日高見←クリックすると純米酒"日高見"のページへ跳びます! 盛岡から発する東北随一の大河・北上川が太平洋に注ぐ石巻にて醸造される純米酒の銘柄が日高見ですが、金田一京助は阿弖流爲や安倍頼時や清原武衡・家衡や藤原秀衡・泰衡らが蟠踞した北上川の号は日高見に由来するとし、13世紀後葉に京・平野神社の社務であった卜部兼方が著した『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』は『中臣祓詞』に顕れる"大倭日高見国"から大和を指す辞が日高見国であるとし、9世紀から10世紀にかけて宮中で7度執り行われた『日本書紀』の講義"日本紀講筵"の資料に看られる「四望高遠之地、可謂日高見国歟」の文言を参照し、景行紀や『常陸国風土記』にて日本武尊の東征における常陸国を指すとしています。
 『愚管抄』が仁徳天皇を祀っていると記す京・平野神社の社務となった卜部平麻呂は9世紀後葉を生きた人物で、伊豆の出身であったことを伝え、平野社の社務職を任じた平麻呂の後裔はさらに藤原山蔭が私邸に設けた祠を起源とする吉田神社の社務職をも担うようになっていますが、藤原山蔭の遠祖として天武天皇の血脈を続けた奈良時代の末に至り大和乙継の外孫となる桓武天皇の父であり天智天皇の孫となる光仁天皇の即位に努め光仁・桓武両朝にて左大臣に就いた藤原魚名から山蔭に至る系譜を眺めますと、
 魚名ー鷲取ー藤嗣ー高房ー山蔭
と伝え、魚名は兄・清河とともに父を藤原北家祖・房前とすることは言うまでもありませんが、母を片野朝臣という名のみ伝え、素姓を後世に全く知らせない謎の女性であり、魚名の兄・清河は阿倍仲麻呂とともに唐の玄宗に仕え斯地に客死した人物として知られ、清河・魚名らの母・片野朝臣の号から連想させる大阪府交野市は生駒山地が北へなだれた先であり淀川を遡った宇治川を近くし、天照大神の孫となる天火明命・ニニギ命らに先んじて交野市内に在ったとする河上の地もしくは哮峯(いかるがのみね)に降臨した饒速日(にぎはやひ)命が物部連の祖となったとされます。因みに、『新撰姓氏録』は饒速日命を高天原の出身として天神族と分類し、詰まり皇統でないとし、天火明命は天孫族として皇統に分類しています。
 魚名の子・鷲取は娘を桓武天皇の後宮に入内させていますが、娘の名を小屎とし皇室を大分なめてます。
 魚名の孫・藤嗣は藤原姓にも拘わらず諱に藤の字を重複させる怪を見せ、日高見国とされた常陸国の掾(地方職の三等官)から官歴を始めていることが、当ブログ著者にはニヤっとさせちゃいます。
 魚名の孫・藤嗣は桓武帝の征夷事業を担った紀古佐美の娘を室としており、『太平記』にて宇都宮紀清両党と謳われた一方の紀古佐美の後裔を唱えた益子氏が蟠踞した下野・芳賀郡は常陸に隣接した地であることに注意する必要が在るのです。
 藤原なのに登録印鑑にもう一回藤の字を入れ、日高見国の常陸で三等官から始めた藤嗣を父とし、『太平記』が宇都宮紀清両党ともち上げる一方の益子氏が遠祖と唱えた紀古佐美の娘を母とする高房は地方官としての治績を後世に伝え、美濃介(地方職の二等官)に在任中、席田郡下に在った妖しい巫女が人心を惑乱させているのを聞き及び単身で巫女の一味を退治したとの豪雄譚を遺しており、一般に相模・鎌倉郡下の山之内荘を所職とした首藤氏の出自を源頼光の配下となった美濃・席田郡に蟠踞した守部氏とする説を有力とするも、再考の余地が在るように思えます。
 かくして、魚名の玄孫となる山蔭に辿り着きますが、山蔭の母を藤原真夏の娘とすることは重大で、真夏・冬嗣兄弟の母は桓武帝の後宮で男子を生した後に凡庸な藤原内麻呂と婚じた百済永継であり、永継の父・飛鳥部奈止麻呂は三輪山を神体とした大神(おおみわ)神社の前から発掘された纏向遺跡の近くを流れる大和川を下り、生駒・金剛両山地を縊る"山門"を抜けて直ぐとなる河内・安宿部(あすかべ)郡に在地した人物であって、飛鳥の語原となる安宿とは朝鮮語のアンスクで、中国人の記す安息のことであり、ディオドトス1世が火を拝む宗教の発祥したアフガニスタン北部のバルフで決起し建てられたグレコ・バクトリア王朝の版図に隣接してイラン・イラクを版図に収めたパルニ氏族出身のアルサケスが建てたパルティア王朝のことです。
