旧中山道が過ごす群馬県安中市原市の旧家・真下(ましも)家が所蔵する文書に武田信玄が山本勘助に宛てた書状が含まれていたとして2008年報道されたことが在った。
 武蔵坊弁慶と並んで実在を歴史学者に疑われてきた山本勘助らしき人物の存在を証す文献が発見されたことで、史家の間では一大センセーションを巻き起こした。
 安中市の旧家・真下家が所蔵していたことに寧ろ深い感慨を覚えたのは私だけであろうか。
 『武蔵七党系図』児玉党条は摂関政治の時代から院政の時代を経て平氏政権が隆盛を見た凡そ200年の間に、今の群馬県から埼玉県に亘って繁衍した武士団を後世に伝えている。
 児玉党条に表れる封建領主が多く鎌倉時代に北条得宗家の被官になっていることから、柳田国男は児玉党と呼ばれた武士団を傭兵の魁と評した。
 しかし、そも北条氏自体、時政より先の世系は全く知られていない武家である。
 『武蔵七党系図』は児玉党なる武士団を朝廷の吏僚であった有道氏の後裔としている。
 有道惟広(これひろ)は藤原道長の長兄として清少納言が仕えた一条天皇皇后・定子の父となる中関白・道隆の家令(かみ)を務めたが、家令は歴とした律令職であった。
 惟広の子・惟能(これよし)は中関白の嫡子・伊周(これちか)の家令を務めたが、996年伊周の叔父である道長が左大臣に就くや大宰府へ左遷され、惟能は武蔵・児玉郡下に在った官営牧場の監督官として関東山間の僻地に赴いたと伝える。
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 その有道惟能が赴任した官営牧場の在った地が今の埼玉県児玉郡神川町神泉村で、群馬県と埼玉県の境を成す神流川に臨む。
 この有道惟能の孫とする弘行は今の埼玉県本庄市の平野部に進出し、弘行の弟・経行は祖父・惟能が牧監を務めた神流川畔の阿久原の地を本拠としたと云う。
 有道経行は娘を源経国の継室としているが、源経国とは源義家から河内源氏の家督を認められた義忠の子であって、新田・足利両氏の祖となる叔父・義国に扶育された人物だ。
 源経国が叔父・義国に扶育されたのは幼くして実父である義忠を喪った為で、義忠は佐竹・武田両氏の祖となる叔父・義光に謀殺された。
 そこで、義忠の甥に該り頼朝の祖父となる為義は河内源氏の惣領の地位を簒奪した。
 実父を喪った経国は叔父・義国に扶育されながら、父の仇である大叔父の義光を討っているが、既に河内源氏の惣領の地位は従兄の為義に奪われており、河内経国の名で後世に存在を伝えることとなる。
 河内経国は平家の祖である正盛の娘を母とし、父・義忠が祖父・義家より家嫡を認められた人物であったことを思うと、正しく源平の血を併せ持った人物であり、父・義忠の長兄として頼朝の曽祖父となる義親が度重ねての殺人の罪科に因り朝廷より討伐の命を被り、義親を誅殺した者が平正盛であった。
 源平の良血を併せ持つ河内経国は後白河法皇の子である二条天皇の岳父・藤原経実の娘を正室としており、そうした経国に娘を継室として贈った者が有道経行であった。
 河内経国は継室の父となる有道経行が本拠とした武蔵・児玉郡阿久原と丘陵を挟んで隣接する利根川支流の小山川流域山間に河内荘を立券し、今に埼玉県児玉郡神川町河内の字名を遺している。
 この河内の地から経国の岳父となる有道経行が本拠とした阿久原へ伝う山間の途中に稲聚神社を号する祠を見ることは驚きで、源義経の郎党であった鈴木重家の生家は和歌山市藤白を本拠とする水軍の将として識られた藤白鈴木家であり、その分流が伊豆半島の稲取岬を拠点とした江梨鈴木家であるからだ。
 河内経国には藤原経実の娘である正室から稲沢盛経と称した子と盛経の弟として園城寺で得度した僧侶である蓮俊なる子を儲けたと伝え、また有道経行の娘である継室からは経忠なる子を儲けたと『河源記』は記している。
 経国の子・盛経の姓・稲沢は経国が荘園を立券した河内の地と隣接する字名であり、稲沢の地から有道経行が本拠とした阿久原の地へ伝う山道の途中に稲聚神社と号する祠を見る。
