尾張守護・斯波義教は1400年前後に守護代を甲斐将教(ゆきのり)から織田伊勢守常松(法名:じょうしょう)に更迭したが、甲斐将教の父・教光の娘は斯波義教の子・義郷を生んでいる。
尾張守護代を織田常松に更迭された甲斐将教は、しかし、斯波氏が守護を任じた越前・遠江の守護代を兼ね、応仁の乱で将教の孫・敏光が西軍に与する中、西軍より東軍に翻身した朝倉孝景により越前における実権を朝倉氏に奪われるも、将教の曾孫の代まで遠江での活動を伝える。
後醍醐天皇より神器を譲られた恒良親王が新田義貞とともに籠城した越前・敦賀の金ヶ崎城を陥落させた斯波高経が越前守護に任ぜられた頃、甲斐氏は斯波氏に仕えたものと思われるが、斯波氏の家中に在った織田氏や朝倉氏らが越前在地の族であったのと異にして、甲斐氏は鎌倉時代に下野・安蘇郡下の佐野荘を所職としていた佐野氏の流れと伝える。
そうした佐野氏が越前守護となった斯波氏に仕えたのは、斯波高経が陥した金ヶ崎城に籠城した堀籠有元との関係を憶測させる。
下野・安蘇郡下の天明郷に集住した鋳物師らが作った品々は筑前の芦屋釜と双璧を成す逸品と評価され、その天明鋳物として現存する最古の鋳物が房総半島・鋸山の南麓に在る日本寺に伝えられた梵鐘であり、梵鐘には辛酉革命の年となる1321年に該当した年号を刻んで、堀籠有元の名とともに梵鐘を制作した甲斐権守・卜部助光の名が見られる。
卜部助光の名は梵鐘を作った鋳物師の名ではあるが、卜部助光が甲斐氏と関係が有った可能性を憶測させる。
現存する最古の天明鋳物である梵鐘に名を遺した堀籠有元は源姓を同時に遺し、往年の系図学の権威であった太田亮は堀籠氏を源為義流とする隆元の後裔と説く。
源為義の後裔で隆元の名は頼朝の異母弟となる阿野全成の子を『尊卑分脈』が隆元とする者を指すものと思われ、阿野全成の娘の婿となって全成の遺領である駿河郡下の阿野荘を相続し公家の阿野家の祖となった藤原公佐の後裔となる者が後醍醐天皇の子として越前・敦賀の金ヶ崎城に籠城した恒良親王や後村上天皇として即位する義良親王らを生んだ阿野廉子であることから、鋳物師らが集住した下野・安蘇郡下に居城を構えたと伝える堀籠有元が恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した動機をよく推測させる。
後醍醐天皇が初めて倒幕に起つ3年前に堀籠有元より梵鐘の制作を頼まれた甲斐権守・卜部助光は斯波義教に娘を嫁した甲斐教光と関係が有ったかも知れない。
堀籠有元が恒良親王とともに籠城した金ヶ崎城の周辺には織田剣神社の分社を多くし、甲斐将教から尾張守護を更迭された織田常松の出自を越前・丹生郡下に在る織田剣神社・本社の神職を世襲した族とするならば、佐野氏の流れとされる甲斐氏が実は鋳物業と関係する卜部氏を出自とした可能性も感じられ、九州より捲土重来を果たした足利尊氏の軍勢が京に迫る中、後醍醐天皇より神器を譲られた恒良親王を奉じて越前・敦賀の金ヶ崎城に籠城した所以は越前在地の織田氏の支援を乞うのに伝手の有った卜部氏の存在があったのかも知れない。
恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した堀籠有元の遠祖となる阿野全成が父・義朝の横死後に平清盛の孫らとともに過ごした京・伏見の醍醐寺の座主・満済は危篤に陥った織田常松の見舞いに使いを送った処、織田弾正と称える者が応対したと日記に止めており、この織田弾正こそ信長を派する清洲城主・織田大和守家の配下であった織田弾正忠家の祖となる者と思われ、その織田弾正が果たして尾張守護代の織田氏の親族であったかは断定できない。
16世紀前葉に尾張・中島郡に在る妙興寺が信長の父・信秀に宛てて作成した書状の草案を伝え、太田牛一の『信長公記』が信長の曾祖父とする人物によって室町将軍家より清洲城主・織田大和守家に保証された妙興寺領が支配されていたことを教え、信長の祖父・信定は牛頭天王社である津島神社が鎮座し殷賑を極めた津島港を支配下に置き、中島・海部両郡界に勝幡城を築いて織田弾正忠家の威勢を振るわせた。
