含まれておらず、荻野郷と古庄郷の所職は武蔵・多摩郡下の横山荘を本拠とした一族の庶流が収めていたとするも、横山氏は始祖を小野義孝と伝えた小野姓であり、毛利荘に含まれなかった古庄郷を所職とした大友能直の実父が近藤姓を称えた怪を感得する。
 毛利荘の南端に該る毛利郷は源義家の子・義隆と義隆の子・義広が所職とした地であり、古庄郷を所職とした近藤能成の子である大友能直は波多野氏を出自とした母の姉の夫である中原親能の猶子となっている。
 中原親能は大江広元とともに中原広季の猶子であったと思われ、親能・広元らの実父と思われる者が『愚管抄』によって文覚を通じ頼朝の決起を促したとする巷説を否定された藤原光能であって、親能・広元らの母方祖父と思われる者が北条時政に阿波局や時房を生さしめる娘を嫁した足立遠元であり、『愚管抄』が比企能員を刺し殺したと叙べる天野遠景の父を足立遠元とする説を見る。
 相模・愛甲郡下の毛利荘は源義隆・義広父子から大江広元に継受されたが、大友能直の所職の一つであった相模・三浦郡長坂郷を流れる荻野川流域は荻野の字名を今に遺している。
 大友能直の父・近藤能成の弟を武藤頼平とし、近藤貞成の猶子とする伝から大友能直の祖父は貞成を諱とし、能直の叔父とする武藤頼平は能直との血脈関係は無かったものと思料されるが、武藤頼平の猶子となった者が少弐氏の祖となる資頼であった。
 伊豆で文覚の身柄を受け取った近藤国高の高の字は大友能直の実父・近藤能成が所職とした相模・愛甲郡古庄郷に南接する毛利郷を所職とした源義隆の隆の字と訓を等しくするが、近藤国高の名から想起する者として大友能直の実父の他に治承4年の頼朝旗揚げより名を示す近藤国平が在り、国平の子を国重とすることと相俟って、国高・国平・国重などの名からさらに想起させる者が頼朝の旗揚げに因り平清盛の孫が2人も在籍した京・伏見の醍醐寺から脱出した頼朝の異母弟として北条時政の娘・阿波局と婚ずる阿野全成を匿った渋谷重国であり、平家が滅亡する年に頼朝の名代として上洛した近藤国平と行を共にした中原久経の偏諱である経の字から、源頼信ー頼義ー義家と続いて任じた河内守を補された最期となる源義忠の子・経国は頼朝の曾祖父・義親を誅殺した平正盛の娘を母とし、源義忠が元服加冠役の烏帽子親を務めた者が清盛の父・忠盛であって、源義忠の子・経国の子となる盛経は清盛の祐筆を務めたする伝を見せ、九郎義経は頼朝の異母弟でなく、また阿野全成の同母弟でなく、実に盛経の子として源義家の玄孫となる頼朝と世数を等しくして、義家の子の世代から岐れた別系統の玄孫であった可能性を感得する。
 上の推測が正しければ、河内源氏の正嫡であった義忠の曾孫に該る者が義経であり、壇ノ浦合戦より京へ凱旋した義経に後白河院が官職を与えたことは、義経こそ河内源氏の棟梁であることを公認され、征夷大将軍にリーチをかけたことを意味し、頼朝の奥州征伐の意図とは義経をポアするのみならず、義経を後援した奥州藤原氏の財源である東北の産金を奪取することであった筈だ。
 頼朝が急逝した直後、『明月記』は台閣の最高実力者であった源通親を暗殺する企てが露見したとし、陰謀に荷担した者らを平家滅亡直前に近藤国平とともに上洛した中原久経と名をよく似せた中原政経、大友義直の実父・近藤能成が所職とした相模・愛甲郡古庄郷とその北に接する荻野郷を鎌倉初期に所職としたと伝える横山氏の祖・小野義孝の名を想起させる小野義成、そして後藤基清とするが、後藤基清の実父は西行法師こと佐藤義清の弟であり、佐藤姓は平将門を討った藤原秀郷が本拠とした下野・安蘇郡下の佐野荘の藤原に由来し、事件に荷担した後藤基清は讃岐守護を幕府から罷免され、代わって讃岐守護に補された近藤国平もまた藤原秀郷より9世とし、源義経を庇護した藤原秀衡も藤原秀郷の後裔であった。伊豆に在った頃には親昵な間柄であったとする頼朝の急逝直後に起こった事件で、文覚もまた佐渡へ配流された。
 文覚は平清盛ー重盛ー維盛とする平家の嫡系にて維盛の子の助命を頼朝に訴え自らの門弟としたが、維盛の子は文覚が佐渡に配流された後に殺され、『平家物語』は頼朝から助命された文覚の門弟を平家の祖となる正盛より6世となることを因に六代と記すが、文覚・六代らの宗旨であった真言宗の本山史を止める『高野春秋編年輯録』は平家六代の諱を高清とし、文覚の身柄を伊豆で受け取った近藤国高の偏諱を襲っており、文覚の母方伯父となる藤原公佐は源氏の旗揚げで渋谷重国に匿われた阿野全成の娘と婚じ、阿野全成の遺領である駿河郡下に在った阿野荘を相続して、公家の阿野家の祖となっている。
 しかし、頼朝の旗揚げに加わわり平家滅亡の年に頼朝の名代として上洛した近藤国平、頼朝の旗揚げで京・伏見の醍醐寺から脱出した阿野全成を庇護した渋谷重国の両者に通じる国の字を国平、重国らより早く用いた者が新田・足利の祖となる源義国であり、義国が猶子とした者が河内源氏の棟梁であった義国の兄・義忠の子である経国であり、頼朝の父・義朝が保元の乱で与した後白河天皇方の陣に鞍馬から馳せ参じた経国の子・盛経は平清盛の祐筆を務めたとする伝承を見せ、盛経の子・義経を弟と遇することで平家や奥州藤原氏から自己の翼下に牽き寄せた者が頼朝であった。