北条時政邸址&鬼石←クリックすると鬼石の八塩温泉のページへ跳びます! 左の画像は鎌倉の釈迦堂ヶ谷のトンネルとトンネルの北側脇に見られる北条時政邸址の大手門を内側から眺めた画像に群馬県藤岡市鬼石町の八塩温泉に建つホテルの外観を加えたものですが、鎌倉の七切通しや佐介ヶ谷の銭洗弁財天などとともに北条時政邸址を見ますと、北条氏が何か採石と関係していた族と思わせる処が在ります。
 その点は、伊豆における北条義時の所職に見られる北江間古墳群の横穴に納められた石製棺にも同様な趣を感得するのですが、もし、北条氏が桓武天皇の子として平高望の祖父とされる葛原親王や一条天皇皇后の父・藤原道隆などに仕えた有道氏という史上殆んど知られない族を出自としていたとするならば、北条氏が伊豆に在った理由や採石と関係した族であったことも得心するのです。
 金や銅を採掘するには鋼鉄を必要とし、鑿岩作業を果たさねばならなかったでしょうが、833年に有道姓を朝廷から与えられた葛原親王の家司の祖父にとって従弟に該る者を羊という奇妙な名で伝える点、708年に武蔵・秩父郡で銅が採掘された3年後に秩父郡を近くする上野にて東山道の通う地に多胡郡が新設されると羊なる者に新郡の統治を委ねたとする石碑を遺すことから、有道氏が貴金属資源の採掘や採石と関わり、朝廷の要路に密着した可能性を憶測させます。
 一条天皇皇后の父・藤原道隆の家司を務めた者の孫となる有道経行の拠点とした地が、群馬・埼玉両県境を成す利根川支流の神流(かんな)川に臨んで群馬県藤岡市鬼石町の八塩温泉郷と反対側となる埼玉県側の地でしたが、神流川畔から南へちょっと進みやはり他の利根川支流に合流する女堀川の源流を近くして埼玉県本庄市児玉町真下を所職とした基直の名を系図の写本に依っては基行ともしばしば記される処から、『愚管抄』巻第六に顕れる比企能員の岳父とする"ミセヤノ大夫行時"が神流川畔に拠点を構えた有道経行の孫として利根川支流である鏑川畔の群馬県高崎市吉井町片山を所職とした行時であって、『愚管抄』が伝えるように真下基直は有道経行の孫である行時の婿となった為に古文書にてしばしば基行ともされるのではないかと思われます。
 しかし、この行時の婿となった真下基直は有道経行の後裔ではなく、有道経行の祖父にとって従兄となる有道定直の卑属であった可能性が在り、さらに有道定直は在京した摂関家の家人として源義家の父に義家の母となる娘と鎌倉の邸を与えた平直方の正体かも知れず、平直方とは『今昔物語集』に源頼光の家人として顕れる平貞道や相模の大身・三浦氏の祖とされる平忠光・三浦忠通らの諱の訓を比較勘考し貞道・忠光・忠通ともに酷似することから源義家の母方祖父とする平直方を投影した虚構であった可能性を憶測させ、その平直方がまた正体を有道定直としたかも知れないのです。
 ってことは、鎌倉幕府の誕生に大きく貢献し、幕府誕生後には最大の勢力を誇った三浦氏は有道氏を出自とした可能性が在り、三浦氏の祖となる有道定直の卑属かも知れぬ真下基直はまた定直にとって従弟の子となる有道経行の孫・行時の婿となって北関東にも定直の後裔が拠点を得たことを示すことになります。
 この真下基直の後裔が北条・徳川であり、有道定直の後裔が安達泰盛や長崎円喜そして織田信長であることの論証を本稿では割愛しますが、八塩温泉郷の在る高崎市鬼石町から神流川を遡った三波石峡は庭石の産地として知られていますが、鎌倉幕府が滅亡した後の14世紀に真下伊豆守は三波石峡に転がる石を愛でて"三波殿"の徒名を今に伝えることは感慨深いものが在ります。
小山川 神流川を間近くして女堀川の源流を近くする埼玉県本庄市児玉町真下から同川を下ると利根川支流の小山川と合流し、そこから小山川を遡ると尾根一つ隔て有道経行の拠点とした地と隣接する稲沢、河内の地に到り、河内の字名は有道経行の娘を迎え叔父・源義国を養父とした経国が河内荘を開いたことに因み、河内経国の父・源義忠は頼朝の曾祖父として罪科に因り平正盛に誅殺された義親の弟でありながら父・義家の任じた河内守を襲って河内源氏の家督となっており、平正盛の子・忠盛の元服加冠役である烏帽子親となって忠盛に忠の偏諱を与えた人物で、稲沢の地は平正盛の娘を母とした河内経国の子・盛経が所職とした地であって、清盛の祐筆を務めたとする伝の在る盛経の子が義経であろうことは、紀伊・日高郡下の野長瀬荘を拠点とした族が盛経の後裔を唱え、武蔵坊弁慶が日高郡に出生したとする伝を見ることから補強され、因みにウルトラQ・ウルトラマン・ウルトラセブンを演出した野長瀬三摩地もまた盛経の後裔と目されます。
 小山川の源流にもまた採石場が見られ、小山川の北に三波石峡を見せる神流川が流れて、小山川の南には秩父盆地へ通ずる長瀞渓谷を見せて荒川が流れているのですが、真下基直を婿としたと思われる行時の父・行重は弟・行高とともに母方伯父として秩父郡を領知した平重綱の猶子となっており、小山川を下って利根川に合流し、利根川を下って南へ点ずる辺りから間近い下野・都賀郡下の小山荘に所職を得た太田政光は頼朝に仕送りを続けた寒河尼の婿となったことを因としており、小山氏祖となった政光の父を行政と伝える点は二階堂行政を想起させ、また政光の祖父を行高と伝える点は小山川を遡って尾根一つ隔て最接近する神流川畔を拠点とした有道経行の子・行高を想起させます。