此処で織田弾正忠家の源流を考察するに当たって、織田信定が掌中に収めた津島港からもたらされる富が弾正忠家の威勢を振るわせたことを想起し、信長の父・信秀の代から弾正忠家配下の士として名を示す佐久間盛高・信盛父子の存在を考えると、佐久間氏が和田義盛の曾孫を祖とする安房・平群郡佐久間郷に発祥した武家であることや、江戸末期に成った『系図簒要』が織田弾正忠家と鎌倉末期の幕政を支配した長崎氏と祖を等しくするとした何らかの伝承を素にしたと思われる記述から、北条得宗被官であった長崎氏の出自がまた織田弾正忠家の淵源を示すものであることを示したいと思う。
堀籠有元から梵鐘の制作を依頼された甲斐権守・卜部助光の後裔かも知れぬ甲斐氏は初め尾張の守護代を任じており、甲斐氏は戦国期に至るまで遠江に勢力を確保していたが、遠江・引佐郡を拠点とした井伊氏は徳川家康に帰服する直政の父に惣領を継承させる直盛と直盛より13世遡った盛直とに盛の偏諱を窺わせる。
一方、佐久間氏を派する和田義盛の祖父である三浦義明の子として佐原義連は紀伊守護に補され、義連の孫・時連は新宮六郎左衛門尉の名を伝え、紀伊半島に拠点を得た観を与える。
新宮六郎の名を伝える時連はまた横須賀時連の名をも伝え、惣領家の本拠である相模・三浦郡下では今の米海軍基地が在る東京湾に突き出た小半島周辺を所職としたことを教え、斯地は船を停泊させるには便宜を与えるも農耕に適した地ではなかった筈である。
この三浦氏庶流となる時連の子を遠江守・泰盛と伝え、この泰盛より戦国期に至るまで盛の偏諱とともに概ね遠江守の官職を朝廷から得ていた族が陸奥に拠点を構えた芦名氏であり、相模・三浦郡芦名郷もまた相模湾に臨む地として船を停泊させるには便宜を与えるも農耕に適した平地を乏しくした地である。
しかし、相模の大族・三浦氏の庶流となる芦名氏を派した遠江守・泰盛の名は元寇を経験した安達泰盛と諱を等しくし、『蒙古襲来絵詞』で安達泰盛に接見する竹崎季長の在所であった肥後・宇城郡松崎郷に隣接する宇土郡不知火郷には長崎の小字名を見せ、不知火郷長崎から西へ長く延びた崎を島原半島と間近くし、元寇に応じた男たちの生きた場所から相模に至るまで海の男たちの生きた場所に三浦氏の庶流である佐原氏や佐久間氏、また井伊氏らが関わっており、例外としない族が安達氏であって、安達泰盛の子・盛宗は文永の役を戦った竹崎季長らを弘安の役で指揮すべく肥後守護代を任じており、しかし、盛宗の名は芦名氏を派する時連の子・泰盛が安達泰盛と諱を等しくする如く、時連の孫をも遠江守・盛宗と伝え、安達氏父子と芦名氏遠祖となる父子と諱を等しくしており、しかも、細川重男氏に拠ると内管領・長崎円喜が生涯に亘って最も長く用いた諱は盛宗とし、弘安の役で安達盛宗が指揮した竹崎季長の在所に隣接する地に長崎の小字名を示すことをも偶然と考えるには得心しない処を感ずる。
即ち、鎌倉末期に皇室の両統迭立を斡旋した長崎円喜は実に元寇を経験した安達泰盛の子であった可能性を憶測させ、内管領・長崎氏は実に三浦氏の庶流であって、宝治合戦とは三浦氏の惣領家を庶流が倒した権力抗争の結果であったのでないかと思わせ、平安期から遠江・引佐郡に蟠踞していたとする井伊氏もまた元寇が勃発したことを因に惣領家を倒して幕政を左右するようになった三浦氏庶流に接収された可能性をも憶測させ、和田義盛の後裔となる佐久間父子を配下とした織田弾正忠家を長崎氏と祖を等しくするとした『系図簒要』の教えることは織田弾正忠家もまた長崎氏と等しく三浦氏の庶流となる族であったということではなかろうか。
安達泰盛は秋田城ノ介を称えたと伝えるが、芦名氏が相模から転じた陸奥の地を近くして河沼郡下に在った蜷川荘の地頭職を佐原義連の孫とする景義と伝える文書を遺す点、『吾妻鏡』が頼朝の小姓に過ぎなかった安達盛長の孫・義景の代には三浦泰村を倒すほどに兵力を抱えていたとする処の裏面を透視させる。
