千家家の御曹司と宮様のお嬢さんがめでたく婚礼を挙げた。

 千家家は鎌倉幕府が倒れた後の14世紀に北島家と岐れた出雲国造家で、皇祖神・天照大神が須佐之男命との間に生した天穂日(あめのほひ)命の子・建比良鳥(たけひらとり)命の後裔となる宇賀都久怒(うかつくぬ)が出雲国造に任ぜられたことを家の興りとする。

 宇賀都久怒の後裔が本拠とした地は出雲東部にて熊野大社の在る意宇(おう)郡であったが、出雲郡杵築郷に在る出雲大社の祭祀をも兼ねるようになったものと推測される。

 皇祖神・天照大神と婚じた須佐之男命は出雲族の祖と言われ、子の大貴己(おおなむち)命は大和川を遡った奈良盆地の東涯に見る三輪山を前に纏向遺跡が発掘された地に在る大神(おおみわ)神社に祀られているから、朝鮮半島南端に在った任那の王族が山口県萩市の須佐湾に上陸したものが製鉄の民・出雲族で、奈良盆地に皇居を定めた三輪王朝の王族であったと思われ、大貴己命が皇統譜第8代・孝元天皇の孫として阿倍氏の祖となる武渟川別(たけぬなかわわけ)の娘への求婚した処、因幡にて白兎が現れ意を遂げる預言を得たとする話から、東海道の制圧を任じた武渟川別は日本列島に在地した族を出自としたものであろう。

 出雲大社が在る出雲郡杵築郷の号から、国東半島の西側付け根に位置する地に宇佐八幡宮が在り、東側付け根に豊予水道に突き出た伊予の佐田岬半島と相対した杵築の地名を見ることからも、出雲族の近畿への進出の過程を推測させ、出雲大社の祭祀をも兼ねるようになったのは熊野大社の祀る宇賀都久怒の後裔の遠祖は族長の交代を示す儀式の"火継式"の号から、中央アジアに棲息したイラン系のサカ族であったと思われる。

 拝火教はアフガニスタン北部のバルフの街に発祥したとされ、アレクサンドロス3世の一行はバルフの街を過ごし、百年後にバクトリア王朝を建てるディオドトス1世が決起した地もバルフの街であった。

 出雲国造家の遠祖・天穂日命の兄・天忍穂耳(あめのおしほ)命を父とする天火明(あめのほあかり)命は厚田神宮の祭祀に与った尾張氏の祖とされ、皇統譜第6代・孝安天皇の伯母をオキツヨソタラシ媛とする点は"隠岐の他所をたらす媛"の意と思われ、朝鮮半島から日本列島への進出の過程を推測させ、大貴己命の求婚が叶うとの預言を為した白兎が現れた因幡・八頭郡から美作へ向かった山間の八上郡に尾張氏が在って、尾張氏を出自とした佐治重貞は和田義盛と戦った北条義時に与して鎌倉へ赴いている。

 尾張氏の祖・天火明命を祖とする海部氏は丹後・宮津に在る籠神社の祭祀に与り、若狭湾に注ぐ由良川を遡った加佐郡有路郷には飢えに倒れた天火明命を介抱して娘を与えたという蟻稚菟道彦(ありちうじひこ)を祀る延喜式内社の有良須(あらす)神社が在り、近傍には武内宿禰を祀る祠を夥しく見せ、何よりも元伊勢神宮内宮・外宮が在る。

 出雲国造の遠祖・天穂日命の子・建比良鳥命から派した後裔は武蔵国造、上総の海上国造、遠江国造であるが、天穂日命や天忍穂耳命らと兄弟となるアマツヒコネの号は近江との関係を推測させ、若狭湾に臨む敦賀に上陸して野坂山地を越えて直ぐとなる近江・伊香郡を連想させる伊香色謎(いかしこめ)命が生んだ子を皇統譜第10代・崇神天皇とし、伊香色謎命の父を大ヘソ杵と伝える点は琵琶湖の在る地が航海を巧みにしたことを想像させる古族から見て本州島の臍に該ることを指した号と見られ、アマツヒコネの後裔を木国造とする点、紀氏の遠祖は近江にこそ在ったものと思われ、その点は近江を本拠とした佐々木氏の淵源をも示唆し、崇神天皇を生んだ伊香色謎命の母を高屋阿波良命とし、徳島県吉野川市に伊加加志神社を見る点からも紀伊は近江に在地したアマツヒコネの後裔である木国造が四国へ渡海する拠点とした地であったことを推測させる。

 従って、出雲国造の遠祖・天穂日命の子・建比良鳥命より派したと伝える族が阿波国造を祖とし、海上国造とともに上総の太平洋岸となる埴生郡を支配したと伝える点を得心させる。

 建比良鳥命の後裔を遠江国造とし、一方、遠江国造を伊香色雄命の後裔とする伝も同様である。

 天穂日命の子・建比良鳥命より11世とする宇賀都久怒を出雲国造の祖とすることからは、鎌倉時代から各地に拡がりを見せた宇賀神信仰を想起させ、鎌倉の銭洗弁財天として知られる宇賀福神社や、『太平記』に叙べられる北条時政が参籠した江ノ島・弁財天、北条時政とは従兄弟の続柄とされる熊谷直実の後裔が獲得した近江の所領が臨む竹生島・弁財天など、人頭蛇身の宇賀神は拝火教の発祥した中央アジアに棲息したイラン系のサカ族と同系とされるスキタイ族を出自とした人頭蛇身の女が黒海の北西部に在って、ヘラクレスの子を生んだとするヘロドトスの著述を想起させる。