 詰まり、片野朝臣という謎の女性が生んだ藤原魚名の玄孫となる山蔭は飛鳥部奈止麻呂の玄孫ともなる訳で、山蔭の子・中正の娘を母とした者らが一条天皇皇后・定子の父である中関白・道隆、宇都宮宗円が曾祖父とほざく粟田殿・道兼、一条天皇中宮・彰子の父である御堂関白・道長らでした。
 近世・仙台藩主となる伊達侯は遠祖をこの藤原中正の子に該る人物に求めていますが、摂関政治と院政から成る平安後期の2百年間に台頭した関東の在地領主らの発展した理由が那辺に在ったかを示唆する処を感得し、伊達侯の確かな祖となる族が所職とした伊佐荘は常陸北部の鬼怒川畔に在って、魚名の孫・藤嗣の岳父となる紀古佐美の後裔を唱えた益子氏が蟠踞した下野・芳賀郡を間近くする地でした。
 伊達侯が遠祖とする人物の父となる藤原中正についてもっと重要なことは、中正の甥、言い換えますと山蔭の孫となる惟条という者の名を藤原秀郷が平将門を倒す直前に時の台閣の長であった藤原忠平が私記に止めていることで、貞信公・忠平卿は藤原惟条などという末端の官吏が承平・天慶の乱の最中に武蔵・児玉郡下に在った勅旨営牧の別当を務めていたことをわざわざ記している点には歴史の地中に埋もれた重大な史実を発見させる手がかりを見出すのです。
 承平・天慶の乱を経験した藤原惟条の叔父の娘が生んだ藤原道隆の娘が一条天皇皇后として清少納言の仕えた定子ですが、清少納言の清の字が清原氏の出自を意味することは判っていながら、学界は今も何故少納言の号を後世に伝えるかを解明できない儘であり、清少納言の仕えた定子の父の家司を務めた吏僚として有道惟広という者が在ったことを江戸幕府の諮問に与った林羅山以来4百年間日本の学界は等閑に付してきた訳で、旧内務官僚であった系図学の権威・太田亮は有道氏の系譜を伝えた『醫道系図』を全く検証の適わぬ史料的価値の無い文献と切って棄てた処に日本人学者の狭量な態度が露わになっています。
 有道氏の系譜を伝える『醫道系図』は中関白・道隆の家司を務めた惟広より5世先を『続日本後紀』が833年に有道姓を与えられた葛原親王の家司であった常陸・筑波郡出身の氏道であったことを教え、氏道の祖父にとって従弟となる者を羊という異様な名で伝える点は、711年に上野・多胡郡が新設されたことを記す碑に顕れる新郡の領知を委ねられた羊なる怪異な名の実体を明らかにする点だけでも重要である筈なのに日本人の学者は誰一人見向きもしない。
 こう申しますと、当ブログ著者が朝鮮人か中国人が日本語に通じた者であると断定し、他のロケーションで打ったブログでは轟々たる罵詈雑言を浴びせられるのです。
 SONYの滅亡が先か日本政府の財政破綻が先か、国がこうも酷い状態に陥ったのも所詮日本人の遺伝学的propertyに起因するもので、到底日本人の繁殖が将来に亘って望まれる状態でないことが欧米学界の認識する処と思料されるのですが、どうしてこんな下等な人種が此処まで来たかを明らかにすることは歴史学の使命でございますから筆を続けなければなりません。
 有道氏の系譜を伝える『醫道系図』の重要な点は有道氏と中原氏の淵源を等しくすると教えることで、公家としては認められないながら実務官僚として朝廷の職掌を世襲した地下官人家である小槻氏と中原氏はともに平安期から江戸期に至るまで、小槻氏は弁官局を世襲して官務家と、中原氏は少納言局を世襲して局務家と並び称された訳で、局務家の中原氏と有道氏がともに淵源を等しくすると教える『醫道系図』は学術的な実証性を全く見せぬも極めて棄て難い示唆深さを感得するのです。
 14世紀に成った『尊卑分脈』にて初めて顕れる高見王の号は王の子とする平高望の諱と意を等しくすることから高見王の実在を疑う史家を見ますが、確かに『尊卑分脈』が卜部兼方の『釈日本紀』が参照した朝廷の"日本紀講筵"に看られる「四望高遠之地、可謂日高見国歟」の文言から創作した観を得ますも、『尊卑分脈』に先んずる『愚管抄』もまた平高望の後裔らを桓武天皇の子孫であると記しており、平安朝廷は武家平氏を桓武天皇の後裔と思念していたことは確かなようです。