尾張守護代を織田常松に更迭された甲斐将教は、しかし、斯波氏が守護を任じた越前・遠江の守護代を兼ね、応仁の乱で将教の孫・敏光が西軍に与する中、西軍より東軍に翻身した朝倉孝景により越前における実権を朝倉氏に奪われるも、将教の曾孫の代まで遠江での活動を伝える。
後醍醐天皇より神器を譲られた恒良親王が新田義貞とともに籠城した越前・敦賀の金ヶ崎城を陥落させた斯波高経が越前守護に任ぜられた頃、甲斐氏は斯波氏に仕えたものと思われるが、斯波氏の家中に在った織田氏や朝倉氏らが越前在地の族であったのと異にして、甲斐氏は鎌倉時代に下野・安蘇郡下の佐野荘を所職としていた佐野氏の流れと伝える。
そうした佐野氏が越前守護となった斯波氏に仕えたのは、斯波高経が陥した金ヶ崎城に籠城した堀籠有元との関係を憶測させる。
下野・安蘇郡下の天明郷に集住した鋳物師らが作った品々は筑前の芦屋釜と双璧を成す逸品と評価され、その天明鋳物として現存する最古の鋳物が房総半島・鋸山の南麓に在る日本寺に伝えられた梵鐘であり、梵鐘には辛酉革命の年となる1321年に該当した年号を刻んで、堀籠有元の名とともに梵鐘を制作した甲斐権守・卜部助光の名が見られる。
卜部助光の名は梵鐘を作った鋳物師の名ではあるが、卜部助光が甲斐氏と関係が有った可能性を憶測させる。
現存する最古の天明鋳物である梵鐘に名を遺した堀籠有元は源姓を同時に遺し、往年の系図学の権威であった太田亮は堀籠氏を源為義流とする隆元の後裔と説く。
源為義の後裔で隆元の名は頼朝の異母弟となる阿野全成の子を『尊卑分脈』が隆元とする者を指すものと思われ、阿野全成の娘の婿となって全成の遺領である駿河郡下の阿野荘を相続し公家の阿野家の祖となった藤原公佐の後裔となる者が後醍醐天皇の子として越前・敦賀の金ヶ崎城に籠城した恒良親王や後村上天皇として即位する義良親王らを生んだ阿野廉子であることから、鋳物師らが集住した下野・安蘇郡下に居城を構えたと伝える堀籠有元が恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した動機をよく推測させる。
後醍醐天皇が初めて倒幕に起つ3年前に堀籠有元より梵鐘の制作を頼まれた甲斐権守・卜部助光は斯波義教に娘を嫁した甲斐教光と関係が有ったかも知れない。
堀籠有元が恒良親王とともに籠城した金ヶ崎城の周辺には織田剣神社の分社を多くし、甲斐将教から尾張守護を更迭された織田常松の出自を越前・丹生郡下に在る織田剣神社・本社の神職を世襲した族とするならば、佐野氏の流れとされる甲斐氏が実は鋳物業と関係する卜部氏を出自とした可能性も感じられ、九州より捲土重来を果たした足利尊氏の軍勢が京に迫る中、後醍醐天皇より神器を譲られた恒良親王を奉じて越前・敦賀の金ヶ崎城に籠城した所以は越前在地の織田氏の支援を乞うのに伝手の有った卜部氏の存在があったのかも知れない。
恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した堀籠有元の遠祖となる阿野全成が父・義朝の横死後に平清盛の孫らとともに過ごした京・伏見の醍醐寺の座主・満済は危篤に陥った織田常松の見舞いに使いを送った処、織田弾正と称える者が応対したと日記に止めており、この織田弾正こそ信長を派する清洲城主・織田大和守家の配下であった織田弾正忠家の祖となる者と思われ、その織田弾正が果たして尾張守護代の織田氏の親族であったかは断定できない。
16世紀前葉に尾張・中島郡に在る妙興寺が信長の父・信秀に宛てて作成した書状の草案を伝え、太田牛一の『信長公記』が信長の曾祖父とする人物によって室町将軍家より清洲城主・織田大和守家に保証された妙興寺領が支配されていたことを教え、信長の祖父・信定は牛頭天王社である津島神社が鎮座し殷賑を極めた津島港を支配下に置き、中島・海部両郡界に勝幡城を築いて織田弾正忠家の威勢を振るわせた。
