榊原温泉 国民宿舎紫峰閣CM_1405835370270.gif 『枕草子』117段に説かれる名泉として有馬温泉、玉造温泉とともに"ななくりの湯"と記される処を一般に榊原温泉と捉えるのが通説だが、伊勢・一志郡榊原郷を所職とした武家の出自を足利一門・仁木氏の岐れとする説は南北朝期に室町幕府で権勢を誇った仁木義長が伊勢守護を任じた処から、榊原氏の遠祖がその配下となったことを示唆するも、榊原氏の替紋が源氏車に伊勢外宮に奉献するときの白布にあしらわれた車輪紋を中央に小さく重ねたものである点、源氏車の紋章を佐藤氏の流れを汲む武士が頻用していることからも、榊原氏は藤原秀郷の後裔が仁木氏の配下となって伊勢神宮との関係をもった者らの後裔と思料される。
 藤原秀郷が居城を築いた下野・安蘇郡下の唐沢山麓に開かれた佐野荘から、佐藤姓は"佐野の藤原"の謂とし、秀郷の後裔となる奥州藤原氏の庶流として陸奥・信夫郡を領掌した佐藤基治の子である継信・忠信兄弟は源義経に忠節を尽くした武士として知られている。
 榊原康政は初め松平氏と反目した酒井忠尚の小姓を務めていたが、桶狭間で織田信長が今川義元を討った1560年家康に臣従した。
 以往、康政は本多忠勝、大須賀康政、大久保忠世らとともに家康旗本先手四将の一人として活躍することとなる。
 榊原康政の遠祖が陸奥・信夫郡を領掌した佐藤基治であったならば、飯坂温泉の湧く地を支配し"湯の庄司"と呼ばれた基治の後裔となる榊原氏もまた『枕草子』が指摘していると思われる伊勢・一志郡下の"ななくりの湯"を拠点とした訳で、源義経に抜きん出る忠節を尽くした佐藤継信・忠信兄弟らの母とは異にするも、佐藤基治は上野に在地する大窪太郎なる者の娘を正室としたと伝え、その大窪太郎は頼朝の御家人に取り立てられたともし、北条時政の郎党であった天野遠景の後裔とする尾張藩士の天野信景が古書を纏めたとする『浪合記』が記す徳川氏の遠祖という得川有親・松平親氏父子が上野・多胡郡に在地した奥平氏とともに足利勢に圧されて14世紀に三河へ転じたとする処と符合し、家康の旗本先手を務めた大久保忠世が佐藤基治に娘を嫁した大窪太郎の後裔であったならば、榊原康政は遠祖の姻戚を頼んで家康の幕下に参じたとも思われる。
 頼朝の要求に屈して源義経を殺した藤原泰衡の父・秀衡の庇護を受けた義経が平泉に在った時に迎えた室を佐藤基治の娘とする説を見せ、基治の岳父となる大窪太郎なる者を『浪合記』が徳川氏の遠祖とともに上野から三河へ転じた奥平氏と眷属関係に在った者とするならば、奥平氏の祖となる有道行時の諱に符合する名を『愚管抄』巻第六に看取し、"ミセヤノ大夫行時"は源頼家の嫡子・一幡を生んだ娘の母となる女を迎えた比企能員の岳父であり、能員の岳父となる行時はまた児玉党の武士にも娘を嫁していたとする文脈からは不可解な一文を北条時政の邸で天野遠景が比企能員を刺し殺した事件を叙述する段落の末尾に付け加えており、上野・多胡郡に所職を得た有道行時の祖父となる経行は新田・足利の祖となる源義国を養父として源義家の孫であり且つ平正盛の外孫となる経国に娘を嫁して、経国は有道経行が拠点とした武蔵・児玉郡阿久原郷に隣接する地に河内荘を立券しており、河内経国が正室とした女の父は白河院政期の摂関家である藤原師実の子・経実であって、平治の乱が勃発する前年に即位した後白河法皇の長子・二条天皇の母方祖父となる人物が藤原経実で、頼朝の父を破った平清盛が廟堂に権勢を拡げ始めた時期に二条帝の子として母の名も伝えぬ六条天皇が生後7ヶ月で即位し、満4歳に達する前に退位した後、清盛の室の妹が生んだ高倉天皇が即位している。
 二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘を正室とした河内経国に娘を嫁した有道経行の祖父となる惟広は一条天皇皇后・定子の父である藤原道隆の家令を務め、有道惟広より5世先となる氏道は『続日本後紀』に常陸・筑波郡の生まれと記され、平高望の祖父とする葛原親王の家令を務めて仁明天皇が即位した833年に有道姓を与えられるが、有道姓を与えられた氏道の祖父にとって従弟となる者の名を"羊"と伝え、708年に児玉郡に隣接する秩父郡下で銅が発見された3年後に往時の台閣で銅貨鋳造の任に就いた多治比三宅麻呂が揮毫したと考証される上野・多胡郡に建立された碑は"羊"に多胡郡の領知を委ねたとし、三宅麻呂の兄・嶋の玄孫となる者が有道姓を与えられた氏道の仕えた葛原親王を生んだ多治比真宗であった。
 二条天皇の母方祖父となる藤原経実の娘とともに有道経行の娘をも迎えた河内経国の開いた荘園と隣接する児玉郡稲沢郷を所職とした盛経は父が平正盛の外孫となる縁の為か清盛の祐筆を務めたとする伝を見せ、河内荘を武蔵・児玉郡に開いた経国は晩年を京・鞍馬に過ごしたとし、頼朝の父が清盛と陣を同じくした保元の乱に頼朝の父の陣に参じたと伝えることからも、源義経は頼朝の父の子ではなく、実に頼朝の曾祖父の弟として河内経国の父である源義忠の曾孫となる者であった可能性を憶測する。
 河内経国の子として武蔵・児玉郡稲沢郷を所職とした盛経の後裔を唱え、紀伊・日高郡下の野長瀬荘を所職とした領主が在ったが、武蔵坊弁慶を日高郡の生まれとする伝承を見せ、同郡にはまた陸奥の北上川流域に蟠踞して源頼義に滅ぼされた安倍氏の後裔を唱えた族が在った。
 日高見国とは『常陸国風土記』は常陸であるとし、金田一京助は北上川のこととしたが、紀伊・日高郡に北接する有田郡を流れる有田川流域に在った阿弖川荘に当てられた綴りから、朝廷に帰服した大墓公阿弖利爲とは天照大神の孫として天火明命の弟とするニニギ命が筑紫から日向を経て紀伊に上陸した後裔であったかも知れず、朝廷が大墓公を冠していることは河内に見られる古市古墳群や百舌鳥古墳群に葬られた天孫族であったかも知れない。