 少なくも、日高見国とは往古には大和であって、それが皇統譜第12代・景行天皇の時には常陸国となって、金田一京助に言わせれば阿弖流爲や安倍頼時や清原武衡・家衡や藤原秀衡・泰衡らが蟠踞した北上川流域にswitchした変遷を見たことを理解できますが、此処で想起することが永年戦われた東大vs.京大の邪馬台国は何処だったかの論争とともに日本人の学界で永らく議論された高天原は何処であったかのテーマであり、『古事記』では出雲族の祖・須佐之男命の時代には機織を為すなど多くの天神が在った所といった叙述を見せ、上に言及した通り『新撰姓氏録』では天神は皇統である天孫とは異にする存在であったようで、天山山脈からカラコルム山脈へ転ずる間に在って世界の屋根と号されるパミール高原の西麓でアレクサンドロス3世率いたギリシア軍は東への進路を諦めており、アレクサンドロス3世が娶った妃・ロクサネは斯地を治めた族の娘とされ、タジク族が平高望の祖父とする葛原親王を生んだ多治比較真宗の出自であったのではとロマンを覚えるのですが、正徳の治を成した徳川家宣公のブレーンとして本邦屈指の碩学である新井白石先生なんか竹中平蔵先生みたいにしこたま金を貰ってたせいか気張って常陸・多賀郡こそ高天原だぁって言うてはりましたけど、茨城県の太平洋岸で福島県に接する地域ですわなっ、多賀郡ゆうのんわぁ。
 しやけど、多賀郡ゆう号から連想させますのんは、伊勢神宮に祀られとる神さんの親を祀っとるゆう滋賀県犬上郡多賀町の多賀大社ですわぁ。
 有道氏の系譜を伝える『醫道系図』は有道氏の始祖を伊香色雄命とし、この名から連想させるのが皇統譜第10代・崇神天皇の母とする伊香色謎命の名で、若狭湾に臨む敦賀から野坂山地を越えて直ぐ辿り着く琵琶湖畔の近江・伊香郡の号を想起させる名です。
 新井白石先生を越えるべく当ブログ著者も飛ばし捲れば、兵庫県には多可郡が在って最近まで加美町という自治体が在りましたが、宮城県加美郡色麻(しかま)町についてWikipediaは

 715年(霊亀元年)五月 関東地方で大規模な大地震があり、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の富民千戸(約二~三万人)を陸奥国北部に移し黒川以北十郡(牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻賀美、黒川)を設ける。これは、いわゆる柵戸で、キヘ・キベ・キノヘなどと読み、古代、東北辺境開拓のために、城柵周辺に配置されて、城柵の設けに守られながら開拓に従事するとともに、非常のことがあれば、自らも兵に協力して防衛にも当たった武装開拓移民であった。(続日本紀元明紀)

と記し、新井先生が高天原とした茨城県多賀郡と訓を似せた多可郡の在る兵庫県には旧多可郡加美町と号を等しくする宮城県加美郡の色麻町と訓を等しくする飾磨郡が今の姫路市域に在りました。
 こう言って参りますと、高天原であった世界の屋根・パミール高原の麓に一旦腰を据えたギリシア人は機織を為すタジク人を天神とし、ギリシア人の血統を天孫として、天山山脈を越えた壮挙を天孫降臨神話とし、従って天孫族の皇帝は天皇を号し、天孫族である出雲族の祖・須佐之男命の号から瞭らかな通り山口県萩市の須佐湾に上陸を果たした者らが日本の国家的起源を成した族であったマロンロマンを感じるのであります。
 景行天皇の時代に日高見国となった常陸・筑波郡出身の吏僚は律令職である家令(かみ)として葛原親王に仕えたと伝え、葛原親王の孫とされる平高望の子らは常陸から上総に亘って拡がりましたが、平姓を与えられた原理を近年の学界は天皇の孫を源姓、曾孫を平姓としたと主張しています。
 しかし、それにしても平姓を与えられた皇族とは桓武天皇の後、仁明天皇の後、文徳天皇の後、光孝天皇の後の4流とされ、葛原親王の家令が有道姓を与えられた年を『続日本後紀』は仁明天皇の即位した833年と記しており、桓武天皇の3息らが輩行即位した中、後世に皇統を伝えた嵯峨天皇は兄・平城上皇の乱を防遏した藤原冬嗣の仕えた主であり、嵯峨天皇の子が仁明天皇であって、文徳・光孝両天皇らは仁明天皇の子であったことを看過し得ないと思われます。因みに、頼朝の家系とは文徳天皇の子である清和天皇の後裔であるか、文徳天皇の孫である陽成天皇の後裔であるかの何れかであり、文徳天皇の後裔は現在の皇室に繋がりません。