 平正盛の外孫となる河内経国の子・稲沢盛経は平清盛の祐筆を務めたとする伝承を聞かせ、盛経の後裔と伝える武家が今の和歌山県田辺市に在った野長瀬荘を営んだ武家であり、武蔵坊弁慶を田辺市の生れとする伝承を聞く処から弁慶の素姓とは河内経国の子として園城寺で得度したという蓮俊なる僧侶であった可能性を感得する。
 『河源記』が記す経忠なる子こそ源義経の実父であった可能性を感得し、詰まり義経は頼朝の実弟ではなく頼朝の曽祖父となる義親の弟・義忠の曽孫となる者であって、義経は河内源氏の家嫡を義家から認められた義忠の流れを汲み、且つ平家の祖・正盛の外孫となる経国の流れを汲んで、壇ノ浦から京に凱旋した義経に後白河法皇が官途を授けたのは自身の子の外戚となる経国の孫であるだけでなく、源平の良血を併せ伝えた俊英として当に将軍職を期待したからであったと思われる。
 そこを焦燥に駆られた者らが鎌倉に在った者たちで、頼朝の岳父とする北条時政は伊豆の韮山盆地に邸を構えていたと伝える。
 『愚管抄』巻第六は北条時政について言及した段落にて"ミセヤノ大夫行時"なる者が比企能員と児玉党の武士に娘を稼していたと記しているが、有道経行の子・行重は秩父郡司・平重綱の妹を母とし母方伯父となる重綱の猶子となって以後、堂々と母方の本姓である平姓を称え、『武蔵七党系図』は行重の流れに"平児玉"の肩書を付している。
 行重は上野・多胡郡多比良郷に拠点を構え、行重の子・行時は同郡片山郷を拠点としたと伝える。
 2008年明らかにされた真下家所蔵文書の一は武田信玄が山本勘助と思しき人物に宛てて富士五湖方面を支配する小山田氏の許を訪ねるよう命じており、小山田氏の祖・有重は今の東京都町田市小山田を領地とし、秩父平氏の流れを汲む者とされている。
 小山田有重の子が稲毛重成で、北条義時の義弟であった稲毛重成を施主とした相模川架橋の落成式典に臨んだ後、鎌倉への帰途の落馬事故を因に頼朝は死亡したとされる。
 行重・行時父子の先代となる経行の兄・弘行の後裔は今の埼玉県本庄市一帯の平野部に繁衍したが、弘行の後裔として児玉郡真下郷を拠点とした基直もしくは基行の諱を伝える者が見られ、基直が基行とも伝える謂れを同族として上野・多胡郡下に拠点を構えた行時の婿となった所以と推察すれば得心する。
 弘行の長子・家行は武蔵権守に就いたとされ、家行の弟・資行は西入間郡に拠点を構え、武蔵中央部に進出している。
 資行の後裔は隣接する比企郡にも繁衍し、比企能員は比企郡を拠点とした比企掃部允・比企尼夫婦の猶子となった者とされる。
 北条時政晩年の愛妾・牧の方の親族となる牧宗親は平頼盛の領地であった駿河郡下の大岡牧を監督していたが、宗親の姉となる者が頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼であり、平頼盛の母であった。
 池禅尼・牧宗親の姉弟は有道惟広が仕えた中関白・道隆の子であり、有道惟能が仕えた伊周の弟となる隆家の来孫に該る者らだ。
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 武蔵・児玉郡真下郷を所領とした基直=基行の後裔は有道惟能が牧監を務めた阿久原の地と群馬・埼玉両県境を成す神流川を挟んだ向かい側の丘上に真下城を構え、鎌倉幕府が倒れた後の14世紀、真下伊豆守は神流川上流の上流となる三波石峡の川床に転がる石を愛でて三波殿の渾名を後世に伝えている。
 真下氏が城を構えた地は庭石の産地として識られるが、北条時政が邸を構えた韮山盆地の狩野川畔近郷もまた採石場を見受け、鎌倉に見る遺跡は北条氏が何か採石と関わりを持った一族であったような印象を与える。
 有道惟能が牧監を務めた阿久原の地は児玉郡神川町神泉村と呼ばれるが、戦国期の箕輪城主・長野業正の配下であったとする上泉信綱は今の前橋に邸を構えていたとされ、柳生宗厳に陰流を伝えた剣士を想うと、有道経行の子や孫が拠点とした群馬県高崎市吉井町には今に至るまで念流の剣道場を見るのは印象深い。
 大和・添上郡柳生郷の武家は有道惟能の岳父であった菅原薫宣の後裔を称えていた。