←クリックすると企業研修などに好評の宿泊施設を紹介するページに跳びます! 若狭湾に注ぐ由良川は西日本を代表する流域面積を誇り、福知山市街近くまで船の遡航を許した大河であることは雄大な川面を望見するや直ぐさま得心する処ですが、源頼光の酒呑童子退治の伝承を見せた大江山を仰ぐ旧大江町下を過ごす由良川畔には河守の字名を見る点からも往古に水運を盛んに担った河川であることを想起させます。
 由良川の発する京都府・兵庫県境を成した山稜は本州島で最低標高となる分水嶺であることから、広大な流域面積と相俟ってゆったりと流れる由良川を利した水運が如何に日本の国家的起源を成す王権の伸張に貢献したかを訴える日本人の学者は皆無と言ってよいかも知れません。
 こう申しますと、他でのサイトで同様な趣旨を記し、多くのviewer諸賢から当ブログ著者を在日呼ばわりする人を多くすることにうんざりしているのですが、日本における領域国家の形成が青銅器文化と鉄器文化を同時に列島にもたらした部族によって成され、しかも、現代の日本人が信じ難い遠路を何世代にも亘ってユーラシア大陸の際涯に進めた驚異的史実に関心を向ける人は少ないようです。
有良須神社 京都府福知山市大江町下の由良川畔となる有路(ありじ)を近くして延喜式内社である有良須(あらす)神社が今や誰の関心も寄せることなく静謐を守った小丘に鎮座していますが、由良川を遡って来たった天火明(あめのほあかり)命が斯地にて飢えに倒れ、命を介抱し娘を与えた蟻稚菟道彦(ありち・うじひこ)を祀った社として、日本の誕生を画した故地として絶大な遺蹟であることを思う日本人は最早居ないのです。
 しかし、天火明命を蟻稚菟道彦が助けた地の周辺には武内宿禰を祀る祠が夥しく分布し、何と言っても圧巻なのは、蟻稚菟道彦を祀る延喜式内社を間近くして突兀とした独立丘を陰翳有る深緑の樹林が覆って神々しい山容を示した日室ヶ嶽を背景に元伊勢神宮・内宮が鎮座することで、熊野大社が島根県松江市八雲に在るように、元伊勢神宮もまた丹後・丹波両境に鎮座し、天武天皇の後裔が担った王朝下で『古事記』を編纂した太安万侶が筆を枉げざるを得なかった事情がまた史実の深遠性を現代に訴えるものが在ります。
 アレクサンドロス3世がアラル海に注ぐシルダリア川畔でイラン系のサカ族と対峙した時、アレクサンドロスはタジク族の酋長の娘ロクサネを娶りましたが、ロクサネとは"明るい"意であり、火を拝むゾロアスター教の発祥地を間近くする地にアレクサンドロス率いたギリシア軍は暫し休息の時間を過ごしたのでした。
 天山山脈を越えた天孫族は天火明命の後裔とする海部氏が神職を世襲した丹後一宮として天ノ橋立に臨む籠神社辺りに近畿へ進撃する拠点を構えたようで、進撃の途次に天火明命との邂逅を得た者が蟻稚菟道彦であって、"ありち"の姓は今も福知山市大江町有路の地名に遺し、"ありち"→"ありじ"の転訛は関東に到って、"ちくし"や"ちくば"が"つくし"や"つくば"に転じたように、"あるじ"へ転じ、主人の意味を今も了解させるのです。
 5世紀を生きた倭王・武こと雄略天皇の子・清寧天皇は乳児の頃から頭髪を白くしたと伝えますが、現代の医学者はこれをアルビニズムに因るものとしますも、39歳で没したとされる清寧天皇は両親ともに葛城氏における玉田スクネ系統の血脈とし、嗣子の無かった清寧天皇の死没に因り、大和に迎えられたのが丹波に在地した葛城氏における葦田スクネ系統の蟻臣の娘を母とした仁賢・顕宗両天皇兄弟らであって、現在の皇室の祖となるオオド皇子が北陸より南下し淀川畔の地で500年前後に継体天皇として即位した後、継体帝の3息が輩行即位しましたが、現代に皇統を伝えたのは葛城蟻臣の外孫となる仁賢天皇のさらに孫となる女性を母とした欽明天皇でした。
 いみじくも今上天皇の談話で知られるように、百済の遺民であった大和乙継の外孫となる桓武天皇が古市古墳群と百舌鳥古墳群とに挟まれた河内・丹比(たじひ)郡にて製鉄を生業とした多治比(たじひ)氏を出自とする真宗に生ませた葛原親王の家司に奇しくも朝廷は有道姓を与え、この有道氏の後裔となる者らが北条氏、織田氏、徳川氏、そして日露戦争での奉天会戦で知られる児玉源太郎総参謀長ですが、一条天皇皇后・定子の父である中関白・藤原道隆の家司を務めた有道惟広は葛原親王・家司の玄孫となる者であり、惟広の子は中関白の弟である藤原道長が左大臣に就いた年に武蔵・児玉郡に下り、児玉郡真下郷を所職とした基直の後裔が北条時政となって、京都府福知山市大江町下を流れる由良川畔には地頭なる字名を今に遺し、「♪ここはお国を何百里・・・」を作詞した真下飛泉は大江町の出身でした。
 極東の島嶼部に勃興した王朝は朝鮮人でもなく日本人でもなく、ギリシア人が成した特異なものであったのです。