 そして、平姓の意を『続群書類従』は朝敵を平らげる意としますが、葛原親王の長子・高棟王の後裔が公家平氏として現代に至るまで健在であることを考えますと正鵠を射た説とは思われず、旧内務官僚であった系図学の権威・太田亮は桓武天皇が建設した平安京を"たいらの宮"としたことの意としますが、お巡りらしい愚にもつかない邪説で、茲に俄然重要なデータとして注目すべきことは、平を往時の文書はしばしば多比良と綴っており、群馬県高崎市吉井町に今も多比良とする字名を見届けることです。
 和泉・堺から纏向遺跡近くを結ぶ大和川に沿って仁徳天皇陵と応神天皇陵との間を往古には河内・丹比(たじひ)郡としましたが、製鉄を生業とした多治比氏には708年に武蔵・秩父郡から銅が採掘されると貨幣鋳造の責任者に任ぜられた三宅麻呂が在って、711年上野にて東山道の通う地に小さく多胡郡が新設されたことは秩父郡での銅の採掘を因とする筈で、書道家が隷書の模範と褒める多胡碑は新郡の領知を上に述べた通り葛原親王の家司を務め有道姓を与えられた者の祖父の従弟に委ねたと解釈し得る碑文を止めており、碑文を揮毫した者を銅貨鋳造の責任者に任ぜられた多治比三宅麻呂とする史家を多くします。
 三宅麻呂は天武天皇の子である穂積親王に次いで往時の台閣にて次席の位置に在った訳ですが、三宅麻呂の兄である嶋もまた閣僚を任じた人物として『竹取物語』にてかぐや姫に求婚する貴族のモデルとされ、この多治比嶋の玄孫となる女が葛原親王を生んだ多治比真宗であり、平安期の多治比氏は中央から遠ざかり上野・多胡郡から程近い上武国境を成す利根川支流の神流川畔となる武蔵・加美郡に丹荘を営むようになります。
 葛原親王の家司を務め有道姓を与えられた者の玄孫となる有道惟広は一条天皇皇后の父となる中関白・道隆の家司を務めていますが、有道惟広の玄孫となる行重は母方伯父として秩父郡を領知した平重綱の猶子となって以往、行重の後裔は堂々と行重の母方祖父の平姓を称えたことを伝え、行重の子・行時は遠祖眷属が領知を委ねられた上野・多胡郡下にて片山郷を所職としており、利根川支流の鏑川畔となる片山郷から多治比氏が丹荘を営んだ武蔵・加美郡を結ぶ途次となる多胡郡の辺縁に多比良の字名を見せ、虞らく秩父郡を領知した平重綱の猶子となった行重が所職とした地であったと思われるのですが、片山郷を所職とした行時の後裔は鏑川を挿んだ反対側の奥平郷を拠点とし、福沢諭吉の主家となるまで異常に長く存続しており、鎌倉時代初めの上野・多胡郡下に多比良姓を称えた領主の在ったことを示す文書を見ます。
 平安期に秩父郡を領知して平姓を称えた領主の祖を忠頼とし、忠頼の長子・将恒が秩父郡を領知し、忠頼の次子・忠常が下総を拠点とした千葉氏の祖となったとされますが、忠頼の弟とする平忠光を三浦氏の祖とするなど、あからさまな虚構を真に受けている日本の学界はやはりその遺伝学的propertyに震撼せざるを得ず、源頼光の郎党・碓井貞光、『今昔物語集』に見える頼光の家人・平貞道、一般に三浦氏の祖とされる平忠光・三浦忠通父子と貞光・貞道・忠光・忠通を列挙して小沢一郎の陸山会事件と同じ浅知恵を露呈しており、秩父平氏・千葉氏の祖とする忠頼と三浦氏の祖とする忠光の偏諱を併せると藤原道長に仕えた源頼光の諱となることから、到底秩父平氏の祖を忠頼とすることは肯んじ得ず、平忠頼には経明との別諱を伝えることから、『将門記』に顕れる多治経明こそ平安期に秩父郡を支配した族の祖となる者で、秩父平氏祖となる経明が秩父郡を間近くする加美郡にて丹荘を営んだ多治比氏を出自としたことはほぼ間違いないことと思われます。
 多治比氏を出自とした秩父郡の支配者が平姓を称えたことは平高望の祖父とされる葛原親王の母が多治比真宗であったことから合理性を挫くことは得ず、葛原親王や中関白家の家司を務めた有道氏を出自としながら母方伯父の猶子となった行重の後裔が堂々と平姓を称えたことも強ち僭称と謗ることも難しく、その行重が所職とした地である可能性を見る上野・多胡郡多比良郷の字名から理解することは、平姓とは多治比の血が流れる意であろうと考えられ、良の字を宛てるのは良血が流れるからで、良の字をラと訓ずるのは羅の字の音を藉りており、この場合の羅の字の意味する処は血脈において遠祖より並ぶ意なのです。