此処で織田弾正忠家の源流を考察するに当たって、織田信定が掌中に収めた津島港からもたらされる富が弾正忠家の威勢を振るわせたことを想起し、信長の父・信秀の代から弾正忠家配下の士として名を示す佐久間盛高・信盛父子の存在を考えると、佐久間氏が和田義盛の曾孫を祖とする安房・平群郡佐久間郷に発祥した武家であることや、江戸末期に成った『系図簒要』が織田弾正忠家と鎌倉末期の幕政を支配した長崎氏と祖を等しくするとした何らかの伝承を素にしたと思われる記述から、北条得宗被官であった長崎氏の出自がまた織田弾正忠家の淵源を示すものであることを示したいと思う。
堀籠有元から梵鐘の制作を依頼された甲斐権守・卜部助光の後裔かも知れぬ甲斐氏は初め尾張の守護代を任じており、甲斐氏は戦国期に至るまで遠江に勢力を確保していたが、遠江・引佐郡を拠点とした井伊氏は徳川家康に帰服する直政の父に惣領を継承させる直盛と直盛より13世遡った盛直とに盛の偏諱を窺わせる。
一方、佐久間氏を派する和田義盛の祖父である三浦義明の子として佐原義連は紀伊守護に補され、義連の孫・時連は新宮六郎左衛門尉の名を伝え、紀伊半島に拠点を得た観を与える。
新宮六郎の名を伝える時連はまた横須賀時連の名をも伝え、惣領家の本拠である相模・三浦郡下では今の米海軍基地が在る東京湾に突き出た小半島周辺を所職としたことを教え、斯地は船を停泊させるには便宜を与えるも農耕に適した地ではなかった筈である。
この三浦氏庶流となる時連の子を遠江守・泰盛と伝え、この泰盛より戦国期に至るまで盛の偏諱とともに概ね遠江守の官職を朝廷から得ていた族が陸奥に拠点を構えた芦名氏であり、相模・三浦郡芦名郷もまた相模湾に臨む地として船を停泊させるには便宜を与えるも農耕に適した平地を乏しくした地である。
しかし、相模の大族・三浦氏の庶流となる芦名氏を派した遠江守・泰盛の名は元寇を経験した安達泰盛と諱を等しくし、『蒙古襲来絵詞』で安達泰盛に接見する竹崎季長の在所であった肥後・宇城郡松崎郷に隣接する宇土郡不知火郷には長崎の小字名を見せ、不知火郷長崎から西へ長く延びた崎を島原半島と間近くし、元寇に応じた男たちの生きた場所から相模に至るまで海の男たちの生きた場所に三浦氏の庶流である佐原氏や佐久間氏、また井伊氏らが関わっており、例外としない族が安達氏であって、安達泰盛の子・盛宗は文永の役を戦った竹崎季長らを弘安の役で指揮すべく肥後守護代を任じており、しかし、盛宗の名は芦名氏を派する時連の子・泰盛が安達泰盛と諱を等しくする如く、時連の孫をも遠江守・盛宗と伝え、安達氏父子と芦名氏遠祖となる父子と諱を等しくしており、しかも、細川重男氏に拠ると内管領・長崎円喜が生涯に亘って最も長く用いた諱は盛宗とし、弘安の役で安達盛宗が指揮した竹崎季長の在所に隣接する地に長崎の小字名を示すことをも偶然と考えるには得心しない処を感ずる。
即ち、鎌倉末期に皇室の両統迭立を斡旋した長崎円喜は実に元寇を経験した安達泰盛の子であった可能性を憶測させ、内管領・長崎氏は実に三浦氏の庶流であって、宝治合戦とは三浦氏の惣領家を庶流が倒した権力抗争の結果であったのでないかと思わせ、平安期から遠江・引佐郡に蟠踞していたとする井伊氏もまた元寇が勃発したことを因に惣領家を倒して幕政を左右するようになった三浦氏庶流に接収された可能性をも憶測させ、和田義盛の後裔となる佐久間父子を配下とした織田弾正忠家を長崎氏と祖を等しくするとした『系図簒要』の教えることは織田弾正忠家もまた長崎氏と等しく三浦氏の庶流となる族であったということではなかろうか。
安達泰盛は秋田城ノ介を称えたと伝えるが、芦名氏が相模から転じた陸奥の地を近くして河沼郡下に在った蜷川荘の地頭職を佐原義連の孫とする景義と伝える文書を遺す点、『吾妻鏡』が頼朝の小姓に過ぎなかった安達盛長の孫・義景の代には三浦泰村を倒すほどに兵力を抱えていたとする処の裏面を透視させる。